-------------------------------------------------- PBeM『VOiCE』第3回リアクション 03-B まごころを貴方に -------------------------------------------------- ●五月女王に祈りを  五月は卒業、そして進級・進学のシーズンだ。芽吹く緑に囲まれながら、子どもたちは次の世界へと巣立っていく。  ふたつの丘で生まれ、育ち、いずれはここで死んでいく。  中には、他の街へと旅立つ者もいるだろう。  そうやって、人々はこの地で歴史を作ってきたのだ。  今月末には、水素発電所が本格稼働する予定だ。自然が生み出す夜の闇を、人間が生み出した科学の光が照らす。  それは、子どもたちの前途も照らしているように、大人たちには思えた。  子どもたちの行く末が、光と幸いに満ちたものであるように、と誰もが願っている。 ●すべてが日記になる  放課後の図書室で、クロワ・バティーニュは思わず快哉を上げそうになった。読んでいた本から顔を上げた拍子に、司書教諭のヴィヴィアン・フェイと目が合ったおかげで、なんとかその衝動をこらえることができた。  ──これよ、これ!  興奮を隠しきれず、クロワは小さくガッツポーズをする。その様子を、同じクラスのエルメル・イコネンが不思議そうに見ていたが、じきに視線を外して書架の影へ消えていった。  クロワは急いで本の貸出手続きをすると、図書室を足早に立ち去った。  交換日記。  一冊の日記帳を友人間などで共有し、順番に回して日記をつけたり相手へのメッセージを書き込んでいく行為のこと、またはその共有される日記帳自体をいう。  ニッポン独自の習慣といわれる。  クロワが見つけた本には、そう書いてあった。ニッポン独自の云々という言葉の意味はよく分からないが、そんなことはどうでもいい。 「これは提案しなくちゃ! 試験が終わったら、すぐに会いに行くねって言っとこうっと」  クロワは、入院中の友達──穂刈幸子郎と衛宮さつき、そして担任のキルシ・サロコスキにメッセージラインを送る。交換日記のことも合わせて送れば手っ取り早いとは思うのだが、なんだか直接話したい気分だった。それに、できれば直接話して、クロワが「交換日記」のことを知ったとき、どれほど嬉しくて楽しかったか伝えたかった。  メッセージラインも、誰かと連絡を取ったり、おしゃべりするのに便利だ。でも、それは誰でも使える、いわば「公共の場」でもあって──クロワたちだけの特別な場とするには、今ひとつ物足りない。  交換日記──メールでもメッセージラインでもない、このなんだか素敵で特別な響き! ●冷たい病院と医師たち  衛宮さつきの尋ね人は、職員用の休憩スペースで紅茶を飲んでいた。さつきのことには気づいていないのか、ぼんやりとソファに腰かけて、窓の外を眺めている。ナースステーションに行ったら不在で、あえなく空振りだった時にはちょっとイラッ☆としたが、遠くを見ている彼女の様子を伺っていると、疲れているのかな、とも思う。 「フェリシテさーん」  ぱたぱたとスリッパの踵を鳴らしながら、さつきは彼女──フェリシテ・サン=ジュストに声をかけた。 「あっ、わ」  よほど気を抜いていたのか、フェリシテは弾かれるように立ち上がり、声の主がさつきだと知るとため息をついた。さつきと目線が合うように、紅茶のカップを持ったまま、腰をかがめる。 「ああ、びっくりした。どうしたの、さっちゃん? 私に何か用?」  長期入院しているさつきにとって、病院内は勝手知ったるなんとやらではあるが、それでも用もなく職員用のスペースに入ってくることはあまりない。 「あのね、教えてほしいことがあるの」 「お勉強? うーん、私が知ってることならいいんだけど」   フェリシテは、宿題のことでも聞かれると思ったのだろうか、苦笑いしながら答える。 「あのねあのね、"るあな・あるむりあ"っていう人、フェリシテさん知ってる?」 「え」  思わぬ質問だったのか、フェリシテは一瞬呆気にとられたような顔をして、すぐに「看護士」の目つきに戻った。 「さっちゃん、どこでそんなこと知ったの?」 「ネット」  そう言って、さつきは持っていたタブレットの画面をずいとフェリシテに差し出して見せた。 「ここに載っているんだけどね、読めない字がいっぱいあって……だから、フェリシテさんが知ってたら、教えてほしいなって」  そこに表示されていたのは、「ルアナ・アルムニア」の検索結果から抜き出したメモだった。 「……どうして、さっちゃんは知りたいと思ったのかな?」  フェリシテの妙に優しい声音に、さつきは思わず身構えた──大人がこういう口調のとき、たいてい何か後ろめたいことがあるの。 「……んー。言わないと、だめ?」 「そうね」  ちぇっ、と内心舌打ちしつつ、さつきは答えた。 「キルシ先生の病気を治す方法が知りたいから」  担任のキルシの名を口にした途端、堰が切れたように、後から後から言葉がこぼれ出てくる。 「わたしね、キルシ先生に元気になってほしいの。わたしも手術したら元気になれるんだよね? 先生の病気はどうやったら治るの? 先生はどうしたら元気になってくれるの? 注射で治る? お薬で治る? ねえ──」  フェリシテは、困ったような顔をしてさつきを見つめている。さつきはもう一回タブレットの画面をフェリシテに見せる。 「ねえ、だったら、せめて、ここになんて書いてあるのか読んで。読み方がわかったら、自分で調べられるもん」  ぐっと唇を噛んで、さつきはフェリシテの目を見つめる──こういう時はちょっとわがままに振る舞うくらいでちょうどいいんだもん。  やがてフェリシテは、貸してちょうだい、とさつきの手からタブレットをそっと取った。 「……どうしても知りたいの?」 「どうしても!」  ああもうわからず屋だなぁと思いながら、さつきは強く深く頷いた。 「そう……」  フェリシテはため息をつくと、タブレットの画面を静かに読み上げた。 「──十九歳で発症した女性「ルアナ・アルムニア」(第二世代)は、当初若年性アルツハイマー病と診断され、iPS細胞によって治療を行い、完治したと思われていた。ところが三年後(二十二歳)、再び同じ症状を発症。当時は医療ミスや遺伝子治療の失敗が考えられたが、その後の調査で否定された。このことにより、遺伝性ではない、別の要因があると結論づけられた。