-------------------------------------------------- PBeM『VOiCE』第2回リアクション 02-C 透明な響きで漂っているようで -------------------------------------------------- ●ウェヌスに捧げられた月  待望の水素発電所、本格始動へ  四月末から送電実験スタート 五月末には通常送電に  企業・一般家庭への節電要請、恒久的解除も秒読みか  水素発電が変える、新たなくらし  どこか誇らしげな見出しが、街からのニュースとしてモバイルに公式配信されてきた頃、ふたつの丘にも春が訪れた。  風はまだ冬の冷たさを残しているが、日に日に春の香りが強くなる。やがて木々も芽吹き、あっという間にふたつの丘も緑で彩られるだろう。 「水素は、海水の……海水……あっ、陽兄! これは何て読むんダ?」 「どれどれ……水素は洋上風力発電によって得られたエネルギーを使い、海水を電気分解して生成。その後、必要量は水素発電所に輸送され、余剰分が発生した場合は貯蔵される、か。なんだかずいぶん難しそうなものを読んでるネ。今晩あたり、熱出すヨ」 「出さない! ねえ、大兄、じゃあ次、これは?」  陳宝花は、家業の手伝い──中華料理のデリバリーから帰ってきた長兄をつかまえると、自分が読んでいたテキストの文面を目の前に突き出して見せた。 「どうしたんだい、急に。宿題でも出されたのカ?」  兄──宝陽は妹に尋ねる。 「違う、宝花の自由研究発表会」  なるほどね、と宝陽は自身が末妹と同じ年だった頃を思い出したのか、わずかに遠くを見るような目をした。そして、宝花のタブレットを手に取ると、空いていた席に腰を落ち着けた。 「いいだろう、勉強熱心なのはいいことダ。今日は時間があるから、付き合ってやろうカ」 「ほんと!? やったァ!」  兄と妹の勉強会は、母が夕食に呼ぶまで続いた。 ●この世の全ての歌  日に日に日差しは和らぎ、春の訪れがもう近いことを感じさせる。木々の芽も膨らみ、やがて新芽が鮮やかに芽吹くことだろう。  穏やかに季節が移りゆくなかで、ローマン・ジェフリーズの目下の悩みは、三月十四日の合唱祭だった。  それというのも、ローマンが担当しているクラスは、控えめにいって音楽が苦手な生徒が多かったからだ。率直に表現すると、音楽が嫌いな子どもと音痴の子どもが、他のクラスに比べて多い。通常であれば、もう一人の担任であり、音楽が専攻であるキルシ・サロコスキが指導のメインになるはずだった。だが、当の彼女は入院し──フルタイムの教職へ復帰することは、もうないだろう。 「参ったなぁ……」  春の日の中で、ローマンは本日七回目のため息をつく。  ローマンの教育方針は「自主性尊重」だ。これまでも、学校行事のたびに、生徒たちの自主的な行動や判断を、教師の思惑より優先してきた。もちろん、時に脱線しすぎるきらいのある子どもたちの手綱を引くのも、ローマンの役目ではあったが。子どもたちを頭ごなしに抑えつけるような真似だけはするまい──それが、ローマンが教師を目指した時に誓ったことだ。誓ったことなのだが──今回ばかりは、ちょっとだけ揺らいでいる。元気いっぱいの、だが明らかに音程やリズムがおかしい歌声を聞いてしまうと、さすがに悩んでしまうのだった。 ●名付け親の財宝(ゲート・オブ・ゴッドファーザー) 「他のクラスに勝利はない。なぜなら──この俺がいるからだ」  安心しろと言わんばかりに、胸を張って言うクラウディオ・トーレスに、柳瀬小唄は困惑しながら聞き返す。 「え、えっと……合唱祭って勝ち負け」  関係ありましたっけ、と続くはずだった小唄の言葉は、クラウディオに遮られた。 「この俺が、この芸術的感性でもって、このクラスを勝利に導いてやろう」 「おっと……ぼくも指揮者に立候補しようと思ったけど、今の台詞は聞き捨てならないな」 「ふん……誰かと思えば」  クラウディオが不敵に笑う。その視線の先にいたのは──白鐘鈴香。ハンチング帽のつばを、くいと親指で押し上げ、鈴香はチェシャ猫のような目でクラウディオを射抜く。 「ドレミもろくに分からない奴が、ずいぶん吠えてるなぁと思ってね」 「ふっ……平均律にとらわれて、視界が狭まるとは、なんとも嘆かわしいことだな」  鈴香の言葉をものともせずに、クラウディオは呆れたように首を振る。クラウディオは権威と厳格さ溢れる名付け親を自負しているので、たとえこのまま口論になったとしても、「ていうかお前歌下手じゃん」みたいなことは決して言わないのだ。 「理論もろくに分からずに、感性だけに頼ったところで、それははたして芸術と呼べるのかい?」 「天才の感性とは、およそ凡人には及ばぬ地平にある──お前に、俺の感性が理解できないようにな」 「天才となんとかは、紙一重って言葉、なかったっけ?」  鈴香がけらけらと笑うと、クラウディオは眉をひそめたが、すぐに肩をすくめて笑ってみせた。 「己の意志を武器に、薄氷のごとき境界線上を歩む覚悟があるものを、世界は天才と呼ぶのだ」 「……先生、話進めてもいいかな」  慎ましやかにローマンが言う。合唱祭の指揮者を決めようというのが、ホームルームの当初の話題だった──立候補者を募ったところ、クラウディオと鈴香が手を上げたところまではよかったのだが。 「任せておけ、この俺がいる限り、栄光はこのクラスとともにある」  クラウディオがさっと立ち上がり、クラス全体を見回しながら、声高らかに宣言する。 