-------------------------------------------------- PBeM『VOiCE』第2回リアクション 02-B 思い出さえあればいいから -------------------------------------------------- ●ウェヌスに捧げられた月  待望の水素発電所、本格始動へ  四月末から送電実験スタート 五月末には通常送電に  企業・一般家庭への節電要請、恒久的解除も秒読みか  水素発電が変える、新たなくらし  どこか誇らしげな見出しが、街からのニュースとしてモバイルに公式配信されてきた頃、ふたつの丘にも春が訪れた。  風はまだ冬の冷たさを残しているが、日に日に春の香りが強くなる。やがて木々も芽吹き、あっという間にふたつの丘も緑で彩られるだろう。 「水素は、海水の……海水……あっ、陽兄! これは何て読むんダ?」 「どれどれ……水素は洋上風力発電によって得られたエネルギーを使い、海水を電気分解して生成。その後、必要量は水素発電所に輸送され、余剰分が発生した場合は貯蔵される、か。なんだかずいぶん難しそうなものを読んでるネ。今晩あたり、熱出すヨ」 「出さない! ねえ、大兄、じゃあ次、これは?」  陳宝花は、家業の手伝い──中華料理のデリバリーから帰ってきた長兄をつかまえると、自分が読んでいたテキストの文面を目の前に突き出して見せた。 「どうしたんだい、急に。宿題でも出されたのカ?」  兄──宝陽は妹に尋ねる。 「違う、宝花の自由研究発表会」  なるほどね、と宝陽は自身が末妹と同じ年だった頃を思い出したのか、わずかに遠くを見るような目をした。そして、宝花のタブレットを手に取ると、空いていた席に腰を落ち着けた。 「いいだろう、勉強熱心なのはいいことダ。今日は時間があるから、付き合ってやろうカ」 「ほんと!? やったァ!」  兄と妹の勉強会は、母が夕食に呼ぶまで続いた。 ●「もう、ワインは買わなくていいわ」  窓から差し込む日は、日を追うごとに暖かさを増していた。だがこの空間では、季節の変化を感じにくい。一年を通して、いつでも快適に過ごせるように、温度も湿度も調節されている。見舞いに来る教え子のひとり──榛雫が、時々持ってきてくれる──きっとお小遣いの中から工面しているのだろう──花だけが、キルシ・サロコスキの病室を彩る、唯一の色彩といえた。  もともと、あまり派手な色調が好みではないキルシは、自宅も服も、どちらかといえばモノトーンで統一していた。だから、この病室も違和感は特にないし、色だけで考えれば好みの部類に入る。だがそれでも、雫が持ってきてくれる花を見ると、ほっとするのだった。幼いなりに、病院という場所柄を考えているのだろう、あまり香りの強くない、だが淡く明るい色の花は、確かにキルシの心を慰めている。 「このまま投薬を続けましょう」  そう言ったのは、彼女の主治医ドクター・シュトライヒリングだ。娘に似ていつも仏頂面だが、患者に耳触りのいい、実のない励ましめいたことを言わないところを、キルシは好ましくさえ思っていた。 「現時点では、薬の量を増やす必要はありません。教え子さんとの『授業』が、おそらくよい刺激になっているのでしょう」  キルシと同じ病院に入院している教え子、衛宮さつきとのささやかな『授業』は、症状の進行を抑える効果があるようだ──偽薬効果じゃなければいいけど、とキルシは自嘲気味に考える。 「外出制限も、今の状態であれば特に行いませんが? 外泊申請も可能ですよ」  キルシの意思を確認するように、もう一人の主治医ドクター・ベネットが言う。キルシは、その言葉に首をゆるゆると横に振った。 「いえ……今のところは。もう少し暖かくなったら、考えます」  そう、とドクター・ベネットが頷く。その顔は医師のそれで、特に感情めいたものは伺えなかった。  それでは、と病室を去ろうとする医師たちの背に、キルシは声をかけた。 「彼は……彼はどうなんでしょうか?」 「彼、と言いますと?」  振り向いたドクター・シュトライヒリングに、キルシは尋ねる。 「わたしの、教え子です」  そして、あなたの患者でもある──さすがに、そこまで言わなくても通じるだろうが。キルシの問いへの答えは、さらりと返ってきた。下手な慰めも感傷も、立ちはだかる現実には無用だとばかりに。 「あなたと同じです」  ああ、この人はやっぱり娘にそっくり。キルシは微笑ましくなる。 「そうですか」  キルシもまた、その答えをごく自然に受け取る──もういまさら、教師として、何に絶望しろと? ●春にして君を思い  榛雫が職員室のドアをノックしようとするのと、クロワ・バティーニュが職員室に向かって飛び込むように走ってきたのは、ほぼ同時だった。 「わゎ」  雫の存在に気づいたクロワが、あわてて立ち止まろうとして、たたらを踏む。 「どうしたの、そんなにあわてて……?」  勢いに気圧されつつも雫が尋ねると、クロワは笑って答えた。 「ローマン先生にねぇ、お願いごとに来たの」  クロワの口から出てきた名前に、雫は内心ドキリとする。なんだか急に心臓の鼓動が早まるような気さえした。 「そ、そうなの。私もローマン先生にお話があって……」 「わぁ、そうなんだ〜。じゃあ、一緒に行こ!」  そう言うと、クロワは雫の返答を待たずに手をつなぐと、職員室のドアを元気よくノックし、開けた。 「え、ちょっと待、」  そのままクロワに引っ張られるようにして、雫も職員室に入る。クロワはきょろきょろと周りを見回し、目当ての人物を見つけると、ぱたぱたと走り寄った。 「せんせー! ローマン先生ー!」  資料を作っていたらしいローマン・ジェフリーズは、クロワの声に顔を上げた。画面をタップしてデータを保存すると、ローマンはクロワと雫に向き直る。 「どうしたんだい?」  雫が何からどう言い出そうか、口ごもる横で、クロワは答えた。 「お願いがあるの、合唱祭のことで」 「合唱祭?」  