その後、ルアナは対症療法を続けたものの、二度目の発症から二年後、二十四歳の誕生日に死亡(通称「ルアナ症例(ルアナ・ケース)」)以来、「致死性ルアナ・アルムニア症候群」と呼称される」  あまりに淡々とした声と、聞きなれない単語のオンパレードに、さつきは首を傾げるしかなかった──だが、何かひどく不吉なことを言われているような気がして、ぞっとした。 ●泣かない教師 「入院してる人に、学校に来てもらうのは大変だと思うんです。だから、私たちの方から行けばいいと思って」  試験が終わって、どことなくほっとした雰囲気が漂う職員室で、榛雫は担任のローマン・ジェフリーズの目をまっすぐに見て、そう言った。 「さつきちゃんや、幸子郎くんとお勉強したいです」  雫が職員室へ来たのは、夏期講習についてローマンに頼みたいことがあったからだ。試験終了のチャイムが鳴り、ホームルームが終わると、職員室へ戻るローマンの後を追うように職員室へやってきた。  そして雫は、これから始まる夏期講習で、入院中のキルシやさつき、幸子郎たちと一緒に勉強したいと訴えた。だが、入院中のキルシたちに、学校に来いというのはさすがに無理がある。そもそも病院側の許可が下りないだろう。だから雫は、自分たちが病院へ行けばいいと考えたのだ。  いつになく、強い口調できっぱりと言い切って、雫はローマンの様子を伺う。ローマンは、何か考え込んでいるようで、返答があるまではやや間があった。 「雫の提案はとても素敵だと思うよ。ただ……」 「ただ?」  雫が聞き返すと、ローマンは言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。 「夏期講習をお願いするなら、キルシ先生にも準備の時間をあげないとね。すぐに、というのは難しいかな」   ──違う。  雫の直感はそう告げた。  何度もキルシのお見舞いに行く度に、雫は違和感を覚えるようになった。明らかに、キルシは「忘れて」いっている。ついこの間交わした会話や、担任だったころのことを、少しずつ──だが、確実に思い出せなくなっている。あのままでは、いつか私たちのことも──キルシ自身のことさえも、キルシの中から喪われていきそうで、雫にはそれがたまらなく怖かった。忘れないで、と言えれば、この不安は消えるだろうか。 「それに毎日は無理だろうし……でも、先生からもキルシ先生と病院にお願いしておくよ。調整がうまくいったら、先生からみんなに伝えよう。さつきや幸子郎も、雫の提案をきっと喜んでくれるはずだ。みんなで一緒に勉強したいものね」  ローマンの口調はどこか諭すようで、雫にはそれがなんだか悲しかった。  キルシは、おそらくこれからも「忘れ」続けていくのだろう。それは、雫も薄々理解しつつあった。  それなら、新しく覚えればいい。  消えていく思い出の代わりに、新しい思い出を作っていけばいい。  でも、それはあんな殺風景で寂しい病室ではなくて、みんながいる、この学校がいい。 「キルシ先生は」 「ん?」 「キルシ先生は、戻ってこれますよね?」 「……どういう意味だい?」 「帰ってこれますよね? 病気を治して、退院して、また学校に来てくれますよね?」  そこまで言って、次の言葉の代わりに出てきたのは、一粒の涙だった。口を開くが、言葉がうまく選べない。なぜか涙ばかりこぼれて、雫の胸が詰まる。 「……そうだね。また来れるように、雫も応援してあげるといい」  ローマンはハンカチを手渡しながら、優しく雫の頭を撫でる。  そのハンカチを受け取りながら、雫は思った。  そういえば、ローマン先生は一度も「退院できるよ」とか「きっと良くなるよ」って、言ってくれない。   ●詩的詩的交換  進級試験が終わると、早速クロワは病院へ出かけていった。慣れた様子でロビーを抜け、迷いのない足取りで病室へ向かう。キルシは、教室で教鞭をとっていた頃と変わらない笑顔で、今日もクロワを出迎えてくれた。 「あら、こんにちは、クロワ」 「先生、こんにちは。ちょっと来て!」  挨拶もそこそこに、クロワはキルシの手をとって、幸子郎の病室へと向かった。幸子郎もまた、いつもと変わりない様子だった──電子リコーダーのボリュームは、さすがに抑えるようにしたらしい。 「クロワちゃん、どうしたの?」 「幸子郎も来て!」 「どこ行くの?」 「さつきのところ!」  幸子郎とキルシの病室は同じフロアなので移動は楽だが、さつきの病室は別のフロアにある。こういうとき、めんどくさいなぁとクロワは内心思った。ぱたぱたと小走りに──看護士に叱られない程度に──病室まで、クロワは幸子郎とキルシの手を引っ張っていく。 「さつきー、いいこと思いついたの!」  そうしてたどり着いた病室で、さつきはベッドの上でタブレットを見つめていた。さつきの表情は、真剣そうな、思いつめたような様子で、幸子郎はなんだか不思議だった。 「さつき?」 「あ、」  クロワが近寄って呼びかけると、さつきはようやくクロワたちの存在に気づいたのか、慌てて顔を上げた。見ていた画面をさっと消すと、三人に向き直る。 「なぁに?」 「あのねー、いいこと思いついたんだぁ」 「いいことってなーに?」  幸子郎が興味深そうに尋ねてくるのを見て、クロワは満面の笑顔で答えた。 「交換日記するの! わたしたち四人で!」 「こーかんにっき?」  クロワは自分のタブレットを取り出すと、図書室で見つけた交換日記の説明ページを表示した。 「ほら見て、これ。友達同士で同じ日記に順番に書いていくんだって。本当は紙でできたノートでやるらしいんだけど、そういうのないから、わたしたちはメールでやろうよ」  矢継ぎ早に説明するクロワに、幸子郎は自慢するかのように胸を張って言う。 「日記だったら、ぼくも書いてるよ」 「うーんと、そういうんじゃなくてぇ、みんなでやるの。ひとりだけの日記じゃなくなるんだよ〜」 「みんなで? わたしと、クロワちゃんと、幸子郎くんと、キルシ先生?」 「そう! ほら、試験とかあると、わたしもあんまり病院来れなくなっちゃうし。みんなが病院にいるとき、何してるのかとか、好きなものとか嫌いなものとか、いっぱい知りたいの。それにね、クラスのこともいっぱい知ってほしいんだぁ。さつきちゃんと幸子郎くんとキルシ先生が、いつ学校に戻ってきても大丈夫なように、毎日何があったか日記に書いておけば、みんな見れるでしょ?」  そう言って、クロワはデータストレージを呼び出した。 