「なぜなら──この俺こそが、栄光だからだ!」 「おー鈴香なんかぶち倒せ!」  面白がって拍手するルーチェ・ナーゾに釣られて、なんとなく拍手する片岡春希の額を、陳宝花がべちんと指で弾く。 「痛ッ!? なんかすごく痛いよ!?」 「そういうのよくナイ! 宝花は鈴香の味方だゾ!」 「そうよ、男子のくせに生意気よ」  理不尽かつ問答無用のロジックで、ライサ・チュルコヴァも参戦した。 「うるせー胸がないのに生意気だぞ」 「む、胸とかどうでもいいじゃない! このHENTAI!」 「そうよ、胸がなくても人権はあるのよ!」  委員長こと御手留乃歌が強制的人権宣言を発動させるが、ルーチェは意に介さずとばかりに、ジェシー・ジョーンズと島田ミズキ、ふたりの巨星の肩に馴れ馴れしく手をかけると、にやりと笑う。 「女の嫉妬って見苦し、」  全部言い終わらないうちに、ジェシーとミズキのツープラトンアタックが顎に炸裂、ルーチェは床に沈んでいった。ところで床に寝転がって、こうやって天井を見上げるとさぁ、ぱんつが見えるって、みんな知ってた?──とは口に出さずに。 「……えーと、じゃあ、こうしようか」  ローマンが泥沼化しつつある戦場に和平協定を持ちかける。 「練習はクラウディオ、本番は鈴香でどうだい? さすがに指揮台に二人は立てないからね」  クラウディオと鈴香に、クラス中の視線が集まった。 「その、あれだ。クラウディオはリーダーシップがあるから練習中にみんなをまとめるのに専念してもらって、鈴香は持ち前の度胸を生かして本番の舞台を引っ張っていくんだ。うん」  ローマンの言葉に、クラウディオと鈴香は顔を見合わせる。口火を切ったのは、鈴香だった。 「ま、いいや。せいぜいぼくの足を引っ張らないでくれよ」 「そっちこそ、本番の舞台で泣きついてきてもしらんぞ」 「じゃあ、休戦の握手しようか……」  たった二十分のホームルームで、異様に疲れたらしいローマンが、ぐったりとそう言った。 ●記憶は空虚にて歌わず  合唱祭は三月十四日、それまでに練習するといっても、音楽の授業だけでは足らないだろう。そこで、放課後も練習するということになった。指揮者は決まったものの、なし崩し的に中心的存在に押し上げられたのが小唄だ。歌がうまく、音楽も得意な人が中心になった方がいいと、誰ともなしに決まったからだ。榛雫も候補に上がったが、本人が人の前に立つのを恥ずかしがるため、こちらはどちらかといえば補佐のようなポジションになった。  最初の練習では、課題曲を聞きながら、クラス全員で歌のイメージを共有するディスカッションのような雰囲気になり、実際に歌ったのは一、二度だった。二回目からは本格的に練習しようと決めて、その日の放課後練習は解散になった。 「合唱祭の練習なんて、最初と最後だけやればいいじゃん」  二回目の練習が始まる直前、唐突にそう言い出したのは、御堂花楓だ。成績は良いのだが、どこか飽きっぽい彼女の発言を、当初は誰もがまともに取り合わなかった。というのも、花楓の言い分は、他の子どもたちにとっては、かなり無茶な話だったからだ。 「歌なんて、お手本を一回聞けば覚えられるじゃん」  こともなげに、そう言い切る花楓に、小唄はそっとため息をつく。  ──みんなが、花楓さんみたいだったらね。 「花楓さんは、そうかもしれないけど……でも、みんなはそうじゃないです。歌が苦手な子もいるし、歌詞やメロディがなかなか覚えられない子も……」  たった一回聞いただけで、歌詞もメロディも完璧に歌える者はそうそういない。どこかしらあやふやな部分があるものだ。そう思って小唄が言うと、案の定、予想通りの答えが返ってきた。 「だから! そんなの一回で覚えられるじゃんって言ってんの!」  放課後の教室に響いた突然の大声に、皆の視線が一斉に二人に注がれた。 「何度も何度も、みんなが覚えるまで、同じ所を繰り返し歌うでしょ? それが嫌だって言ってんの!」 「だ、だって、そうしないと、ちゃんと歌えない子が出てきちゃいます……」  憤る花楓の目が怖くて、小唄は思わずうつむいた。だが、これではいけないと思い直して、すぐに花楓に向き直る。すると睨まれて、またうつむく。結局、床と花楓とを交互に見やるような状態になりながら、小唄がぽつりと言った言葉は、花楓の憤りをよけいに募らせたようだった。 「なんで! どうして覚えられないの! 一回聞いたら十分じゃん!」 「……だって……その、みんな、花楓さんみたいじゃ、ない、ですから。なんでもすぐ、覚えられるわけじゃなくて……」  花楓は、クラス──いや、学校全体でも一番と呼べるほどの記憶力の持ち主だった。一度見聞きしたものを決して忘れない。言った本人も忘れているような、何ヶ月も前のささいな言い間違えでさえ、花楓なら指摘できる。そのせいもあってか、花楓の「記憶力」が話題に上がると、花楓自身を敬遠するような、煙たがるような雰囲気になってしまうのが常だった。だから、少なくともクラスの中では、花楓の記憶力を話題にするのは、なんとなくタブー視されている感がある。とはいえ、今起こっているトラブルが、その花楓本人に起因するものである以上、小唄は触れないわけにはいかなかった。  花楓は通学用の鞄をひっつかんだ。そのまま、無言で小唄の横を通り、教室を出ていこうとする。 「ちょ、ちょっと待ってよ、花楓」 「そういうのはやめてもらえるかしら?」  