一瞬、ローマンの顔が曇る──また、「練習には出ない!」とかトラブルだろうか。 「あのね、さつきと幸子郎も合唱祭に来て欲しいんです」  クロワの言葉に、雫は思わず首をひねったが、ローマンは一瞬の間のあと、微笑んだ。 「うーん……こればかりは、先生からはなんとも言えない。病院の先生が判断することだからね」  ローマンの返答を聞いて、クロワはがっかりしたようだった。 「そうなんだぁ……」  目に見えてしょんぼりしたクロワに、慌ててローマンが言った。 「いや、もちろん、先生からも病院や親御さんに聞いてみるから」 「ほんと!?」 「あ、ああ、うん。期待に沿えるかは分からないよ」  ローマンはそう言うが、クロワはあまり聞いていないようだった。 「やったぁ! じゃあ、あとね、先生。もうひとつお願いがあるの」 「今度はなんだい?」 「キルシ先生と一緒に練習してもいい? あ、あとねぇ、もし病院の先生がね、さつきと幸子郎は来れないよって言われちゃったら寂しいから、その時は合唱祭を生中継してもいい?」 「ずいぶんたくさんあるんだなぁ」  ローマンが思わず苦笑する。 「じゃあ、まずひとつ。キルシ先生との練習は、きっとキルシ先生も喜ぶだろうけど、これもやっぱり病院の先生にきちんと説明して、許可を得ること。病室で騒いではいけないよ」 「はーい!」 「それから、生中継は……難しいかな。ああ、できないという意味じゃないよ、クロワ。学校に機材はあるから、中継自体はできる。ただ撮影を担当する先生が当日忙しそうでね……そこまでは手が回りそうにないなぁ」  残念そうにローマンが言う──が、それは嘘だった。  合唱祭は、学校側でも機材を用意して、録画している。卒業時に、学校生活のアルバムとして映像を収めるためだ。だが、保護者からは、「もっとうちの子を映してくれ」やら「編集が甘い」やら、あとからいろいろ文句を言われることも多い。かといって個々の要望すべてに応えることはできないし、学校判断で編集したりしようものなら、また別のトラブルになりかねない。そのため、学校側はトラブル回避として、公式記録としてはクラス全員が映る引きの映像でしか録画していない。その代わり、保護者の見学や撮影も許可していた。「うちの子が活躍する瞬間」は各自で撮っておけ、というわけだ。とはいえ、生徒相手にそんなことを言うわけにもいかない。ローマンは、苦しまぎれの嘘に、自己嫌悪すら感じた。 「そっかぁ……」  クロワは当然、ローマンの心境に気づくことはない。残念そうに、下を向くだけだ。 「うん……ごめんな、クロワ」 「ううん、でも録画したのを見せるのはいいでしょ?」 「ああ、構わないよ。さつきと幸子郎と、キルシ先生にも見せてあげるんだよ」  ローマンが言うと、クロワは笑顔で大きく頷いた。 「あ、それとね」 「まだあるのかい?」 「うん。わたしじゃなくて、雫が」  クロワの言葉に、ローマンが雫に向き直った。 「雫はどうしたんだい?」 「え、あ、えっと」  急に話を振られて、雫は思わず口ごもった。心配そうに、クロワに顔を覗き込まれて、余計に萎縮してしまう。 「あ、あの……」  頭の中を整理しつつ話そうとするが、最初の言葉がなかなか出てこない。 「雫も、合唱祭のことかい?」  見かねたのだろうか、ローマンの問いに、雫は三度ほど首を大きく縦に振った。 「その、合唱祭の練習のことで……キルシ先生にも練習を見てもらおうと思って」  やっとの思いでそう言ってから、雫は慌てて言葉を付け足す。 「あ、あの、えっと、来てもらうとかじゃなくて、……その、録画とか録音してものとかで」 「ああ、なるほどね」  雫が最後まで言い終えるのを待って、ローマンは言った。 「そうだね、先生もあまり音楽について教えるのは得意じゃないから、キルシ先生にアドバイスをもらえると助かるな」  そう言って笑って見せる。その笑顔を見て、雫はようやくほっと一息ついた。 「じゃあ、今日の練習録画していい?」  横からクロワが問うと、ローマンは頷いた。 「やったぁ! じゃあ雫、今度一緒にお見舞い行こう? その時、キルシ先生に歌のこと教えてもらおうよ、ね!」 「ええ、そうしましょう」  教え子のやり取りを、ローマンは嬉しそうに眺めるのだった。 ●Flowers for Inpatient  日曜日の朝、クロワ・バティーニュは颯爽と足取りも軽く、自宅を出発した。いつも持ち歩いているタブレットには、合唱祭の課題曲『星の海を越えて』の伴奏データと楽譜データを忘れずに入れてきた。昨日、寝る前に十回は確認したのだから、準備は万端だ。今日のために、昨夜は星を見るのも我慢した。寝坊するわけにはいかなかったからだ。雫とは、病院ロビーで待ち合わせる予定だ。  合唱祭まであと一週間。委員長改め鬼の特訓部長(期間限定)御手留乃歌と、音楽が得意な柳瀬小唄が中心となった放課後練習もいよいよ本格的になっている。クラスの誰もがメロディと歌詞をしっかり覚えて、もう歌詞を見なくても歌えるようになっている──出来栄えはともかくとして、だが。口では愚痴や文句を言うものの、なんだかんだいって、入院中のキルシのためにも、とみんなはりきっている。  だが、クロワの心には、いつも引っかかるものがあった。それは、クラスの歌声がひとつになればなるほど、強くなる。  ──あの子たちだって、クラスメートだよ!  入院中の、衛宮さつきと穂刈幸子郎。  二人は、もうずいぶん長く入院している。さつきは心臓の病気で、幸子郎はなぜ入院しているのかは知らないが、入院しているからには病気なのだろう。正直なところ、合唱祭の練習が始まる頃までは、同じクラスに二人がいることも忘れかけていた。二人分の机が、いつも空いているのが、当たり前の光景になりつつあったのは確かだ。キルシのお見舞いで病院に来た時、ちらりと見かけたさつきの後ろ姿を、クロワは今でもはっきり思い出せる。  ずっとひとりで、病室にいるということ。  