「でも、みんながバラバラに書いちゃうと全然交換日記にならないじゃない。わたしのボックスにメモ帳作っておくから、ここに書いて」  ボックスは、普段は宿題の提出などで使うネット上のデータ共有領域だ。クロワは病院に来る前に、ボックス内に自分で管理し、特定の相手とだけ共有できるように個人フォルダを設定しておいた。その中に日記を入れておけば、実質的に交換日記に近い形式になるだろう。 「これなら、誰かが日記を書いて上書きすれば、すぐ分かるでしょ? あ、日記書くときは名前もちゃんと書いてね〜。誰だかわかんなくなっちゃうから」 「そうね、それだとメールチェックしなくても、誰かが日記を書いてくれたのがわかるわね……でも、毎日書かないとダメよね。日記だもの」 「うーん、まあ、できれば……わたしは、毎日書くつもりだけど……」  クロワの返答に、キルシは天井を見上げた。そしてしばらくしてから、キルシは腰をかがめて、三人だけに聞こえるような小声で囁いた──先生、日記の宿題って苦手だったの。 「先生にも苦手なものってあったの?」  意外そうに幸子郎が言うと、キルシは子どものような顔で照れ笑いを浮かべた。  こうして、四人の交換日記は始まった。   ●開封再度  進級試験が終わると、学校の中で、決まって寂しくなる場所がある。卒業していく最上級生の教室がある階だ。無事に卒業が決まれば、卒業式の日まで最上級生たちは自由登校扱いになる。がらんとしたその一角に、他の学年たちの賑やかな声だけが遠く響き渡る。  この時期になると、八代青海はそっとひとり、最上級生たちの教室へやってくる。誰かが使っていたはずの机が、次の使い手を静かに待っているその中で、青海は手近な席にちょこんと座った。  がらんとした教室で、遠い潮騒のような子どもたちの笑い声に耳を傾けながら、青海は、ひとりでメールの文面を打っている。メッセージラインでもいいのだが、きちんとした「手紙」として送りたいのだ。  しばらくして、青海はモバイルの画面に表示された送信マークをタップする。すぐに送信完了のダイアログが出てきて、相手に青海の「手紙」が届いたことを知らせる。  今年も双子の兄、青葉の主治医──岸城朗人にメールを送った。文面は毎年変わらない。違うところがあるとすれば、年を追うごとに語彙が豊富になっている点だろう。季節の挨拶から始まって──それが「礼儀正しい」やり方だと教わったのだ──、お決まりの文面、そして結びの言葉。  青海は、今さっき送ったばかりの文面を改めて読みなおす。  あきと先生へ  こんにちは、今年もばらの花がきれいに咲くころになりました。お元気ですか。  今年は、青葉は学校へ行っていいですか。  青海は青葉といっしょに学校へ行きたいです。  だめだったら、青海が青葉といっしょに病院に入院するのでもいいです。  ごけんとうください。  それでは、おかぜなどめされませんよう。  ごきげんよう。  青海  ごけんとうください、は父から教わった言葉だ。なんでも、相手に何かをお願いするときに大人が使う言葉らしい。おそらく、考えておいてね、という意味なのだろうが、父の話を聞く限り、これをやってください、というような使い方をするらしい、と青海は思っていた。  おかぜをめされませんよう、は母から教わった。病気にならないよう、相手を気遣う別れの挨拶だという。病気や怪我を治すお医者さん相手に、病気になるなってちょっとおかしいかな、と思ったが、もう十歳だし、大人の言葉遣いだってできるというところを、あきと先生にも見せてあげよう。  ──今年の青海はちょっと強気に、大人っぽく攻めるの。  返信はすぐには来ないことを、青海は経験上知っている。  モバイルをバッグに入れると、赤いフードをかぶりなおして、青海は教室を出ていった。 ●現実の志と使途  女の子は強くなきゃいけないのよ、と母は言った。ただ、強いといっても喧嘩とかではなくて、心の強さよ、とも。  菜月加奈の最近の気がかりは、入院中のキルシのことだった。お互いに体を動かすのが好きという共通点もあって、お見舞いに行くたびにトレーニングやスポーツの話題で盛り上がる。差し入れに持っていった鉄アレイを撫でながら、楽しげに語るキルシを見るのが加奈は好きだった。ただ、最近はキルシが以前交わした話を忘れていたり、ちょっとした単語や名前が思い出せないことが増えてきた。そして、そのたびにキルシは、ほんの一瞬だけ暗い表情になる。深い底なしの沼を足をとられて、そのまま沈んでいくしかない──そう悟ったときに、きっとキルシのような目をするのだろう。  試験が終わって、ようやく勉強や、進級という名の厄介な心配事から解放されて、加奈は足取りも軽く病院へ向かっていた。手には、おみやげのハンドグリップ。どうしても寝て過ごすことが多いだろうキルシには、本当は下半身トレーニングのグッズを贈りたいところだが、加奈のお小遣いで買うにはあまりにハードルが高すぎた。可愛らしいピンク色のハンドグリップは、実は加奈が使っているものとおそろいだ。  そして、今日の加奈にはもうひとつ、自身に課したことがあった。 「先生、こんにちはぁ」  病室を覗くと、いつものようにキルシがベッドの上にいて、加奈を見て微笑んでくれた。 「こんにちは、加奈。進級試験はどうだった?」 「えへへ、みんな進級できたよ〜。さぎりくんとか超やばかったみたいなんだけどねぇ、委員長がいろいろ面倒見てくれたんだ」 「そう。じゃあ、来年もまたみんな一緒ね」 「うん!」  元気よく頷いてから、加奈は言った──先生もね!  その言葉に、キルシは微笑んだまま、何も返さない。  加奈はいつものように、病室の椅子にちょこんと座ると、おみやげのハンドグリップを渡した。色が可愛いと褒めてくれるキルシにまっすぐ向き合い、口を開く。 「あのね、先生?」 「どうしたの、改まって」 「……先生の病気って、なぁに?」 「なんだと思う?」  いたずらっぽい口調のわりに、キルシの顔は明るいとは言いがたい。 「わかんない……だから、教えてほしいんです」  まっすぐ、目を見る。女の子は強くなきゃいけないの──たとえば、こんなとき、目をそらさずにいられるように。キルシはしばらく黙って、ハンドグリップを握っていた。開かれた窓から吹き込む風が、殺風景な部屋の無愛想なカーテンを揺らす。その衣ずれの音を聞きながら、加奈はキルシの答えをじっと待った。 「そう、ね。