その様子を見て、ライサと留乃歌──鬼の特訓部長として目下クラスに君臨中だ──が花楓の前に立ちふさがった。 「どうしたのよ、いきなり」 「キルシ先生を元気づけるために、みんなでがんばろうって決めたでしょ? ちゃんと練習に出てちょうだい」 「別に、わたしはいつもどおり! と・に・か・く、わたしは練習出ないから。最初の練習は出たんだから、もういいじゃん。じゃあね」  そう言うと、早足で教室から出て行ってしまった。ドアが荒々しく閉まる音に、小唄がまた身をすくませた。 「ど、どうしよう……」 「いいわ、小唄は委員長と一緒に練習進めてて。わたしが花楓の様子を見てくるから」  小唄の肩をぽんと叩くと、ライサは花楓の後を追って、教室を出ていった。その姿を見送りながら、小唄はうなだれた。注意すべきだったとはいえ、やはり花楓の「記憶力」には触れるべきではなかったか──後悔の波が押し寄せて、小唄の胸を満たしていく。 「気にすることはないわ。今のは花楓さんが悪いもの」  留乃歌が、小唄に言った。 「悪いことは悪いって、ちゃんと言えるのが本当の友だちだって、お父さんもよく言っているわ。だからさっきの小唄さんは友だちとしてやるべきことをやっただけ。私が言うのだから、間違いないわ」  留乃歌なりの励ましなのだろう。だが、その言葉はあくまでも「委員長」(通称)としての留乃歌を貫いていた。 「うん……ありがとう。でも、ぼく、あとで謝ってきます。正しいことでも、誰かを傷つけちゃったら、それは正しいけど悪いことだから」 「ほんと、あなたってそういう人よね」  留乃歌は苦笑して、小唄の肩をぽんと叩く。そして、委員長改め鬼の特訓部長の顔に戻ると、教室に残っている全員に向かって言った。 「さあ練習するわよ!」 ●己が歌の為でなく  榛雫が職員室のドアをノックしようとするのと、クロワ・バティーニュが職員室に向かって飛び込むように走ってきたのは、ほぼ同時だった。 「わゎ」  雫の存在に気づいたクロワが、あわてて立ち止まろうとして、たたらを踏む。 「どうしたの、そんなにあわてて……?」  勢いに気圧されつつも雫が尋ねると、クロワは笑って答えた。 「ローマン先生にねぇ、お願いごとに来たの」  クロワの口から出てきた名前に、雫は内心ドキリとする。なんだか急に心臓の鼓動が早まるような気さえした。 「そ、そうなの。私もローマン先生にお話があって……」 「わぁ、そうなんだ〜。じゃあ、一緒に行こ!」  そう言うと、クロワは雫の返答を待たずに手をつなぐと、職員室のドアを元気よくノックし、開けた。 「え、ちょっと待、」  そのままクロワに引っ張られるようにして、雫も職員室に入る。クロワはきょろきょろと周りを見回して目当ての人物を探している。職員室中の視線を浴びているよう気がして、雫は落ち着かなかった。 「せんせー! ローマン先生ー!」  資料を作っていたらしいローマンは、クロワの声に顔を上げた。画面をタップしてデータを保存すると、ローマンはクロワと雫に向き直る。 「どうしたんだい?」  雫が何からどう言い出そうか、言葉と話題を選ぼうとしていると、クロワが横から切り出した。 「お願いがあるの、合唱祭のことで」 「合唱祭?」  ──あれ、クロワちゃんも合唱祭のことで?   雫はなんだか意外に思った。てっきり、クラスメートのジェシー・ジョーンズと始めたという「探検部」関連の話かと思っていたからだ。 「あのね、さつきと幸子郎も合唱祭に来て欲しいんです」  クロワの言葉に、雫は思わず首をひねる。さつきと幸子郎、そんなクラスメートはいたような、いないような……。雫には思い出せなかったが、ローマンはさすがに思い当たったようだ。 「うーん……こればかりは、先生からはなんとも言えない。病院の先生が判断することだからね」  ローマンの返答を聞いて、クロワはがっかりしたようだった。 「そうなんだぁ……」  目に見えてしょんぼりしたクロワに、慌ててローマンが言った。 「いや、もちろん、先生からも病院や親御さんに聞いてみるから」 「ほんと!?」 「あ、ああ、うん。期待に沿えるかは分からないよ」  ローマンはそう言うが、クロワはあまり聞いていないようだった。 「やったぁ! じゃあ、あとね、先生。もうひとつお願いがあるの」 「今度はなんだい?」 「キルシ先生と一緒に練習してもいい? あ、あとねぇ、もし病院の先生がね、さつきと幸子郎は来れないよって言われちゃったら寂しいから、その時は合唱祭を生中継してもいい?」 「ずいぶんたくさんあるんだなぁ」  ローマンが思わず苦笑する。 「じゃあ、まずひとつ。キルシ先生との練習は、きっとキルシ先生も喜ぶだろうけど、これもやっぱり病院の先生にきちんと説明して、許可を得ること。病室で騒いではいけないよ」 「はーい!」 「それから、生中継は……難しいかな。ああ、できないという意味じゃないよ、クロワ。学校に機材はあるから、中継自体はできる。ただ撮影を担当する先生が当日忙しそうでね……そこまでは手が回りそうにないなぁ」  残念そうにローマンが言う。 「そっかぁ……」  クロワは残念そうに、下を向く。その様子を見ながら、ようやく雫はクロワが口にした人物の名前を、記憶の底から掘り当てた。そういえば、進級して以来、ずっと学校に来ていない子が二人いる。もはやいないことが当たり前になりつつあるクラスメート──衛宮さつきと、穂刈幸子郎。 