クロワがどんなに想像してみても、その生活は楽しそうなものには思えなかった。  毎日学校に来るのは難しくても、行事くらいはいいんじゃないかな──クロワはそう考えた。担任のローマンに頼んではみたものの、返事はあまり芳しくなかった。職員室では素直に引き下がってみせたが、内心ではクロワの期待通りにいかないことくらいは分かっていた。事情はよくわからないが、おそらく自分の願い通りに事が運ぶことはあるまい。それなら、自分で動くまでだ。クロワはそう考えた。幸い、クラスメートの雫も似たようなことを考えていたおかげで、こちらは上手くいきそうだ。  病院には、先に雫が到着していた。大人に混ざって、ロビーのソファーに所在なさげに座っているのが見える。今日も、雫は長い金髪にリボンを結っていた。風が吹くと、さらさらと流れるように揺れる雫の髪を見ていると、ときどき羨ましくなる──もちろん、自分のゆるふわウェーブだって、負けてはいないけど! 「おはよう、雫ー」  声をかけると、待っている間は心細かったのだろうか、嬉しそうに雫は立ち上がって、微笑んだ。 「おはよう、クロワちゃん」 「まずは先生のとこに行こっか」 「うん」  ふたりの少女は、まずはキルシの病室を目指した。クロワは、さつきと幸子郎には今日のことを伝えていない。せっかくだから、驚かせてやろうという寸法だ。 「さつきちゃんも幸子郎くんも、一緒に歌えるといいのにね」  エレベータの中で、雫がぽつりと言う。雫の手には、ささやかな一輪の花束が三つ──本当はもっと華やかなものにしたかったのだが、さすがに三人分とあっては予算オーバーだったのだ。その代わり、リボンをレースたっぷりのタイプにしてもらった。男子には恥ずかしいかもしれないが、キルシとさつきは喜んでくれるだろう。そう思うと、気持ちが弾んだ。 ●私が出会った少女  黒葛野鶫は、キルシ・サロコスキの病室を目指している。病院に着いて、もう一時間ほど経っていた。だが、一向に目的の場所にたどり着かない。不思議なもので、鶫が行こうと向かう場所は、いつだって鶫から逃げるようにどこかへ消えてしまうのだ──ということにしないと、かなりやるせない気持ちになってくる。 「……さすがに、GPSは使わないぞ」  自分にそう言い聞かせる。これは男のプライドだ。  手に持ったバレンタインのお返し用クッキーが、袋の中でかさかさと揺れる。母親が入院して以来、家事はほとんど鶫が行なっていた。今日のクッキーも鶫の手作りだ。最近は、お菓子でも料理でも、レシピを見ないでも、さっと作れるようになってきた。父親は忙しく、食事は外食で済ませてしまうし、ほとんど家にいない。自分の衣食住さえきちんと整えておけば、それで何の不足もなかった──買い物以外は。この世にネットスーパーの恩恵を最も受けているのは誰かと問われたら、その答えは鶫かもしれない。  母親の見舞いで病院を訪れることは何度もあったが、いまだに母親の病室までの道のりさえ覚えられない。これも、病院の壁がどこまで行っても白っぽくて、ろくな目印がないからだ。鶫はそう結論づけていた。  ようやくそれらしい病室を見つけて、ドアをノックし、開けた。 「……あれ?」  その病室のベッドにいたのは、鶫の知るキルシより、明らかに小さかった。というか、自分と同い年くらいにしか見えない。 「誰?」 「誰?」  ほぼ同時に、同じ言葉がふたり──鶫と、衛宮さつきの口からこぼれた。 ●歌のある風景  練習時の録音データを聞いたキルシは、開口一番にこう言った。 「みんな、元気なのね」 「ねえねえ先生、歌はどう? どうだった?」  クロワがベッドに乗り出すようにして、キルシの顔を覗き込んだ。キルシは、クロワの髪をなでながら言う。 「そうね……そうねぇ……。みんな、元気があって、とっても良いと思うわ」 「ほんと!? やったね、雫!」  クロワの笑顔に、雫も笑顔で頷いた。 「放課後の練習は、ローマン先生が教えてくださってるの?」 「ううん、委員ちょ……留乃歌と小唄がやってるよ」 「指揮は誰がやることになったの?」 「クラウディオくんと鈴香ちゃんのどちらがやるかで、ちょっともめたんですけど……練習はクラウディオくんがやって、本番では鈴香ちゃんがやることになりました」  キルシは教え子の答えに、やや間をおいて苦笑する──ローマン先生の「自主性尊重」は、今回も発揮されてるわけね。 「合唱祭まであと一週間だから、キルシ先生にもアドバイスしてほしいなって思って。本当は練習にも来てほしいんだけど……」  無理なんだよね、という言葉を、クロワは飲み込んだ。 「その……歌詞はみんな覚えたんですけど、まだちょっと……メロディがちゃんと覚えられない子もいるんです。……音楽は苦手って人が多いから」  雫が遠まわしな表現で、現状を伝える。雫たちのクラスは、音楽が苦手な子どもが多い。そこには授業として苦手という意味だけでなく、いわゆる音痴というのも含まれていた。雫は絶対音感があるだけに、練習のたびに、音のずれの違和感と戦う羽目になっている。雫にとって、ドにはドの音しかない。楽譜が示す音が、ドであればド、レであればレ以外にはないはずなのだが、どうも雫以外の子どもたち──特に、音楽が苦手だったり音痴だったりする者には、それがよく分からないらしい。雫にはもどかしくてならないが、うまく説明することもできず、練習は楽しいような、苦痛のような、なんともいえない状況だ。 「そうね……練習のとき、メロディラインは弾いているかしら?」 「最近では、そういうのはしてないです」  最初の頃は、伴奏ではなくメロディを単音で弾いて歌ってもいたが、今ではもうそういうことはしていなかった。 「それじゃ、練習の時にはまずピアノでメロディだけを弾いて、歌うようにしてみたらどうかしら。それと、メトロノームで必ずリズムを把握するようにしてね。音は合っていても、リズムが合っていないと、ずれているように聞こえてしまうから。