どう言ったらいいのかな」  ぽつりとキルシが言った。 「どう答えたらいいと思う?」 「……私、難しい言葉とかは、きっとわかんないと思う。でも……でも、私たちはみんな元気なのに、先生だけが病気で苦しんでるって、そんなの不公平だし」 「世の中には不公平で不平等なことなんて、いっぱいあるわ」 「だけど」 「誰にでも、病気は訪れる──世の中、不公平で不平等だけど、こればかりは平等だったりするのよね。どんなに気をつけていたって、曲がり角を曲がったら突然ぶつかってくることもあるのよ」 「でも」 「でも?」 「……ひとりでいたって、悪いことばっかり考えちゃうもん」  加奈は、キルシから目をそらさずに言った。 「ひとりで悩んだりしてると、どんどん悪いことばっかり考えちゃうから。だから、だから、私も先生の病気のこと、ちょっとだけど、背負います。お医者さんじゃないから、治すとか無理だけど」  どうやったら思いが伝わるかわからなくて、思いつくままに言葉をつなげてみたが、宙ぶらりんなまま言葉がすべっていくようで、加奈は妙な焦燥感を覚え始めた。次の言葉が思いつけなくて、加奈はとうとううつむいてしまった。 「……その」 「私の病気って厄介だわ」  キルシが誰に言うでもないような、ひとりごとのように呟く。 「どんどん忘れていく。昨日覚えたことを今日も思い出せる確証なんてない。今こうして話してることも、明日になったら忘れるかもしれない。そうやってすべて忘れてしまったら、私はそのときどうなっているのかしら? 私が私であることも、いつか忘れてしまうのかしら」 「……先生は忘れても、私は覚えてるよ。先生が忘れちゃうなら、私が覚えててあげる」  加奈の言葉に、キルシはゆっくりと頭を振った。 「ああもう、いやね」 「え、あの」 「違うの、私のことよ。先生なんだから──もっとしっかりしないとね」  そう言うと、キルシは加奈の髪を撫でた──ありがとう。  加奈が何と返そうか迷っていると、不意にドアがノックされた。どうぞ、とキルシがいつもと変わらない声音で返すと、加奈のクラスメート──雫が入ってきた。 「あの、こんにちは、キルシ先生。加奈ちゃんも来てたのね」 「こんにちは。今日は雫も来てくれたのね」  雫は、キルシと加奈を交互に見やりながら、ぺこりとお辞儀をした。手には、小さな花束──殺風景な白い部屋を彩る、数少ない色だ。 「あの、今日はちょっと、お願いがあってきました」 「お願い? あら、なにかしら?」  キルシが不思議そうに首を傾げる。雫は、珍しく単刀直入に言った。 「夏期講習をお願いします」  その言葉に、思わず加奈が顔を上げる。 「えっ、どういうこと?」  雫は、ローマンを通して病院に、キルシに夏期講習をやってもらえるよう頼んでいた。本当は学校に来て、いままでのように教室でやってもらいたかったのだが、検討と妥協の結果、病院の会議室を貸すということで落ち着いたようだ。それも、キルシの体調を見て、病院側が指定する日時だけということになったが、無碍に断られなかっただけよかったと雫は思うことにしていた。 「病院の先生から、改めてお話がいくだろうって、ローマン先生がおっしゃってましたけど……」 「そうなの! わあ、嬉しいわ! まだ聞いていないけど、今日にでも話があるかもしれないわ」  キルシが嬉しそうに手を叩きながら言った。 「ふふ、雫の話を知らないふりして驚いてあげるのがいいと思う? それともクールに振舞った方がいいかしら?」  はしゃぐ担任教師の姿に、加奈も雫も思わず笑い出してしまうのだった。 ●夏のマドレーヌ  黒葛野鶫は、遠慮がちにその病室のドアをノックした。さすがに、前回の二の轍は踏むまい。どうぞ、と聞こえた気がして、ドアを開けた。 「……あれ?」 「……え?」  鶫は母親との面会を済ませた後、友人たちの見舞いに来た──つもりだったのだが。 「……お前、どこか悪かったっけ?」  鶫は、そう言うのが精一杯だった。さつきの病室に来たと思ったら、クラスメートの八代青海がちょこんとベッドの上にいた。何を言っているのかわからないと思うが以下様式美に沿った文言が続くので省略します。 「え? えっと……」  青海も、まさか鶫がやってくるとは夢にも思わなかったのだろう。しかし水臭い。同じクラスで学ぶ仲じゃないか、なぜひとこと入院すると言ってくれないのか。試験のときも、いつもと変わらない様子だったのに──健康とは失われるときには、呆気ないほどにあっさりと失われてしまうものなのだろう。 「青海まで入院するなんてなぁ……新学期には戻ってこれそうか?」 「あの」 「まあ、アレだな。先生の言うことちゃんと聞いてさ、しっかり治せよ。あ、これおみやげ。せっかくだから、青海にもやるよ」  そう言って、鶫は持ってきた袋の中から無造作にマドレーヌを取り出し、青海の手に握らせた。ちょっと多めに作ってきておいてよかった。  当の青海は手の中のマドレーヌと鶫を、不思議そうに見ている。ややあって、口を開く。 「えっと……もらっていいの? 誰かに買ってきたんでしょ、いいの?」  鶫が料理上手だと知らなければ、当然の反応だろう。 「あー……別にいいよ。やる。俺はこれから、さつ……幸子郎たちのとこにも行くけど、青海も来るか?」 「え、あの」  入院することを黙っていたくらいだ、クラスメートとも顔を合わせづらいのだろう。その時、病室の扉が開いた。ああ、そうか、問診か。鶫は挨拶もそこそこに、立ち去ろうとした──開いたドアの前に、青海がもうひとり。 「…………あれ?」 「鶫、何してるの?」 「青海、その子誰?」  三者三様、それぞれに言葉は違うものの、全員が狐につままれたような顔で、お互いを見やる。しばらく沈黙が続いたが、口火を切ったのは鶫だった。 「誰って俺だよ、鶫じゃないか」  何を言ってるんだこいつは、と鶫はベッドの上の青海を見る。ベッドの上の青海は、鶫を通り越して、ドアを開けた青海を見て言った。 「知ってる人?」  ドアを開けた青海もまた、鶫を通り越してベッドの上の青海に答えた。 「うん、クラスメートだよ」  二人の青海のあいだに立って、鶫は考えた──え、なんかおかしくない? 「……どういうことだ? 誰だ、お前たち?」  ベッドの上と、ドア──交互に鶫は青海を見やる。どちらも同じ顔。違いがあるとすれば、赤いフード付きのケープを着ているか、愛想も素っ気もないシンプル極まる入院着を着ているか、くらいだ。  