「うん……ごめんな、クロワ」 「ううん、でも録画したのを見せるのはいいでしょ?」 「ああ、構わないよ。さつきと幸子郎と、キルシ先生にも見せてあげるんだよ」  ローマンが言うと、クロワは笑顔で大きく頷いた。中継はだめだったとはいえ、クラスメートのためにできることがあって、嬉しいのだろう。 「あ、それとね」 「まだあるのかい?」 「うん。わたしじゃなくて、雫が」  クロワがあまりに唐突に言うので、雫の頭の中が一瞬で真っ白になる。 「雫はどうしたんだい?」 「え、あ、えっと」  急に話を振られて、雫は思わず口ごもる──心配そうに見ているクロワの視線を感じて、余計に焦ってしまった。 「あ、あの……」  頭の中を整理しつつ話そうとするが、最初の言葉がなかなか出てこない。 「雫も、合唱祭のことかい?」  見かねたのだろうか、ローマンの問いに、雫は思わず三度ほど首を大きく縦に振った。 「その、合唱祭の練習のことで……キルシ先生にも練習を見てもらおうと思って」  やっとの思いでそう言ってから、雫は慌てて言葉を付け足す。 「あ、あの、えっと、来てもらうとかじゃなくて、……その、録画とか録音してものとかで」 「ああ、なるほどね」  雫が最後まで言い終えるのを待ってから、ローマンは言った。 「そうだね、先生もあまり音楽について教えるのは得意じゃないから、キルシ先生にアドバイスをもらえると助かるな」  そう言って笑って見せる。その笑顔を見て、雫はようやくほっと一息ついた。 「じゃあ、今日の練習録画していい?」  横からクロワが問うと、ローマンは頷いた。 「やったぁ! じゃあ雫、今度一緒にお見舞い行こう? その時、キルシ先生に歌のこと教えてもらおうよ、ね!」  クロワの言葉に、雫も笑顔で応える。 「ええ、そうしましょう」  そんな二人を、ローマンは嬉しそうに眺めていた。 ●遥かなる合唱祭制覇  指揮棒を持ったクラウディオは、その手を高く掲げると、素早く振り下ろした。かと思えば、ゆるやかな動きで左右に振り、静かに手を下ろす。その所作はまさに、聴衆を前にオーケストラを指揮するマエストロのそれであった。 「あ、あの……」  小さなマエストロ(仮)に、小声で話しかけたのは小唄だった。 「なんだ、言いたいことは言わないより言った方がいいぞ」 「その……言いにくいんだけど」 「はっきりしない奴だな」 「歌や伴奏と全然合ってないのよ」  小唄に代わって、留乃歌が横からずばりと言った。 「指揮だろう?」 「指揮でしょ?」 「指揮者って、こうやってるじゃないか」  そう言うと、クラウディオは先程の動きを繰り返して見せる。いつか音楽の授業で見たオーケストラの指揮者を真似ているのだ。 「確かにそんな感じだけど……歌と合ってなかったら意味がないじゃない」  留乃歌の指摘に、クラウディオは不思議そうな顔をした。 「意外と些細なことを気にするタイプなんだな」 「些細じゃないでしょ!」  放課後の練習のたびに、留乃歌の怒声が響くのは、そろそろ当たり前のようになってきている。小唄や雫が、他の子どもにアドバイスする横で、二人の応酬が続く。 「だいたい、メロディがまだちゃんと覚えられてない人だっているのよ」 「それは歌い込みが足りないな。歌を自らの心に刻み込めば、自ずと歌えるようになるものだ」 「もっともらしいことばっかり言って……。ピアノだって、楽譜を見ないで弾けるようになるには、とにかく練習なのよ」 「ピアノと人の声は違うぞ。どちらも楽器といえば、楽器だが」  小唄はそっとため息をつく。練習しているのか、喧嘩をしているのか、これではよく分からない。 「わたし、がんばるね!」  その声に振り返ると、西藤はるせが小唄の手を力いっぱい握って、ぶんぶんと振り回した。 「ぴぃちゃんは歌えないんだけど、わたしは歌えるし、おねえちゃんもこの歌大好きなんだぁ」 「ぴぃちゃんって誰?」 「それでね、駅のお兄さんは歌うの嫌なんだって」 「え、ぴぃちゃんは?」 「でもね、わたしは歌いたいんだ!」  はるせはぐっと握りこぶしを作って見せる。その目は、歌うことへの意欲に燃えていた。 「あ、はい」 「だけどね、わたしひとりじゃなくて、誰かと一緒に歌いたいの。春だからかなぁ?」 「うーん、どうでしょうね?」 「さ、みんな歌おー!」  なんとか受け答えようとする小唄をぽんと放り出して、はるせはクラス全員に呼びかける。なんとなく置いてきぼり感を味わいつつも、やる気に満ちたはるせの言葉に、小唄は背を押されたような気になった。 ●約束された星の歌  合唱祭が迫った日曜日、クロワは雫とともに病院を訪れた。入院中の「友だち」と練習するためだ。本当なら合唱祭へ来てもらいたかったのだが、それは叶わないようだ。  入院中の担任キルシ・サロコスキの協力も得て、普段であれば子どもだけでは行けないはずの屋上へとやってきた。  屋上への扉を開けると、さっと風が吹き抜けた。三月の風は、春の香りがする。眩しさにやがて目が慣れると、そこには青空が広がっていた。 「いいの? 怒られたりしない?」  そう言ったのはクロワたちのクラスメートであり、入院中の穂刈幸子郎だ。お気に入りの電子リコーダーを持って、周りをきょろきょろと見回している。 「大丈夫だよ、先生がいるもん。ねー」  同じく、心臓病のために長らく入院している衛宮さつきが嬉しそうに言うと、キルシも笑顔で頷いた。  病院の屋上は、ふたつの丘全体が見渡せた。