それから、みんな遠慮しないで、口を大きく開けて歌うこと。自分の声が、きちんと自分に聞こえるようにね」  キルシに言われて、雫はメモを取った。留乃歌と話すのは気後れするが、キルシのアドバイスは伝えなければいけないだろう。 「それとね、先生」  クロワがいたずらっぽく笑いながら、キルシにそっと耳打ちする。 「まあ!」  キルシはそう言うと、楽しそうに笑った。 「素敵なアイディアね、クロワ。さっそく驚かせに行きましょう」 「でも大丈夫かなぁ? 病室だと怒られちゃう?」  クロワが心配そうに言うと、キルシはウィンクしてみせた。 「先生がいれば、屋上に行ったって叱られないわ。大丈夫よ」 ●蜂蜜クッキー  さつきは、鶫お手製のクッキーを頬張った。食事の時間以外で、お菓子を食べるのはなんだかドキドキする。しかも、クラスメートの男の子の手作りとあっては、なおさらだ。 「美味いか?」  鶫がぶっきらぼうに尋ねてくる。さつきはクッキーを飲み込むと、深く頷いた。 「うん、美味しい! 鶫くんすごいなぁ、お菓子作れるんだね」 「別に。買い物以外だったら、たいていできるから、すごくはない」 「えー! すごいよー!」  そう言うと、鶫はぷいと窓の向こうを見つめて、聞こえなかったような振りをした。  お互いにぎこちなく自己紹介しあってから、ものの十分ほどで、会話が弾むようになった。メッセージラインと違って、目の前に人がいて、声が聞こえる。それが、さつきにはなんだかくすぐったかった。 「いいなぁ、わたしもお菓子作ってみたいなぁ」  ベッドに備えつけられたミニテーブルに頬杖をついて、さつきが言う。鶫は、その言葉にどう返したものか、猛烈に逡巡する──今度、教えてやろうか。いやいや、いきなりそれはいかがなものか。また作ってきてやるよ、とか? いやいやいや、そんなの恥ずかしくて言えないし。いやでも、食べたいっていうなら、作るのはやぶさかではないし、別に構わないっていうか、なんていうか。いやいやいやいや。  ちなみに、さつきはなんとなく願望を口にしただけで、特に深く考えてはいない。いわゆる空回りである。  鶫が仏頂面のまま、葛藤しているのに気づかないまま、さつきは二枚目のクッキーを食べる。 「そういえば、どうしてクッキーを作ってくれたの?」 「え。いやー、それは、その」  考えすぎて、バレンタインデーのお返しだと言うのも、鶫はなんだか気恥ずかしくなってくる。そういえば、病院内で迷って、間違えて部屋に入ったとはいえ、今のこの状態は「鶫がさつきにクッキーを持って、お見舞いに来た」以外の何物でもない──そのことに気づいて、鶫の思考はオーバーヒートしかけた。だから、その時さつきの病室のドアがノックされたのは、鶫にとっては救いだったのだが。 「さつきー、練習しに来たよっ!」 「さつきちゃん、キルシ先生と一緒に屋上に……あら?」  入ってきたのが、同じクラスの女子ふたりとあっては、もはや鶫に逃げ場はどこにもなかった。  当然、明くる日──月曜日から「鶫くん、さつきちゃんのお見舞いに行ったんだって〜☆」「え〜、それってもしかしてー♪」「もしかしてー☆」状態になったのは言うまでもない。 ●星の子どもたちはみな歌う  扉を開けると、さっと風が吹き抜けた。三月の風は、春の香りがする。眩しさにやがて目が慣れると、そこには青空が広がっていた。 「いいの? 怒られたりしない?」  そう言ったのは穂刈幸子郎だ。お気に入りの電子リコーダーを持って、周りをきょろきょろと見回している。 「大丈夫だよ、先生がいるもん。ねー」  さつきが嬉しそうに言うと、キルシも笑顔で頷いた。  病院の屋上は、ふたつの丘全体が見渡せた。さつきも幸子郎も、病院での生活は長いが、屋上に出るのはこれが初めてだった。大人の付き添いなしで行ってはいけないと、きつく言われているからだ──特に幸子郎が。 「ふたりは、この歌を聞くのは初めてだっけ?」  クロワが持ってきた音楽データを再生する。前奏部分が流れると、癖なのだろうか、キルシは足でリズムを取り始める。 「最初は、わたしたちと先生とでお手本を歌いますね」 「えっ、オレも?」 「鶫もだよ〜」  歩き出す僕たち 明日を目指し  この胸にあるのは 夢と勇気 「雫ちゃん、歌すっごく上手だね!」 「しーっ! ちゃんと聴かなきゃダメよ」  知らない者が見れば、兄と妹のように見えるが、さつきの方がまるで年上のようだ。    今は遠い大地だけど  いつか必ずたどり着く 「合唱祭、行きたいなぁ。行っちゃだめなのかなぁ」 「静かに聴かなきゃダメだってば」 「行きたいなぁ、内緒で行っちゃだめかな? ねえねえどう思う?」 「もう!」  星の海を越えてゆこう  新しい世界へ翼広げ  歌いながら、雫はちらりとキルシを見やる。歌うキルシは、教室にいた頃と何も変わっていない。雫には、なんだかそれが無性に嬉しかった。  クロワは、床に座っているさつきと幸子郎を見る。今まで話したことはないけれど、それならこれから仲良くなればいいだけのこと。クロワは声に力を込めた。  その日、日が暮れ始め、風が春の夜の冷たさを運んでくるまで、屋上での「合唱祭練習」は続いた。 ●まごころを君に  ──三月七日  今日もちゃんとおくすりをのんだのに、先生は学校には行けないっていう。ちゃんと飲んでるのにな。もしかして、いじわるされてるのかな。  でも今日は、おんなじクラスのクロワちゃんとつぐみくんと、歌が歌えたんだ! さつきちゃんもいっしょに、屋上に行ってみんなで歌を練習したんだ。空がすごくきれいで、すごく楽しかった。つぐみくんはかみが長いから、風がふくとふわーってなって、なんかかっこよかった。しずくちゃんは、すっごく歌が上手くてびっくりした。大人になったら歌手になればいいと思います。また明日も来ればいいのに、明日はむりなんだって。つまんないの。  ──三月十日  けんさは好きくないけど、部屋の外に出られるからちょっとだけなら好きです。