あのね、とケープを着た青海が言った。 「青海は青海だよ。あっちは青葉」  えっとね、とベッドの上の青海も言った。 「青葉は青葉だよ。あっちが青海」  多少、声音の高低差はあるものの、ほぼ同じような声で、同じ顔が、同じようなことを言う。ようやく、鶫は事態を理解した。 「お前ら、双子か!」 「そうだよ」 「そうだよ」  鶫の声に、鏡合わせのような二人は、きれいなユニゾンで頷いた。  ●今はまだない  御堂花楓にとって、夏期講習ははっきり言ってダルい。この上なくダルい。何が楽しくて、すでに習ったものを再度時間をかけて学ぶのか。復習が大事と、教師も親も口を酸っぱくして言うが、花楓にはその理屈がさっぱりわからない──一度覚えたら、忘れるわけないじゃん。  行く必要がないから行かない。というのが、花楓の持論だったが、周りはそうは思っていなかった。特に陳宝花は「朝の体操」が終わると、花楓の手を引っ掴むようにして学校へ連れていく。有無を言わさぬ勢いに、さすがの花楓も呆気にとられているうちに、いつの間にかそれが習慣になってしまった。朝、体操に行って、そのまま学校へ──おかしい、なんか調子狂うぞ。  だが、それはそれで好都合といえば好都合だった。以前、ライサ・チュルコヴァと「風力発電所へ行こう」と約束したが、その履行を毎日迫れるわけだ。 「……ほんとに忘れないのね」  呆れているようにも、感心しているようにも取れる語調で、ライサは言った。銀髪が風に揺れている。 「まあねー」  花楓はあしらうように返すと、風力発電所のプロペラに視線を戻した。水素発電所が本格稼働し、電力不足は解消されたとはいえ、風力発電も太陽小発電もお役御免になったわけではない。むしろ、三種の発電方法をうまく組み合わせて、バランスを取っているのだと、ニュースアーカイブでは伝えていた。万が一、水素発電所で不具合が起きても、風が吹く限り、陽が射す限り、電気が作れるようにするのだという。 「勉強で来た時とはずいぶん違って見えるね」  花楓が、ライサに言うともなしに呟いた。ゆっくり回るプロペラは、今日は優雅にさえ見えた。  夏期講習が終わり、いよいよ今日は風力発電所へと行くことになった。ライサがまっすぐ家に帰らないことに、クラスメートたちもずいぶん驚いていた。だが、「夕方四時には帰るわよ!」ときっぱり言い切っているあたり、放課後あまり出歩かないのは変わらないらしい。  しばらく、二人とも無言でプロペラを見ていた。風切り音に混ざって、遠く潮騒が聞こえてくる。そういえば、海には行ったことないなぁと花楓はぼんやり思う。 「そういえばさ」 「ん、何?」  花楓がぽつりと言うと、ライサは視線をプロペラに向けたまま、ぼんやりと聞き返した。 「キルシ先生のお見舞い、どうだった?」 「どうだったって……まあ、別に普通っていうとこかしら。先生もそんなに変わりないようだったし……退院できないのが不思議よね」  ライサが見た感じでは、キルシはいかにも具合が悪そうという雰囲気でもなく、学校にいた頃とあまり変わりはないらしかった。 「ふーん。やっぱ一度くらいはお見舞いに行っとくべきなのかなぁ」 「あら、どうしたの? 花楓にしてはいい子発言ね」  くすくす笑うライサを横目に、花楓はもぞもぞと言い返す。 「いやぁ、だってさー。なんていうの、人として? 一応、行っといた方がいいかな的なさー」 「まあ、いいんじゃない? 夏期講習が終われば、学校はお休みだし。結構みんな自由にお見舞い行くようになってるから、気にせず行っていいと思うわよ」 「あー、うん、まあそうなんだけどさー」  あっさりとしたライサの言葉に、花楓は口を濁した。 「なんていうかさ、ほら、わたし、あんま先生と仲良くはなかったしさー。行ってもアレかなーとか思っちゃうけど、行かないのもアレかなーみたいな?」 「そういうものかしら」 「そういうものだよ。ねえ、だから一緒に行かない? なんていうか、ひとりで行くのもなぁって」 「別にいいけど……」  確かに、どちらかといえば問題児の部類に入る花楓が、ひとりでキルシのお見舞いに行くのは、どことなくバツが悪いような気もするのだろう。ライサはそう思って、素直に頷くことにした。 「マジで? ありがとー」 「素直に感謝されるのも何かありそうな気がするわね……」 「何か言った?」 「いえ、別に」 「それにさー。病院行くのって、なーんか億劫っていうかさー」 「まあ、行って楽しいとこってわけではないわね」 「そうそう。行くと必ず、あそこの先生に話しかけられるしさー。ドクター・ベネットとドクター・シュトライヒリング。話長いし、なんかメンドイっつーか」 「ふうん」  ライサは何の気なしに聞き流して、はたと思い当たる──あれ、その二人ってキルシ先生のお医者さんじゃなかったっけ? ●数奇にして記録  ──クロワの日記  今日は、ジャンヌのおうちで勉強会してきました!  ちゃんと勉強してるの、えらいでしょ。  ジャンヌの部屋はお姫様みたいな部屋で、すっごくゴージャスです。今度、さつきとキルシ先生も一緒に泊まりに行こうね!  ──さつきの日記  いいなぁ、わたしも勉強会行きたいなぁ。  今度の特別夏期講習が楽しみ! 早くみんなに会いたいなって、フェリシテさんに言ったら「じゃあ、みんなに元気に会えるように、お注射しましょうね」だって!  もう、お注射痛いから嫌い〜!  ──キルシの日記  先生も注射は嫌いです。痛くない注射ってできないものなのかしら。  夏期講習の準備は万全よ。久しぶりにみんなに会えるから、緊張しちゃうわ。  穂刈幸子郎は、談話室で交換日記を読んでいた。四人中唯一の男子としては、女の子同士の会話に混ざるようで、なんだか気恥ずかしい。 「幸子郎、何をしているの?」  不意にかけられた声に振り向くと、キルシがタブレットを持って立っていた。気分転換に、読書に来たという。どこでも本は読めるとはいえ、たしかに一日中病室で過ごすのは気が滅入る。特に、今日みたいに空が青くて、風が気持ちいい日はなおさらだ。 「あ、えっとね、見ちゃだめ」 「え?」 「日記これから書くから、のぞいたらだめだよ」  幸子郎は、自身の体で隠すように、タブレットに覆いかぶさる。その姿に、キルシは思わず微笑んだ。 「そうね、覗き見したら今日の楽しみがなくなっちゃうわね」 「だめだよ。見ちゃだめだからね」 「ええ、わかったわ」  そう言って、キルシは幸子郎と背中合わせに座る。