はるか先に、海と風力発電のプロペラが見える。振り返れば、大きな丘陵地帯が広がっていた。 「ふたりは、この歌を聞くのは初めてだっけ?」  クロワが持ってきた音楽データを再生する。前奏部分が流れると、癖なのだろうか、キルシは足でリズムを取り始める。 「最初は、わたしたちと先生とでお手本を歌いますね」 「えっ、オレも?」  なぜかさつきの病室にいた黒葛野鶫が、慌てたように言う。クロワは当然だとばかりに、笑顔で頷く。 「鶫もだよ〜」  歩き出す僕たち 明日を目指し  この胸にあるのは 夢と勇気 「雫ちゃん、歌すっごく上手だね!」 「しーっ! ちゃんと聴かなきゃダメよ」  知らない者が見れば、兄と妹のように見えるが、さつきの方がまるで年上のようだ。    今は遠い大地だけど  いつか必ずたどり着く 「合唱祭、行きたいなぁ。行っちゃだめなのかなぁ」 「静かに聴かなきゃダメだってば」 「行きたいなぁ、内緒で行っちゃだめかな? ねえねえどう思う?」 「もう!」  星の海を越えてゆこう  新しい世界へ翼広げ  歌いながら、雫はちらりとキルシを見やる。歌うキルシは、教室にいた頃と何も変わっていない。雫には、なんだかそれが無性に嬉しかった。  クロワは、床に座っているさつきと幸子郎を見る。今まで話したことはないけれど、それならこれから仲良くなればいいだけのこと。クロワは声に力を込めた。  鶫は、なんでこうなっちゃたんだろうと思いながら歌う。ふと見ると、さつきが笑顔でこちらを見ている。目があって、慌てて視線を逸らした。  その日、日が暮れ始め、風が春の夜の冷たさを運んでくるまで、屋上での「合唱祭練習」は続いた。 ●破歌の紅薔薇 「おや」  早朝──まだ学校は朝の静寂に包まれている頃。早々に登校してきた皆藤華名は、同じクラスの白戸さぎりの姿を見つけた。 「あれに見ゆるは、さぎり殿ではないか。いったい何をしておるのじゃ」  何かを警戒するようなさぎりの姿に、華名は声をかけるのをためらった。そのうち、さぎりは校舎内へと消えていった。 「いったい、何をしにこんな時間に……」  首をひねるものの、さぎりが朝早く学校に来るような理由が思いつかない。華名のように、何かやることがあるのだろうか。今日は合唱祭だ。華名が知らないだけで、直前まで自主練習しようという者もいるのかもしれない。しかし、練習中のさぎりは特にやる気に満ちているというわけでもなければ、かといって非協力的というわけでもなかった。熱心に自主練習をするようなタイプにも見えない。 「むぅ……しかし、私にもやるべきことがある。さぎり殿は気になるが、構っているわけにもいかぬ」  華名はさぎりのことはあきらめ、校舎横の花壇へと向かった。    華名は筋金入りのロザリアンだ。薔薇の世話をし始めると、それこそ寝食も忘れてしまう。  当然、学校に行くことなど、きれいさっぱり忘れてしまう。そもそも学校がこの世に存在しているということそのものを忘れる。すべては薔薇のためにあるのだから。先月、先々月と、大々的に学校を休んでいたのも、薔薇の接木をしていたからだ。もちろん、華名本人には「学校を休んだ」という自覚さえない。接木をしていたら二ヶ月経っていたのだ。いたし方あるまいて──と、華名は思っているが、周りはそうは思ってくれていないのが厄介な点ではあった。  おかげで、毎朝早めに来て、自習と称して職員室で問題集を解かねばならなくなった。しかし、ロザリアン華名はこんなことではめげない。むしろ、朝早くから学校の薔薇の世話ができるし、朝の自習さえしておけば小言も言われないのだから、好都合だ。  そんなわけで、今日──三月十四日も、華名は朝早くから登校していた。しかし、今日はいつもと違う。 「ふふふ……今日も薔薇たちは愛らしいのぉ」  まだ開いていないつぼみをそっと指で愛でながら、華名は剪定を始める。  薔薇愛ずる少女は、その愛が高じて、学校の花壇の一部を──事後承諾で──薔薇園に作り替えている真っ最中だ。自宅で増やした苗を持ち込んでは、ここで育てている。日に日に美しく育っていく薔薇たちを見るのが、華名の何よりの楽しみだった。しかし、悩みもある。 「しかし、今日も大量じゃ」  それは、剪定のたびにできる花がら──花が咲き終わっても散らずに残っている花だ。毎日世話をするたび、大量に生じる。咲き終わったとはいえ、まだ美しさを残す花を積むのは忍びなく思うし、何より大量に出るので処分するのも一苦労だ。特に、早いうちに摘んだ花がらは、まだ花として十分すぎるほど美しい。毎日捨てているが、正直もったいない。とはいえ、薔薇の花びらのジャムを作ったり、紅茶に浮かべたり、お風呂に入れたり──程度のことでは、消費が追いつかないほどの量である。きれいに咲いていると呼べるものも含まれているため、捨てているとあれこれ言われてしまうのも億劫だ。 「ま、しかし、今日は晴れ舞台に立たせてやるからのぅ。楽しみにしておるんじゃぞ」  そう囁きかけながら、華名は花がらを集めると、まとめて袋に詰めた──さて、気は進まんが、自習に行くとするか。 ●愛情幻像  その日──三月十四日は、百日紅メリサは朝から気が重かった。正確にいえば、前の晩からだ。 「言うんじゃなかったわ……」  後悔、先に立たず──メリサはその言葉を噛み締めた。  発端は、メリサがクラスの代表として、キルシのお見舞いに行った話をしたことだった。それだけなら、今メリサが感じている後悔は、それほど深くはなかったかもしれない。