僕がけんさの部屋に行くとちゅうで、おんなじようにかんご士さんといっしょに歩いている人を見た。僕とかキルシ先生より年が上みたい。あいさつしたのに、聞こえなかったみたい。ねむかったのかな。  さつきちゃんは、なんだかさいきんはかくれんぼがすきみたいで、よく部屋をぬけだして、なんかやってる。いいなあ、僕は背が高いから、すぐかんご士さんに見つかっちゃうんだ。なんかフコーヘーってやつだよね。  ──三月十四日  今日は学校で合唱祭なのに、やっぱり僕は学校へ行けない。みんないいなぁと思ってたら、キルシ先生が、クラスの友だちがえいぞうをとって持ってきてくれるよって教えてくれた。すごく楽しみ! でもみんなばっかり学校に行けるのは、やっぱりずるいと思う。  ──三月十八日  このあいだ、けんさの部屋に行くとちゅうで会った人にまた会った。あいさつしたんだけど、車いすにすわったまんまで答えてくれなくて、お部屋にもどっちゃった。きっと僕と同じように、シュトライヒリング先生にいじわるされてるんだ! 僕と同じ階だから、こんど遊びに行って元気づけてあげよう。なかよくなれたらいいなあ。 ●双子と沈んだ薔薇 「ありがと」  八代青海が、葉柴芽路にデータを渡すと、彼女はどことなく気恥ずかしそうに呟いた。 「でも、いいの? もらっちゃって」 「いいよ。元データはちゃんとあるし」  赤いケープのフードを目深にかぶったまま、青海は言う。芽路に渡したのは、先日の合唱祭の録音データだ。壇上でモバイルを持ちながら録音したせいか、雑音は多めだが、臨場感という点では申し分ない。  ──これなら、青葉もきっと。    病院を訪れるのは、青海の日課だ。学校が終わると、自宅に帰る前に病院へ立ち寄るようにしていた。看護士ともすっかり顔なじみだ。 「あら、今日もお見舞い?」 「うん」  病棟内でもフードをかぶったまま、青海は頷いた。 「今日はおみやげもあるんだ」 「まあ、素敵ね。何?」 「ないしょ。青葉だけにあげるから」 「あら、うらやましいわ」  くすくす笑う看護士と別れ、青海は病室へまっすぐに向かう。ドアを開けると、自分と同じ顔をした兄──青葉が、いつもと変わらずベッドの上にいた。 「今日はおみやげもあるんだ」  部屋に入るなり、青海は言った。 「おみやげ?」  そう返す声も、青海とよく似ている。いずれ声変わりを迎えれば、否応なく変わってしまうだろうが、今はまだ双子の兄妹は鏡写しのように同じ顔、同じ声をしていた。 「これ」  青海は、ポケットからモバイルを取り出した。不思議そうな顔で、青海とモバイルを交互に見やる青葉を見て、青海は満足気に微笑んだ。 「いい? せーの」  一瞬の間をおいて、病室に鳴り響いたのはピアノの音──T、X、Tの和音と拍手ののち、青葉も聞いたことがあるメロディが流れだす。  歩き出す僕たち 明日を目指し  この胸にあるのは 夢と勇気  ピアノの伴奏と歌声に混じっているのは、壇上や会場のざわめきだ。ゴソゴソとノイズも頻繁に入る。青海は、青葉のために合唱祭で実際に歌っているときの録音をしていた。ただ録音するだけなら、席にモバイルを置いていった方が、音は良かっただろう。だが、それでは会場で座って聞いているのと変わらない。それに、きれいな音質で聞きたいだけなら、学校が公式に録音・録画したデータを聞けばいいのだ。  今は遠い大地だけど  いつか必ずたどり着く  青海がやりたかったのは、「青葉も合唱祭にいる」こと──ちょっとした疑似体験だ。  青海が壇上に立って歌ったように、まるで青葉もそこにいたようにできなければ、意味がない。先生に見つからないように、モバイルを隠し持って、歌いながら録音したのだ。ボリュームを上げると、歌だけではなく、当然ノイズも大きくなる。だが、そのノイズも合唱祭の一部だ。  星の海を越えてゆこう  新しい世界へ翼広げ 「このあとがね、すごかったんだよ」  青海は笑いをこらえきれずに、肩をふるわせながら言うと、青葉は興味深そうに身を乗り出してくる──さあ、もう一人の自分と、あの日の自分を共有しよう。 ●タブレットを抱えて部屋のすみへ  衛宮さつきは、病院での生活が長い。自宅で過ごした時間より、病院で過ごす時間の方が長いかもしれない。だからこそ、その辺の入院患者より、病院内のことを知っているという自負があった──小児病棟に限る、という但し書きはつくものの。だから、さつきには小児科担当の看護士──金髪がトレードマークのフェリシテ・サン=ジュストの好物が、紅茶に浸したマドレーヌだということを調べる程度はお手の物だ。そして、ティータイムをこよなく愛する彼女が紅茶を飲む時は、他愛ないおしゃべりやうわさ話に花を咲かせるのが常だということも、さつきにはすべてお見通しだ。それもこれも、入院生活が長いために、病院内のどこにいても看護士たちには大した違和感なく受け入れられやすいという、ある意味オトクだが切ない事情による。  そんなわけで、今日もさつきはナース・ステーションでうわさ話に花を咲かせるフェリシテたちの横で、ちょこんと──かつ正々堂々と──座っている。 「あら、さっちゃん。こんにちは」 「えへへ☆ 遊びに来ちゃった☆」 「ちゃんと回診の時間にはお部屋に戻るのよ」 「はーい☆」  こうした会話も、そろそろ日常茶飯事になりつつある。 「お姉さんたちのお話、難しくってよく分かんないなぁ」  とは言うものの、実際には耳を澄ませていることに、フェリシテたちは気づいていない。気づいたとしても、少女特有の幼い好奇心に過ぎないと思うだろう。もちろん、入院患者に聞かせられない話をするほど、職業倫理に欠けた者はいなかったし、医療や看護の話となると、さつきには何のことだがさっぱりではあったが。 「ねえねえ、フェリシテお姉さん。病気のことを調べるときって、どこで調べたらいいの?」 「え? どうしたの、急に」 「え」  さつきは、とっさに嘘をつく。 「あー。