たしかに、これなら幸子郎の手元は見えない。幸子郎は、ちらちらと後ろのキルシを気にしながら、日記を書きだした。 「ねえ、キルシ先生。先生はどうして先生になったの?」  日記に何を書こうか──実際のところ、それが幸子郎の悩みでもあった──考えながら、ふと幸子郎はキルシに尋ねた。 「そうねぇ……学校の先生に憧れてたっていうのが一番の理由かしら。なんでも知ってて、優しくて、ああいう大人になりたいなって思ったのがきっかけだと思うわ」 「ふぅん」 「幸子郎は、将来なりたいものはあるの?」 「んーとね、音楽家になりたいなぁ」 「音楽家? 素敵だわ、幸子郎はリコーダー上手だものね」 「先生になるのって、シューショクっていうんでしょ? 前ね、看護士さんに言われたんだ。幸子郎くんは、シューショクしたいか、シンガクしたいか、将来それを選ぶ時が来るんだよって。僕はシューショクとかシンガクとかよくわかんないものじゃなくてね、音楽家になりたいんだ。音楽家になるのってどうしたらいいの?」 「うーん……」  キルシは思わず考え込んだ。いわゆる職業的音楽家なら、それこそ高等教育クラスで専門的に学ぶ必要があるだろう。だが、いわゆる趣味の領域での「音楽家」であれば、今すぐにでも音楽家になることはできる。名乗ればいいのだから──あくまで「自称」ではあっても。幸子郎は、どちらだろうか。 「音楽家……うーん、進学とも就職とも言えるような……でもやっぱり進学かしら」  ひとりごとのように呟くキルシの言葉を、幸子郎は聞き逃さなかった。 「やっぱり! やっぱり学校に行けなきゃダメだよね!」  がばっと立ち上がり、幸子郎は談話室の中をぴょこぴょことリズムを取りながら飛び回った。 「音楽家になるなら、学校に行かなくちゃ。ちょうどいいや、僕も学校に行きたいし! ねえ、先生、どうやったら学校行けるようになる? 元気になったらってみんな言うけど、僕ってけっこう元気だよ! ほら!」 「え? えーっと」  元気さを証明しようと、手を広げて走り回りだした幸子郎を目で追いながら、キルシは思わず口ごもる──ここで迂闊なことを答えると、幸子郎は素直に信じてしまうだろう。どうにもこうにも責任重大すぎる。 「それはね、まずそうやって走り回るのをやめることじゃないかしら?」  幸子郎の問いに答えを返したのは、彼の主治医のひとり──ドクター・ベネットだった。 「談話室はね、みんなで楽しく過ごすところではあるんだけど、残念ながら運動会の場所ではないのよ」  にこやかに言うドクター・ベネットだったが、そういう口調のときが一番おっかない──幸子郎は、これまで積み重ねてきたさまざまな経験上、よくわかっていた。おとなしく、その場に立ち止まる。当然、ドクター・ベネットによるお説教大会が始まるのだが、幸子郎はほとんど聞いていなかった。  ──学校だ、学校だ! 僕は学校に行かなくちゃ! ●有限と微小の距離  その日、病院内の会議室には子どもたちの声が響いていた。 「先生、椅子どこー?」 「青葉はここがいい」 「だめだよ、青葉。そこは先生の席」 「あら? 幸子郎は?」 「幸子郎くんなら、さっきどこかへ行っちゃいました」 「鶫、男子なんだから探しに行っ……なんでもないわ」 「お、おう……」 「ねえねえ、今日お弁当持ってきたの。あとでみんな食べようね」 「わあ、病院じゃないご飯って久しぶり!」 「先生、トイレー」  定刻はとっくに過ぎていたが、この様子では「夏期講習」の開始まではだいぶかかりそうだ。  場所柄には似つかわしくない騒がしさに、ドクター・シュトライヒリングは内心苦笑を禁じ得ない。十人ほどなのに、この騒ぎようだ。もしもクラス全員来ていたら、どんな苦情が飛んでくるかわかったものではない。子ども特有の声や騒がしさが苦手という患者もいるし──世の中には、突拍子もないクレームをつけてくる人間が、少なからず存在し、そういう手合いに限ってやたらと声が大きいのだ。  今日は「特別夏期講習」の日だ。といっても、参加者は教師を合わせて十一名。ほそぼそとしたものだが、子どもたちは要望が通ったことが嬉しいらしい。ドクター・シュトライヒリングの目から見ても、おそらく教室ではもう少しは静かに落ち着いているだろう。学校を離れた空間であるというのも影響しているかもしれない。 「たまにはこういうのもいいでしょう。集団生活も、子どもの心理形成には必要ですからね」  そう言って、会議室の隅でのんびりと子どもたちの様子を眺めているのは、小児科の岸城朗人だ。彼の患者である八代青葉と、その妹、青海のお目付け役として同席している。 「それに、こういうことを考えつくというのも自主性の表れですな。いやあ、大いに結構、結構」  なんでも、今日のこれは入院患者のひとり、キルシ・サロコスキがかつて担当していた子どもたちが立ち上げた企画だという。学校経由で正式に申し入れがあった時点で、どういう形であれ実施することはほぼ本決まりだったとはいえ、岸城の言うとおり、十歳の子どもにしてはずいぶんしっかりしているとドクター・シュトライヒリングは思った。  ようやく全員が揃い、着席した頃には二十分ほど予定を過ぎていた。  入院生活が長いさつきと幸子郎、青葉のために、まずは自己紹介から始まった。発起人ともいえる榛雫から順に挨拶していく。どこか互いに緊張して、ぎこちない雰囲気だ。特に花楓とライサは、たまたまお見舞いに来たら「夏期講習」にそのまま参加することになったため、趣旨がそもそもつかめていない。だが、その中でも、いつもと変わらない──といっても、さつきたちは知らないのだが──猫耳の飾りがついたカチューシャが目印の平谷杏樹は、いやでも目を引いた。しかも、その猫耳は実に自然な動きで、ぴくぴくと周囲を窺うものだから、入院中の子どもたちの目は、そこに釘付けだった。なんでも実際の猫の耳の動きをトレースしているだけでなく、装着者の脳波で動いているらしい。青海や鶫、クロワ、加奈、花楓、ライサという順で挨拶を終えると、ようやく本題だ。 「では、夏期講習を始めます。今日の科目は……えぇと、理科ですね」  キルシが、かつての勘を取り戻そうとするかのように、手探りで授業を開始した。専門教科とは異なる分野なので、すぐには勝手を思い出せないのかもしれない。 「今日は星の勉強をしましょう。夜空に見える星、みんなも見たことがありますね?」  キルシがそう呼びかけると、子どもたちは思い思いに答える。 