問題は、お見舞いの話と、今日の合唱祭が母──百日紅小鳥の中で、化学反応を起こしたことだ。娘を愛する母ならではとでも呼ぶべき、愛という名の化学反応は、メリサにとって突拍子もない結果をもたらした。 「そうだわ、合唱祭をキルシ先生にも見せてあげましょう!」  夕食の時、突然そう言い出した母に、思わずメリサは「は?」と返した。普段であれば聞きとがめられるような言葉遣いだったが、この時は違った。 「そうよ、まあ、なんて素敵なのかしら」 「あ、あのお母さん? ちょっとお話が見えないのだけれど……」  メリサが咳払いしながら言うと、小鳥はあっけらかんとした調子で返す。 「明日は私がビデオを撮るわ。合唱祭であなたが素敵に歌っているところを、キルシ先生に見せてあげましょうね☆」  きっと元気になってくれるわ──目の前の娘が、頭を抱えているのにも気づかずに、母の愛は突っ走り始めたのだ。    小鳥が一時間以上かけて選んだワンピースの裾をじっと見ながら、メリサは何度目かのため息をつく。  普段から人形のような、レースとフリルたっぷりの服を着せられているメリサだが、今日は一段とフリルっぷりに磨きがかかっている。パニエでふんわりとふくらんだスカートの裾には、繊細なレースが幾重にも縫いつけられている。もちろん、スカートとパニエの下に履いているのはドロワーズだ。スカートはそれほど短いものではないが、パニエで持ち上げられている分、動くたびにふわりと揺れて、ドロワーズの裾も見えてしまいそうだ。だが、母曰く、ドロワーズはたとえ見えても下品さはなく、むしろクラシカルで清楚なエロスを感じさせるものらしい。大昔にどこかの作家が言ったそうだが、メリサとしては余計なことを言ってくれたとしか思えない。  腰までの黒い髪と、青い瞳。人形のような容貌と、今日の装いは、より一層メリサを人形のような美少女に仕立て上げていた。黙って座っていたら、おそろしくリアルな球体関節人形だと思われるかもしれない。  メリサが職員室まで母を案内する間、誰もがメリサを振り返って見る。母の小鳥には、その瞬間がたまらなく心地良いようで、始終笑みを絶やさなかった。その笑顔を見るたびに、メリサの心は重く沈んでいく。  ──お母さんが見たいのは、可愛い娘。いい子のメリサ。  職員室のドアをノックするのが、これほどまでに億劫なのは初めてだ。控えめなノックののち、メリサはそっとドアを開いた。目当ての人物はすぐに見つかった──担任のローマン・ジェフリーズ。 「あの……母が、先生に挨拶をしたいと」 「挨拶?」  メリサの言葉に顔を上げたローマンは、メリサの後ろに立つ母に気づくと、すぐに教師の笑顔になった。 「これは、わざわざご丁寧にありがとうございます」 「いえ、朝のお忙しい時に、ごめんなさいね」  ──まったくだわ。  メリサは心の中で毒づく。 「それで、今日はどういったご用件で?」 「ええ、それなんですけれど……今日の合唱祭の様子を、撮らせていただけないかと思いまして」 「撮影ですか? 学校でも撮影を担当する者はいますが……」  ローマンが全て言い終えないうちに、小鳥は矢継ぎ早に話を続ける。 「ええ、でもぜひ撮らせていただきたくって……。担任のキルシ先生が入院なさっているでしょう? きっと今日の合唱祭のことを見たら、元気になってくれるでしょうって、うちのメリサが」  ──言ってないわよ、そんなこと!  そう思いながらも、メリサは無言で笑顔を作る。 「ああ、なるほど……。学校としても、撮影場所は指定させていただきますが、ご父兄の皆さんの撮影は禁止しておりません。それに、そういうことでしたら、ぜひ」 「まあ、ありがとうございます! メリサも喜びますわ」  ──どうだかね。 「そうだ、来月は自由研究発表会がありますが、そちらにはいらっしゃいますか?」 「ええ、都合が合えば……いえ、都合はつけるようにしますけれど」 「そうですか、父兄の皆さんにも発表ポスターは見学していただけるようにする予定ですので、よければこちらにも」 「まあ、嬉しいですわ」 「よかったな、メリサ。お母さんも見に来てくれるし、励みになるね」  メリサの心中にはまったく気づかず、ローマンは笑ってみせる。  ──ああ、もう……!  それでもメリサは、母が溺愛するいい子のメリサを演じ続けるのだった。 ●天地乖離す勝鬨の声  いよいよ、クラス発表の時間が近づいてくる。メリサがちらりと会場に目にやると、想像以上の重装備で母──小鳥がカメラをセッティングしていた。メリサはこの上なく、うんざりという顔でため息をつく。 「さあ、行くぞ諸君。練習通りにやれば、何も問題はない」  自信たっぷりに、クラウディオが言う。 「いつも通りにやれば、大丈夫ですよ」  小唄がそう言うと、みな安心したように頷いた。八代青海は、ポケットに忍ばせたモバイルの録音アプリを、そっと立ち上げる。舞台袖から、舞台の真ん中へ、子どもたちは最初の一歩踏み出していった。  緊張した様子もなく、指揮者を担当する鈴香は指揮者台へと歩いていった。その足取りは、普段と何ら変わるところはない。客席に向かって、ぺこりとお辞儀をした鈴香は、厳しく咳払いをする。そして緊張した面持ちで並ぶクラスメートたちに向き直り、指揮棒を手に、高く振り上げ──そして、また客席側に振り返る。 「え?」  ピアノを担当している雫がとまどう──え、どうしたらいいの?  