えーっと……が、学校でね、自由研究発表会があるの。わたしは学校にはまだ行けないけど、学校と同じように病院でも勉強したいことや知りたいことをまとめて、発表しましょうって、キルシ先生が」 「ああ、そうなの……」  フェリシテの目が、おしゃべり好きな女性から、幼い入院患者を見つめる看護士の目に変わる。 「そうねぇ……ネットに、子ども向けの学習情報データベースがあったと思うから、そこで調べてみたらいいんじゃないかしら? たしか、名前はね……」  そう言いながら、フェリシテは自身のタブレットで検索し始める。さつきは内心冷や冷やしているが、相手は信じたようだ。  フェリシテに教わったデータベースの名前とアドレスを保存すると、さつきはいつもと変わらない足取りで、病室に戻った。  ──さてと、夜に備えて休んでおかなくっちゃ!  病室へ戻るさつきの後ろ姿を見守りながら、ナース・ステーションの話題はさつきの心臓移植へと移っていった。  「そういえば、さっちゃんの移植用心臓って、今どのあたり?」 「そろそろフェーズVよ。遺伝子精査は終わったわ。あとは修復が済めば、そのあとはさくっと早いもの」 「あら、じゃあ意外と早く手術できるかもね。もうちょっと精査が短縮できればいいんだけどねぇ」 「仕方ないわよ、全部調べなきゃいけないんだから」 ●私のなかの壊れてない部分 「本当に、いいのかしら?」  疑問形というより、半ば詰問に近い語調の百日紅メリサに、菜月加奈は答えた。 「いいんじゃないかなぁ」  加奈の返答に、メリサはため息をつく。 「まあ、それでいいというなら、構いませんけど……」 「んー。だって、実際にああなっちゃったわけだし。あれはあれで面白かったしねぇ」  加奈は思い出して、くすくす笑う。その笑顔を見て、メリサはまたため息をついた。  合唱祭も終わり、放課後の練習からも解放された。入院しているキルシのために、加奈と雫、そしてメリサはお見舞い団として病院を訪れていた。今日は、特別な手みやげもある。 「でも、面白かったよねぇ。あれこそサプライズってやつだよね」  キルシの病室に向かいながら、加奈が言うと、メリサが呆れたように返す。 「貴方は気楽でいいわ」 「もう、まだ言ってるぅ」  加奈が面白そうに言う。頭が良く、優等生と評判のメリサが、どことなく感情的になっているのが、加奈には新鮮だったのだ。  ──お人形さんみたいって思ってたけど、メリサちゃんもちゃんとメリサちゃんの気持ちがあるんだ。  加奈は、なんだか嬉しくなって、いつになくメリサに話しかける。 「メリサちゃん、そんなに気にしなくていいんじゃない? キルシ先生だって、きっと面白がるよ」 「そうかしら……」  雫は二人のやり取りを見ながら、病室のドアをノックする。 「どうぞ」  キルシの声を待ってから、雫はドアをそっと開ける。窓辺の花瓶には、さすがにもう枯れたのだろうか、花はなかった。雫は手に持った花束を、キルシに見えるように胸元に抱えて部屋に入った。 「こんにちは、キルシ先生」 「あら、雫。また来てくれたのね。……メリサと、加奈も一緒ね」 「こんにちはぁ! 先生、元気だった?」  勢いよく跳びはねるように、加奈がキルシのベッドに近づく。 「あのねー。雫ちゃんの花束以外にも、持ってきたんだ! いいもの!」  そう言うと、加奈は片手で持っていた袋をサイドテーブルに置いた──ごすん、と異様に重たい音が響く。 「……今日はいったい何を持ってきたの。聞くまでもないような気がするけれど」  メリサが言うと、加奈は胸を張って答える。 「先生のための鉄アレイ! 前持ってきたのより、ちょっと重めにしてあるから、バッチリだよ!」 「まあ! ありがとう! そろそろ物足りなくなってきた頃なの」  頭痛でもするのか、こめかみを揉むメリサを気遣うように、雫が言う。 「あ、あの先生。今日はメリサちゃんが素敵なものを持ってきてくれたんですよ」 「あら、何かしら?」 「ふたつあるの」 「ふたつ?」  割って入った加奈を、メリサがやんわりと睨みつけたが、加奈は気づかなかった。 「メリサちゃんのお母さんが作ってくれたのと、普通の」 「どういうこと?」 「見れば分かるというか……」  そう言いながら、雫はちらりとメリサを見やる。いつもと変わらない、精緻な人形のようなメリサだったが、内心ぴりぴりしているようだ。  結局、特別な手みやげ──合唱祭の録画データは、メリサの母が編集したバージョンと、ありのままを録画したもの、二種類をキルシに渡すことになった。 「ねえ、先生」  加奈が、録画データを見終わったあと、笑いすぎて涙を拭くキルシに話しかけた。 「病気はどう? あと、どれくらいで治るの? 退院、いつできるの?」 「……そうね」  キルシは、三人の教え子を順番に見た。そして、窓の向こうに目をやる。 「三人は、先生に嘘をつかれたい?」  少女達は顔を互いに見合わせると、誰からともなく、ゆるゆると首を横に振った。その様子を見て、キルシは力なく微笑んだ。 「……先生は、先生だから。みんなのお手本にならなきゃいけないから、嘘はつかない。本当のことを言うわ。……退院は、できないわ。きっとね」 「えっ」  雫が思わず息を呑む。メリサも冷静を装ってはいるが、一瞬身じろぎした。 「とはいっても、今のところは、家に戻ったりするのは問題ないそうよ。だから、……そうね、授業はできないけれど、時々学校に様子を見に行くくらいなら、できるかもしれないわ」 「本当!?」  加奈が身を乗り出す。 「いつ? 先生、いつ見に来てくれるの?」 「ちょっと、貴方、先生に負担を強いてはだめよ」  興奮して声が大きくなる加奈を、メリサが戒めた。 「だってぇ……」  しょんぼりと口を尖らす加奈の髪をそっとなでながら、キルシは言った。 「……病院の先生と、相談してみるわ。