「先生、質問です」  さっと手が上がる──さつきが、ぴょこんと立ち上がり、キルシに質問した。 「前にアーカイブで見たんですけど、お星様の光はすごく昔の光だって言ってました。昔の光を見ているって、どういうことですか?」 「ああ、それはいい質問ね、さつき。星というのは、自ら燃えて光っています。ただ、宇宙はあまりに広くて、私たちが見ている星も、本当はとてつもなく遠いところにあるの。それこそ、一生かけてもたどり着けないくらいに」  話しながら、キルシはタブレットに説明用の画像を表示させる。キルシのタブレットと画面を同期している子どもたちのそれにも、同じものが表示された。 「星の光が私たちに届くまでに、途方もない時間がかかっています。夜空を見上げていると、そんなことは感じないけれどね。光が進む速さを光速といって、一秒間に三十万キロメートル進みます。みんながいるふたつの丘から、夜空に見える星までの距離が三十万キロメートルだったら、星が輝いた一秒後には、わたしたちが星の光を見ていることになります」  途方もない数字に、質問したさつきも距離感をうまくつかめない。 「じゃあすごく昔の光っていうことは、そんなに速く走れる光でも、時間がかかっちゃうくらい遠いっていうことなの?」  加奈が不思議そうに尋ねる。 「そういうことね。たとえ私たちが「いま」星の光を見たと思っても、それは何百年も昔から光が走ってきた姿を見ているのよ」 「先生、ホッキョクセイっていう星もそうなの? ソールも?」  さつきが追加で質問する。アーカイブで見たホッキョクセイという星は、夜空の中心にあるという。 「ええ、そうよ。北極星もソールも同じよ」  キルシの答えを聞きながら、さつきは夜空の星を思い浮かべる。あの星々が、何百年もかけて、さつきのもとまで光を届けるなら、「いま」光っているだろう星の光を、自分が見られるなんてことはあるのだろうか。 ●黒猫の手料理  午前中の講習が終わると、そのまま会議室では昼食と休憩が始まった。病院内の食堂を使うという手もあったが、教室と同じ雰囲気にするなら、場所を変えない方がいいだろうという院長判断だ。キルシが昼食の時間だと告げると、それまでおとなしく座っていた杏樹がおもむろに立ちあがり、持ってきた大荷物を机の上に広げ始めた。頭の上の猫耳が、ぴくぴくと動いている。  みるみるうちに、机の上にはお弁当箱が並べられていく。 「どうしたの、これ?」  雫が尋ねると、杏樹が胸を張って答えた。 「お弁当! 作ってきたの!」  その声に、わっと歓声が上がる。 「すごいわね、これ全部杏樹が作ったの?」  いくつも並ぶお弁当箱を見ながらキルシが尋ねると、杏樹ははにかんだような笑顔で頷いた。 「お母さんに教えてもらったの」  杏樹の家では、いつの間にか毎週土曜日の午後は料理を習う日になっていた──杏樹が気兼ねなくお見舞いに行ける日曜日に、食事を持っていけるように。最初は慣れなかった包丁も、今では危なげなく扱えるようになった。 「おいしいごはんは元気になれるでしょ? ていうことは、元気になるにはおいしいごはんを食べなくちゃ」  入院中のキルシに元気になってほしい──だから、おいしいごはんを食べてほしい。ただそれだけの、シンプルな理由。だがそれは、他のどんな調味料よりも、食材よりも、杏樹が作る食事の味を引き立てるスパイスだろう。  杏樹が持ってきたお弁当は、どれも手作りらしく、おかずの形がそれぞれ不揃いなのが微笑ましい。病院側から出す昼食と合わせて、かなり盛りだくさんだ。ただ、キルシと幸子郎だけは、普段と変わらない食事だった──当然、むずがる幸子郎をなだめすかして、ようやく「いただきます」の号令がかかった。 「ふぁあ……」  食事も中盤になると、少しだらけた雰囲気になる。幸子郎は友達と一緒に食事ができるのがよほど嬉しいのか、頻繁に席を立って歩きまわっては、キルシに連れ戻されていた。  花楓はあくびをすると、目をこする。キルシが疲れたのかと尋ねると、首を横に振った。なんでも、このところ毎朝早起きして「朝の体操」に参加しているという。 「あさのたいそうって、何するの?」 「んー。何っていうか……まあ、言葉の通り体操。みんなで太極拳習ってやるんだよ」 「タイキョクケン……」  聞きなれない言葉に、さつきは首を傾げる。 「太極拳って……えっと、あれよね、ゆっくりした動きの……」 「そうそう、それ」  記憶を探るように言うキルシに、花楓は頷いた。その様子を、ドクター・ベネットが見ていた。 「毎朝早起きするの? 寝坊しちゃったりしないの?」  幸子郎が感心したように言うと、花楓はおおげさにため息をつきながら返す。 「そ、毎朝……まあ、二度寝しなくていいけどさ。意外と一回で覚えられないんだよなぁ、アレ……」  頭では覚えているのに、体が追いついてこない感覚は、花楓には新鮮だった。お手本と称して見た動きは、寸分の狂いもなく思い出せるのに、いざ自分がやってみようとすると、そのとおりにはいかない。そのちぐはぐさにいらだちつつも、少しずつ記憶の中の動きと、自分の体の動きが一致していくのが、花楓にはなんだか楽しくもあった。 「すごいわねぇ。先生だったら、きっとサボっちゃうわ」  子どもたちの話を聞きながら、ドクター・ベネットが不意に言った。 「嘘! 先生でもサボっちゃったりするの?」 「いけないんだぁ」 「ふふ、先生が子どもの頃だったら、ね。今は先生は大人ですからね、きちんとやり遂げますよ」  ドクター・ベネットの返答に、幸子郎は素朴に感心したが、さつきは内心ほんとかなぁと訝しげだった。 ●人形式心臓  昼食が終わり、しばしの休憩を挟んで、午後の講習が始まった。キルシも、午前中の緊張感が消え、かつての勘を取り戻したようだ。スムーズに授業を進めていく。 「……さつき?」  キルシが、さつきの様子がどこかおかしいのに気づいたのは、国語の練習問題を解いている時だった。今日はどことなく顔色が悪いと思っていたが──キルシが見ている目の前で、さつきの表情は苦痛を訴えるものへと変わっていった。 「せ、んせ」 「どうしたの!? さつき、しっかりして!」 「さつきちゃん?」 「先生、さつきちゃんどうしちゃったの?」  子どもたちも、不安げにさつきの様子を伺うが、どうしていいものやら分からず、ただ立ち尽くすだけだ。見ているうちに、パジャマの胸のあたりをぎゅっと鷲掴んで立ち上がり──そのまま、さつきはその場にうずくまる。