ざわつきだした客席と、背中から伝わってくる困惑を浴びながら、鈴香は大きく口を開き、歌い出した。  歩き出す僕たち 明日を目指し  この胸にあるのは 夢と勇気  その歌は、課題曲『星の海を越えて』だった──ずいぶん、耳慣れないメロディにアレンジされているが。 「え?」  メリサの母、小鳥が撮影中だということも忘れて、思わずぽかんと立ち尽くす。 「えっと……これは……」  教職員席にいるヴィヴィアン・フェイが、ローマンの顔を見やる。 「ずいぶん変わった歌ですねぇ」 「初めて聞くのぉ」  父兄の観覧席に座った、柳瀬小唄の祖父母が不思議なものを見る目で、壇上の鈴香を見ていた。  今は遠い大地だけど  いつか必ずたどり着く  これこそが、鈴香が編み出した必殺奥義──「恐怖! スズカリサイタル!!」の全貌である。またの名は、「スパーク一発やり逃げ」である。たぶん。  そもそも鈴香は歌は苦手だ。音痴だという自覚もある。指揮者に立候補したのも、歌が上手くない自分がクラスの足を引っ張るわけにはいかない、という思いがあったからだ──というのは、建前である。もちろん、その思いがまったくないわけではないが、どちらかといえば一発ぶちかましてみたい、という気持ちの方が強い。  アカペラで、臆することなく独唱する鈴香の歌は、人によっては、「これはまたずいぶんと大胆なアレンジで……す、ねぇ?」と言うかもしれない。中には、「原曲が行方不明なアレンジというのも、この世にはあるしね」と言う者もいるかもしれない。 「ふっ……なかなかやるな」  鈴香の独唱に耳を傾けながら、クラウディオが笑う。 「それでこそ、俺のクラスの一員だ。──おまえは今日から歌姫と名乗るがいい」  名付け親による厳粛な名付け儀式の横で、委員長こと留乃歌が頭を抱えていた。 「ちょっと……何してくれてるのよぉおおお」  地を這うようなその叫びも、鈴香の独創性に富んだメロディと、常識にとらわれないリズム感によってかき消されていく。  星の海を越えてゆこう  新しい世界へ翼広げ  最後のフレーズまで歌い切ると、あたりは静寂に包まれた。え、これ拍手するの? していいの? え? え? ──そんな空気が漂う。  満足気な鈴香は、ゆっくりとお辞儀をすると言った。 「それでは皆様、ぼくたちのクラスの合唱をお楽しみください」  なんとなく雰囲気に飲まれて、ぱらぱらと拍手が起こる。  指揮棒を手にした鈴香を見て、あわてて雫が前奏を弾き始める。他の子どもたちは、唐突に始まった本番にとまどいを隠せないまま、歌い始めるが、指揮も演奏も歌声も、ちぐはぐで上手く噛み合わない。  メリサはこみ上げてくる笑いを抑えるのに必死だった。  ──お母さん、どんなにびっくりしてるかしら!  その快哉は、メリサのささやかな反抗期の始まりだったかもしれない。 ●必勝の黄薔薇  最後のピアノの音が、消えるか消えないか、その瞬間だった。 「はーはっはっはっ!」  高らかに、幼い少女の笑い声が唐突に響き渡った。その声は、ローマンには聞き覚えのあるものだった。 「え、何?」  ローマンだけでなく、会場全体が呆気にとられている。 「私からの餞別じゃ! 受け取れぃッ!」  その声とともに、舞台に舞ったのは── 「ば、薔薇……?」  撮影用スペースで撮影していた小鳥が思わず声に出したように、舞台に大量の薔薇の花びらが降り注いだのだった──降り注ぐというか、どばっと落ちてきた、という感じではあるが。 「皆の合唱に華を添えようぞ! どうじゃ、薔薇も喜んでおるわ!」  外見からかけ離れた、妙に老成した口調で笑うのは、皆藤華名だ。  華名は、音楽が得意ではない。だから合唱祭は正直なところ、敬遠したい行事のひとつだ。歌の練習をするくらいなら、一分でも一秒で薔薇と向き合っていたい。だが、さすがにキルシへの見舞いと盛り上がるクラスメートたちの前で、その気持ちを口にするわけにもいかない。そこで考えたのが、華名が育てた薔薇の花びらを舞台に降らせることだった。これなら華名の好きな薔薇も生かしつつ、合唱祭に貢献できる。毎日のように、剪定で生じる花がら処分もできて一石二鳥ラッキー♪ とは、さすがに口には出さない。  会場全体が呆然と、舞い落ちる薔薇の花びらをただ見守る中、一番困惑していたのは舞台上に立っている子どもたちだっただろう。 「何これ?」 「すげー、なんかすげー! よくわかんないけどすげー!」 「きれーい、薔薇の花だよ」 「わあ、ピンク!」 「あ、こっちは真っ赤だよ」 「黄色もあるよー」 「いい匂いだねぇ」 「あっ、見て! あそこから降ってきてる!」  誰かが指差す先には、くす玉が揺れている。舞台の右端で、華名が誇らしげに、くす玉のひもを握って揺らしている。そのたびに、くす玉の中に残っている花びらが、また降り注ぐ。  今朝積んだばかりなのだろう、朝露でまだしっとりと濡れる花びらは、触れてみるとやわらかな冷たさが伝わってくる。やや肉厚の花びらは、花の王者にふさわしい貫禄を惜しみなく振りまいていた。 「あら、これ……緑色……でも葉ではないわ、花びらね」  花びらを一枚拾ったジャンヌ・ツェペリが首を傾げる。 「それはな、わかなという薔薇だ。見ての通り淡い緑色をしておるが、花が開くにつれて中から白い色が覗くんじゃ」  誇らしげに、華名が説明する。 「そういえば、はるか昔だけれど、薔薇十字団という魔術の秘密結社があったそうよ。