急に行ってみんなやローマン先生を驚かすのもいいけど、後から怒られそうだもの」 ●いつか思い出からこぼれおちるとしても 「はい、じゃあ……えっと……」  夕食後の時間を利用した「夜の学校」は、今日もいつもどおりに始まった。だが、不意にキルシの指が止まってしまうのを、さつきは見逃さなかった。 「六七ページだよ」  キルシが何か言う前に、さつきが先んじてページ番号を言った。昨日は六六ページの問題まで解いた。今日は六七ページから──さつきは、昨日の授業内容を思い出す。さつきの指摘に、キルシは曖昧に微笑んで見せた。 「あ、そうだったわね、ごめんなさいね」 「ねえ、先生」  どこか硬質な、だが切実な響きのあるさつきの声に、キルシはタブレットから顔を上げた。そこには、キルシをまっすぐ見つめるさつきの目。 「ねえ先生。……昨日、やったばっかりの授業を忘れちゃうなんて、変だよ」  言いにくそうに、けれどはっきりとさつきは言った。 「そのうち、わたしのことも忘れちゃうの?」 「え」 「……忘れちゃうの?」  キルシは、何かを言おうとして、だが結局何も言えずに、押し黙った。 ●It Walks by Midnight.  抜き足、差し足。  床は思った以上に冷たく、さつきは早くも後悔し始めていた──だめだめ、ここでくじけちゃだめ。そう自分に言い聞かせながら、また一歩。  夜の病院は静まり返っていると思いきや、意外と騒がしい。入院病棟はもう消灯したが、検査・治療棟や救急病棟には、夜はないようだった。  さつきが目指すのは、ドクター・ベネットの診察室だ。足音がしないように、いつも履いているスリッパは脱いできていた。今ごろ、ベッドの下で所在なげにころんと転がっているだろう。靴下は履いているとはいえ、布越しに伝わってくる床の硬さと冷たさは、さつきの足から少しずつだが熱を奪っていく。春の夜は、思いのほか寒い。 「カーディガン羽織ってくればよかったかなぁ……」 「そうよ、風邪ひいちゃうわよ。さっちゃん」 「そうだよねぇ……あ」  思わず受け答えしてしまって、さつきはその場で固まった。 「何をしてるのかしら?」  声の主は、ドクター・ベネット。いつもと変わらない優しげな声音だったが、だからといって怒っていないとは限らないのが、彼女の厄介なところだった。 「お、お散歩!」  元気よく振り向いて、無邪気に答えてみる。 「お散歩は、夜より昼間の方がいいと思うわ」 「……ですよねー」 「お夜食を買いに行ったら、あなたが廊下を歩いてるんだもの。しかも靴下で! びっくりしちゃったわ」  そう言って、ドクター・ベネットは笑う。さつきも笑った──仕方なく。ああ、そうだ。病院の先生って、意外と夜中も起きてるんだっけ……。  ドクター・ベネットの宿直日がいつなのか、今度は調べてからにしようと誓うさつきだった。 ●「ぼくは人間です」  ──三月二十四日  いつも僕がおみまいに来てもらうから、今日は僕がおみまいに行くんだ。さつきちゃんもさそおうと思ったんだけど、しらべものがあるからだめだって言われちゃった。つまんないな。かんご士さんが来る時間には部屋にいないとだめだから、それいがいの時間にするよ。そしたらばれないもんね。  ──三月二十九日  日記ちょっとさぼっちゃった。おみまいに行くのに、おみやげがいるかなと思ったんだけど、僕はおこづかいとかないから、しかたがないから花をつんでいったよ。お兄さんは僕よりずっとお兄さんなのに、ねてるか、ぼんやりしてるかどっちかで、あんまりおしゃべりできない。そういえば、お兄さんの名前きくのわすれてた。あしたきかなくちゃ。他の部屋の人のとこにも行ってみちゃおっと。  ──四月五日  いつもねてるお兄さんの名前はリェン・ウェイライ。もうひとり、僕と同じ階にいるおばちゃんは、ファラーシャ・ザンバク。ちゃんと日記にも書いておくよ。ファラーシャおばさんは、リェンお兄さんとちがって、ちゃんとお話できるからうれしい。でも、僕が言ったことすぐわすれてるから、そこがちょっときらい。キルシ先生にも、リェンお兄さんとファラーシャおばさんのこと、教えてあげよっと。  ──四月十二日  ファラーシャおばさんが、リェンお兄さんはもうだめかもしれないって言ってた。先生とかんご士さんが、そう言ってるのを聞いたって。だめってなんだろう? キルシ先生にきいたら、なんだか悲しそうな顔をしてたから、聞かない方がいいかもなって思って、でもなんだろう?  ──四月十五日  さつきちゃんから、すっごい話聞いちゃった! 三十日に、なんか夜に電気がいっせいにつくんだって! その日は、ちょっと夜ふかししても怒られないみたい。楽しみだなぁ!  ──四月十九日  リェンお兄さんとファラーシャおばさんにも、三十日は夜ふかししてもいいんだよって教えてあげようと思ったら、リェンお兄さんは部屋にいなかった。ファラーシャおばさんには教えてあげられたよ。ハロウィンの日みたいに、おかしを食べてもいいのかな? 楽しみだなぁ。  ──四月二十三日  今日はさつきちゃんと遊んだよ。さつきちゃんはいっぱいむずかしい本を読んでたけど、字がむずかしくってよく読めないんだって。僕も見せてもらったけど、何なんだろう。ちんぷんかんぷんで、全然よくわかんない。でも、そんなむずかしい本読んでるなんて、さつきちゃんはえらいなぁ。僕も見習わなくちゃ。かんご士さんにそう言ったら、まずは新聞から読んでみるといいって。新聞はいろんなことがのってるから、勉強になるよって教えてくれたから、明日から読むようにするんだ。  ──四月二十七日  かんご士さんに、リェンお兄さんはどこへ行ったのか聞いたんだ。そしたら、もう病院にはいないって。なーんだ、退院しちゃったんだ。僕に教えてくれないなんてずるいや。でもいいなぁ。退院したら、学校行けるし、みんなと遊びに行けるもんなぁ。リェンお兄さんいいなぁ。僕も退院したい。  ──四月二十八日  今日から新聞を読むよ。いきなり全部読むのは大変そうだったから、ちょっとずつ読むんだ。