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「不老不死というのはね、老いず死なず──ということではないわ」
 夕暮れのカフェは、コーヒーの香りで満ちていた。緩やかな角度で差し込む夕日は柔らかく、赤みがかった金色の光がコーヒーカップの縁を彩る。
 メリーことマエリベリー・ハーンは、友人である宇佐見蓮子の唐突かつ理論も論理も常に三段階ほどすっ飛ばす言動には日頃から慣れていたが、さすがに思わず問い返した。
「唐突ねぇ。でも、だったら、なんだっていうの?」
 いくらなんでもケーキを食べてるときの話題じゃないんじゃないかしら──メリーは半ば抗議めいた口調になっているのを自覚していたが、隠すつもりもごまかすつもりもまったくなかった。
 対する蓮子は、ケーキの最後の一口を豪快にほおばり、冷めたコーヒーを一気に飲んでから、ようやく口を開いた。
「老いも死もなくならないわ。なくなるのは境界。ボーダーライン。彼我を分かつ目に見えない線」
「……境界線?」
 メリーはいぶかしげに聞き返す。蓮子はフォーク片手にうなずいた。
「そう。生と死の境界線。ここまでは生、こっちから先は死。そんな境目がなくなったらどうなると思う?」
「ええと、それってつまりどういうことかしら」
 いつになくもって回ったような話しぶりに、メリーはこの会話のゴールが相当遠いことを覚悟した。出発点も着地点もあいまいなやりとりには慣れていたが、さすがに今回はいまいちつかみどころがない。
「まず、死とは何かしら?」
「ちょっと、質問で質問で返すの?」
 あきれたようなメリーの声に、蓮子はあわてて言葉をつけ足した。
「死の定義よ、定義。どういう状態であれば、それは死んでいるといえるのかってこと」
「うーん」
 メリーは首を傾げる。考え込むように遠くを見ながら、ゆっくりを口を開いた。
「でもそれって、心臓死と脳死とで、違ってくるわよね。ああ、それと社会的死っていうのもあるか……」
 指折り数えながら、メリーは続ける。
「あと、生物の死と無生物の死では話は変わってくるでしょ。文学的にいって比喩って方向も……」
「あーうー、あんまり細かく分類分けすると面倒だから、ざっくりといきましょうよ、ざっくりと」
 メリーの言葉を遮るように蓮子は言った。少し不満げに、メリーは唇をとがらせる。
「何よ、自分から話題を振っておいて、ずいぶん雑ね」
「えー、だって専門外なんだもん。それにね、科学者にとって、わからないことはわからないと言うのは大切なことなのよ」
 蓮子の弁明に内心苦笑しつつ、メリーは言った。
「はいはい。じゃあ、ざっくり定義ってことで」
 こほん、とわざとらしく咳払いをひとつ──蓮子は学生に講義をする教授のような口調を取り戻す。
「では改めて。まず、死ってどういうことかしら? あ、対象は人間とか動物とか、まあそんなあたりで」
「んー。まず、呼吸が止まって心臓も止まる、というのは間違いないわよね」
「その状態から蘇生することもあるわよ?」
「もう、すぐ揚げ足取るんだから。……でも、蘇生というからには、それは間違いなく死んでいるってことよね。逆説的に」
「逆説的に、の使い方が間違ってるような気がするけど、でも、まあそうね。生きていないということは、死んでいるってことだと言える。生と死は正反対の現象とするならね」
「医学とか生物学じゃなくて、なんだか禅問答トークになってない?」
「まあまあ、その辺はざっくりと」
 メリーの言葉に、蓮子は取り繕うように笑う。その笑顔を見て、ため息をつくメリーの顔には、諦念に似た何かがにじんでいた。
「はぁ、ざっくりねぇ……。まあいいけど。でも、確かに言われてみればそうかもしれないわ。死は生ではなく、生は死ではない。死を定義するってことは、生を定義することでもあるわね」
「そうよ、まさにそれが言いたかったのよ」
「ずいぶんと長い前フリね……というか、たぶん、そういう話じゃなかったような気がするんだけど」
「まあまあ、それはそれ、これはこれ」
「えー」
 ふくれっつらのメリーからわずかに目をそらしながら、蓮子はやや早口で言った。
「生を見つめるならば死を見つめねばならず、死を知るには生を知らなければならない。死を想え、とは即ち、生を想えということなのよ!」
「話が飛躍しすぎだと思うんだけど……」