ここから生まれた英国薔薇十字団から、あの有名な黄金の夜明けも生まれたというわ」 「へー。よくわかんないけど、ジャンヌちゃん物知りだねぇ」  ジャンヌの薀蓄に、はるせが感心したように言う。床を埋め尽くすほどの大量の薔薇の花びらを見ているうちに、はるせの中で春が弾けた。 「すごーい! すごーい! ねっ、ぴぃちゃん!」  すっかり興奮したのか、はるせがぴょこぴょこと壇上で飛び跳ねている。持っていた電子リコーダー──ぴぃちゃんを取り出すと、先程歌ったばかりの『星の海を越えて』を吹き始める。そのメロディに合わせて、なんとなくその場のノリで、子どもたちはまた歌いだす。誰からともなく始めた手拍子とともに、はるせのリコーダーと、ばらばらの歌声が会場に広がっていく。華名がくす玉のひもを揺さぶり過ぎて、舞台の真ん中に空っぽのくす玉が墜落したりと、文字通りのお祭り騒ぎになりつつある舞台の上では、思い思いに歌い、飛び跳ね、はしゃぎ回る子どもたちの姿があった。  星の海を越えてゆこう  新しい世界へ翼広げ── ●歌の杯  合唱祭が終わり、教室に戻っても、まだ子どもたちの興奮は続いていた。職員室から戻ってきたローマンが、手を叩いてもなかなか静かにならない。ようやくトーンダウンしてきた子どもたちに向かって、ローマンは言った。 「今年の合唱祭、特別演出賞をもらいました」  途端に、わっと教室いっぱいに歓声が上がる。 「すげー!」 「ほんとに!?」 「俺たちすげーじゃん!」 「賞もらっちゃったね!」 「練習してよかったー!」 「キルシ先生にも伝えなきゃねー!」 「薔薇きれいだったねー」 「はーはっはっはっ! そうじゃろうそうじゃろう!」  思い思いに、喜びと驚きを口にし、満面の笑顔を浮かべる子どもたちの姿を満足げに見やりながら、ローマンの内心は釈然としない。  なぜなら、子どもたちの歌や努力が報われたというより、単に面白がられたというのが実際だからだ。  予期せぬ鈴香の独唱に始まり、子どもたちの合唱──保健医ベネディクト・ハンゼルカの言葉を借りれば「頑張ってるというのは伝わってくる」──、そして華名による薔薇の演出と、それらがすべて一連の演出だと思われたのだ。特別演出賞というより、ハプニング賞といった方が限りなく現実に近い。だが、賞をもらえたと無邪気に喜ぶ子どもたちを見ていれば、そんなことは些末なことだ。 「なんか若手芸人みたいな勢いがあって良かったよ」 「異彩を放っておりましたわね」  という、保健医の夜淵四季や、司書教諭ヴィヴィアン・フェイの寸評は、この際ローマンはきれいさっぱり忘れることにしたのだった。 ●地上の星が瞬く頃に 「三、ニ、一──点灯!」  カウントダウンの後、街中の街灯という街灯に明かりが灯った。途端に、あちこちで歓声が沸き上がる。  これまでは電力事情を鑑み、治安や市民の安全のために設置されている街灯のすべてが点灯することは滅多になく、ローテーションで点灯・非点灯を繰り返していた。それは、節電だけでなく、各機器の消耗や交換を先延ばしにする意味もあったが、市民たち──特に幼い子どもがいる家庭──からは不評だった。  だが、それも水素発電が開始されるまでの話だ。  水素発電所からの送電実験が行われるこの日は、水素発電所内の光景がリアルタイムで配信されていた。これからは、夜になれば街中の街灯が灯り、安心して歩ける日々がずっと続くだろう。停電の心配も、古い地下・地上送電網のリニューアルが終われば、一気に解消されるはずだ、と父──片岡音彦が語るのを、春希は嬉しそうに見ていた。  立ち並ぶ街灯のすべてが、明るく夜の闇を照らしている。  今日ばかりは、子どもたちも夜ふかしが許される。まるでハロウィーンの季節のような、頬が思わず緩む雰囲気が街中に満ちていた。上空から街を見下ろしたら、地上の星のように輝いて見えることだろう。  しかし、そんな光景を、どこか寂しげに見る子どももいた。 「星、あんまり見えないね」  ぽつりと漏らすクロワの言葉に、辻風麻里子は小さく頷く。その様子を、麻里子と手をつないだ弟の海斗は、不思議そうに見上げている。 「おほしさまー? いないの? どこかへいっちゃった? ばいばい?」 「ううん、いるよ。お星様は、ちゃんといるよ」  弟の言葉に、苦笑いしながら麻里子は答え、夜空を見上げた。そこには、今日も満天の星空が広がっているはずだった。今夜は、街を照らす人工の明かりに、星の瞬きはかき消され、よく見えない。 -------------------------------------------------- ■ 登場PC・NPC一覧 -------------------------------------------------- 【PC】 ・クラウディオ・トーレス ・柳瀬小唄 ・白鐘鈴香 ・御手留乃歌 ・御堂花楓 ・榛雫 ・クロワ・バティーニュ ・西藤はるせ ・皆藤華名 ・百日紅メリサ 【ちょっとだけ出てきました系PC】 ・陳宝花 ・ジェシー・ジョーンズ ・島田ミズキ ・穂刈幸子郎 ・衛宮さつき ・黒葛野鶫 ・白戸さぎり ・八代青海 ・ジャンヌ・ツェペリ ・辻風麻里子 【NPC】 ・ローマン・ジェフリーズ ・ライサ・チュルコヴァ ・キルシ・サロコスキ ・百日紅小鳥 【ちらっといたね系NPC】 ・ルーチェ・ナーゾ ・片岡春希 ・柳瀬小唄の祖父母 ・ヴィヴィアン・フェイ ・ベネディクト・ハンゼルカ ・夜淵四季 ・片岡音彦