そしたら、びっくりした! リェンお兄さんの名前がのってたんだよ。あとでファラーシャおばさんにも見せたげよう。記事をコピーしておいたんだ。きっとびっくりするぞ! むずかしい字で書いてあるから、何が書いてあるかもついでに教えてもらおっと。 ●地上の星が瞬く頃に 「三、ニ、一──点灯!」  カウントダウンの後、街中の街灯という街灯に明かりが灯った。途端に、あちこちで歓声が沸き上がる。  これまでは電力事情を鑑み、治安や市民の安全のために設置されている街灯のすべてが点灯することは滅多になく、ローテーションで点灯・非点灯を繰り返していた。それは、節電だけでなく、各機器の消耗や交換を先延ばしにする意味もあったが、市民たち──特に幼い子どもがいる家庭──からは不評だった。  だが、それも水素発電が開始されるまでの話だ。  水素発電所からの送電実験が行われるこの日は、水素発電所内の光景がリアルタイムで配信されていた。これからは、夜になれば街中の街灯が灯り、安心して歩ける日々がずっと続くだろう。停電の心配も、古い地下・地上送電網のリニューアルが終われば、一気に解消されるはずだ、と父──片岡音彦が語るのを、春希は嬉しそうに見ていた。  立ち並ぶ街灯のすべてが、明るく夜の闇を照らしている。  今日ばかりは、子どもたちも夜ふかしが許される。まるでハロウィーンの季節のような、頬が思わず緩む雰囲気が街中に満ちていた。上空から街を見下ろしたら、地上の星のように輝いて見えることだろう。  しかし、そんな光景を、どこか寂しげに見る子どももいた。 「星、あんまり見えないね」  ぽつりと漏らすクロワの言葉に、辻風麻里子は小さく頷く。その様子を、麻里子と手をつないだ弟の海斗は、不思議そうに見上げている。 「おほしさまー? いないの? どこかへいっちゃった? ばいばい?」 「ううん、いるよ。お星様は、ちゃんといるよ」  弟の言葉に、苦笑いしながら麻里子は答え、夜空を見上げた。そこには、今日も満天の星空が広がっているはずだった。今夜は、街を照らす人工の明かりに、星の瞬きはかき消され、よく見えない。 ●アルムニア・ストレイン  医学書は、医学を志す者や専門家のために書かれている。専門的で詳細な内容になればなるほど、門外漢はお断り状態で、さつきのような十歳の子ども向けに書かれている本は少ない。フェリシテから教えてもらったデータベースは、子ども向けで分かりやすいものの、さつきが知りたいことはほとんどなかった。ウィルスだの細菌だの、そんなことが知りたいわけではないのだ。  それでも、さつきはめげずに調べていた。関連がありそうだと思った記事や文章をかたっぱしから、保存していく。分からない言葉はあとからいくらでも調べられるはずだ。 「えーと……なんだかよく分かんないなぁ」  とはいえ、さすがに愚痴のひとつもこぼしたくなる。  さつきのタブレットの画面には、いくつもの用語をまとめたメモが散らばっている。その内容は、ほとんどネットの情報をコピーしたもので、さつきが読み込んで意味を把握できたものは、ほとんどなかった。思いつくキーワードでかたっぱしから調べたものの、該当した病名は多く、しかも字面だけでは何のことだかよく分からない──というか、読めない。仕方なく、出てきたものを上から順に、機械的に保存していくより他になかった。    ──●●●ルアナ・アルムニア●●●  ──●●●アルツハイマー病  ──●●●●●●●●●  ──●●●CJD  ──●●●CJD  ──●●●CJD  ──●●●CJD  ──ゲルストマン・ストロイスラー・シャインカー●●●  とりあえず、一番上の単語のうち、さつきに読めた部分だけを検索ボックスに放り込んでみる。  ──十九歳で●●した女性「ルアナ・アルムニア」(●●●●)は、当初●●●アルツハイマー病と診断され、●●●●●によって●●を行い、●●したと思われていた。ところが三年後(二十二歳)、再び同じ症状を●●。当時は●●ミスや●●●●●の失敗が考えられたが、その後の調査で否定された。その後、ルアナは●●●●を続けたものの、二度目の●●から二年後、二十四歳の誕生日に死亡(通称「ルアナ症例」)。以来、同症状は「●●●ルアナ・アルムニア●●●」と●●される。 「……死亡」  さつきは、思わず呟く。  ──死亡って、死ぬってことだよね? ●四月二十八日 ふたつの丘 お悔やみ欄より  蓮未来、三十一歳。男性。  四月二十六日未明、病院にて逝去。 ●「自分がぎゅっと握り締めていたものすべてを放したいの」  ──……昨日、やったばっかりの授業を忘れちゃうなんて、変だよ。  ──そのうち、わたしのことも忘れちゃうの?  ──忘れちゃうの?  ──忘れちゃうの? 「やめて」  ──忘れちゃうの? 「やめて」  ──忘れちゃうの? 「やめて」  ──忘れちゃうの?  彼女の中の、白く冷え切った、冷静な部分が囁く。  ええ、そうよ。  あなたのことも、わたしのことも、何もかも。    そうしてわたしは死んでいくんだわ。 -------------------------------------------------- ■ 登場PC・NPC一覧 -------------------------------------------------- 【PC】 ・榛雫 ・クロワ・バティーニュ ・衛宮さつき ・穂刈幸子郎 ・黒葛野鶫 ・八代青海 ・百日紅メリサ ・菜月加奈 【ちょっとだけ出てきました系PC】 ・陳宝花 ・御手留乃歌 ・柳瀬小唄 ・クラウディオ・トーレス ・白鐘鈴香 ・葉柴芽路 ・辻風麻里子 【NPC】 ・キルシ・サロコスキ ・ドクター・ベネット ・ローマン・ジェフリーズ ・八代青海 ・フェリシテ・サン=ジュスト ・蓮未来 ・ファラーシャ・ザンバク 【ちらっといたね系NPC】 ・陳宝陽 ・ドクター・シュトライヒリング ・片岡音彦 ・片岡春希 ・辻風海斗 ・ルアナ・アルムニア