「まあまあ、ケーキどうぞ? 不老不死を実現するのは、簡単よ。生と死が定義づけられるのなら、その定義から外れればいいだけのこと」
「ちっとも簡単そうに聞こえないわ」
「生でもなく、死でもない。その状態は、生と死の境界を取り払えば、今すぐにだって実現可能よ。生きてもいないし、死んでもいない。生きていないから老いることはないし、死ぬこともないわ。だって生きていないんだもの」
「なんだかシュレディンガーの猫を思い出す話ね」
「そうね、不老不死とは、確率の存在になることかもしれないわ」
「不老不死になりたければ、箱に入れってこと?」
「いくらなんでも、それは違うと思うわ」
「何よー。結局、物理学っぽい話に持っていくんだから! わたしは専門外なのよ」
「ごめんごめん」
「誠意が感じられないわ。もっと物理的かつ具体的に謝意を表明してちょうだい」
「どういうことよ」
「あーあ、ケーキ食べたいなぁ」
「うぐぐ。ちょっと、わたし今月、厳しいんだけど」
「そりゃあ、あれだけゼミの飲み会に行けば厳しくなるでしょうよ……」
「何よぅ」
「じゃあ、こうしましょう。ケーキ代はあなたのおごり。食べるのは、あなたとわたしで半分こ」
「ジョリィ理論ね。悪くないわ」
「ねえ、言いにくいことなんだけど、それ、たぶん若い子には通じないわ」
「えー」
「それはそれとして、今日のケーキは二種類ね。ねえ、アップルパイと、ショコラタルトだったら、どっちがいい?」
「うーん、悩ましいわね……あ、これは? どうぶつケーキ☆うさぎちゃん! かわいくない?」
 蓮子が指さしたのは、今月の新ケーキと題された、かわいらしい動物を模したケーキだった。マジパンで作られたつぶらな瞳が、じっとメリーを見つめている。
 確かにかわいいけど、と前置きしてからメリーは言った。
「いやよ、あなた、その手のもの、必ず真っ二つに割って食べるじゃない。銘菓ひよこの首もいで食べるタイプでしょ」
 ちなみに鳩サブレは木っ端みじんに細かく砕いて、一口大にしたあげく、牛乳に浸してから食べるのが、蓮子という少女だった。
「そういう背徳感とか罪の意識がおいしいんじゃないの」
「意味がわからないわ。もう、じゃあ、アップルパイでいいわ」
「自分で決めるなら、他人に選択を迫らないでよ。あ、ラッキー、ちょうど焼きたてのが出されるみたい! 怪我の功名ね!」
「たぶん使いどころが違うわよ、その慣用句」
 
「ねえ、さっきの話なんだけど」
「ん、何? パイの一番サクサクしてるところは、いくらメリーにだって渡さないわよ」
「あげるわよ……その代わり、林檎はわたしのものよ。えぇと、そうじゃなくて、生と死の定義についてよ。死の定義の起点が生なら、結局のところ、人間は死ではなく、生からは逃れられないってことじゃないかしら?」
「当然よ、だってわたしたちは死んでるんじゃなくて、生きているんだもの」
 朗らかにそう言い切って、蓮子はアップルパイの一番サクサクした部分を口に含み、楽しそうに笑う。ひとしきり食感を楽しんだあと、お代わりのブラックコーヒーを一口飲んで、ふぅ、と満足げなため息をついた。パイのかけらがついたままのフォークを、指揮棒のようにふるいながら、蓮子はまた話し始める。
「ねえ、ガン細胞が恐れられる理由を知ってる?」
「は? ガン? 病気の?」
「そうよ、病気のガン。キャンサー。なんだかんだいって、いまだ三大死亡疾病のうちのひとつ。死因四天王ってやつね」
「数が合ってないわよ」
「まあまあ、ケーキどうぞ? 食べないならもらってあげるけど。蓮子さんの胃袋は友人のためなら、もうちょっとスペースを空けられないこともないわ」
「いやよ、林檎はわたしのものよ」
「けちー。まあ、いいや。ガンね、ガン。あれが嫌われてるのはね、簡単に言ってしまえば死なないからよ。死なないっていうのは語弊があるけどね」
「じゃあやっぱり死ぬんじゃないの、ガン細胞」
「まあ、そうなんだけどー。ざっくりよ、ざっくり。体の命令を聞かずに増え続けるんだから、死なないって表現してもいいのよ。ざっくり」
「そうかしら」
「細胞はね、個が死ぬことを前提にしたサイクルを組むことで、全体を生かしているの。個は全を支え、全は個の集合によって成り立つ、みたいな」
「……なんだか、焼きたてのアップルパイを食べてるときにする会話じゃないような気がするわ」
「え、そう?」
「これだから理系は」