椅子が、がたんと音を立てて倒れた。 「さつき!?」  ──発作だ。  キルシは気づいたが、自分が何をすべきか、何も思いつけない。 「ストレッチャーを頼む」  ふと脇で聞こえた低い声──岸城が看護士に指示を出す声だった──に、ようやく我に返った。  苦しむさつきの背を撫でようとして──それが医学的に「やっていいこと」なのか分からず、キルシは差し伸べかけた手をおずおずと引っ込めた。 「せ、んせい」 「平気よ、さつき。先生もみんなも、ここにいるわ」 「……く、ない」 「なぁに、どうしたの? 無理に喋らないでいいのよ──」 「しにたくない」  さつきの言葉に、その場の空気は、冷たく凍りついた。 「せんせい……しにた、く、ない」  近づいてくる足音よりも、はるかに小さな声なのに、それはキルシたちの耳から消えることはなかった。  さつきはすぐに処置室へと運ばれていった。特別夏期講習もうやむやのうちに終わってしまい、仕切り直しということになったが、新たな日程がいつ決まるのかは、誰にもわからなかった。子どもたちを落ち着かせ、ようやく帰路につかせた頃には、日はすっかり傾いていた。空には一番星──さつきが知りたがっていた、星の輝き。  処置室から出てきた外科医をつかまえると、キルシはさつきの容態を尋ねた。 「小康状態を保っています。もう安定していますし、今晩は様子見ですが、おそらく問題ないでしょう。明日、あさってには一般病棟へ戻れますよ」 「そうですか……」  医師の言葉に、キルシはほっとため息をつくが、すぐに考えなおす。  ──私が、もっとちゃんとさつきの体調のことを気遣っていれば。  ──ささやかだけど授業ができるのが楽しくて、あの子に無理をさせていたんじゃないかしら。  キルシは、近くにあったソファに腰かけると、そのままじっとひとりで床を見つめていた。 ●夜は別離のデバイス  鶫はまっすぐ帰る気になれなかった。さつきの声が、何度も繰り返し聞こえてくるようで──何事もなかったかのように、普通に家に帰れる自分が、なんだかひどく疎ましかった。だからというわけでもないが、鶫はあてもなく病院内をふらついている。もしも運良く目当ての人物に出会えたら、尋ねたいこともあった。  窓の外はすっかり暗く、だが街灯の明かりが夜空を照らして、不思議と明るいようにも見えた。鶫は廊下を歩きながら、なんとはなしに街灯の数を数える。窓ガラスには、鶫の姿がぼんやり映っている──女の子のように長い髪。鶫がもともと中性的な容貌であるせいか、ぱっと見では女の子にしか見えない。  長い髪。  妹と同じ長さの髪。  この世にはもういない、もうひとりの自分。    鶫は、ふと青海と青葉のことを思い出す。  鏡合わせのような二人。  かつての自分と同じ、兄と妹。 「鶫くん?」  声をかけられ、鶫ははっと振り返った。そこには、母親の主治医であるオルガ・サロライネンが、不思議そうに鶫を見ていた。 「どうしたの? お見舞い?」  お見舞いというにはあまりに遅いが──鶫を知っているオルガには、彼が病室までたどり着くのに人の数倍時間がかかることは織り込み済みだった。 「あ。いや、違う。でもちょうどよかった」  鶫はオルガに向き直った。 「母さんの病気って、なんていう名前?」  鶫は言葉を重ねる。 「知っておきたいんだ。……雀の姿でいていいのか、分からなくなってきたから」  鶫が髪を切らないのは、母のためだ。妹を事故で失って以来、母の時間は止まっている。母の中では、妹の雀は生きているのだ──そのかわり、鶫の存在が母の中からは消えている。鶫のことを雀だと思い込んだ母は、いまだに鶫のことを思い出さない。母のために良かれと思ってやっているつもりではあるが、本当にそうなのか、わからない。 「そうね……」  オルガは考えこむ──子ども相手に、どこまで何を説明すべきか? 「鶫くんも知ってのとおり、お母さんの病気は雀ちゃんを亡くしたことが原因よ。そのショックを受け止めきれなかった……鶫くんにはそうは見えないかもしれないけれど、お母さんの病気はね、雀ちゃんがもういないことを受け入れるための、心の防衛でもあるの。今はまだ、鶫くんは雀ちゃんとよく似ている。でも、いつか必ず、鶫くんと雀ちゃんは「違う人間」だということを、お母さんは気付くわ。それはとても時間がかかってしまうだろうけど……」  二次性徴を迎えれば、否が応でも鶫と雀の性別の違いは、肉体的にも明確になる。いつまでも鶫は雀のままではいられないのだ。母がどんなにそれを求めていたとしても。 「……今はまだ、雀のままでいた方がいい?」  オルガは鶫の問いにしばらく考えこむと、やがて浅く頷いた。 「経過を見ていずれは、ね。今の状態は……こう言ってはなんだけど、あなたのためにも決して良くないから」  鶫は、再び窓の外に目をやった。ガラスに映る「雀」の姿。    なあ、雀。  俺がお前の恰好をやめたら、本当にお前はこの世からいなくなっちゃうんだな。 ●二人の医学者 「これがフィクションだったら、何か反応があったりするのよね」  ドクター・ベネットが冗談めかして言うと、ドクター・シュトライヒリングは苦虫を噛み潰したように、顔をしかめた。 「それはフィクションはフィクションでも、ファンタジーの類ではないかね」 「まあ、でも人体は宇宙に匹敵する神秘の宝庫ですよ。意外と何かあるかもしれませんよ?」 「冗談もほどほどにしたまえ。特に面白くもない」  いたずらっぽくウィンクをしてみせる同僚に、ドクター・シュトライヒリングはため息をつく。 「ただ……確かに、興味深くはある。他の街でも、彼女のような子どもが出ていると聞いている。世代によって差異が生じつつあるのか、あくまでも単なる個体差に過ぎないのか……」 「観察できればいいんですけどね。培地の中の細胞みたいに」  ドクター・ベネットはそう言うと、くすくす笑った。 ●エンドレス・ゲーム  街は、今夜も街灯が煌々と灯り、人々の眠りを見守っていた。  夜の闇はもう恐れるものではなく、突然の停電や計画停電に右往左往することもない。夜は、安心して過ごせる時間へと生まれ変わりつつあるのだ。  ドクター・シュトライヒリングは、同僚のドクター・ベネットがまとめたレポートを読み終えると、病院の宿直室から見える街の風景をぼんやりと眺めた。  病院内はもう消灯時間を過ぎており、ほとんどの患者が眠りについているだろう──時には、朝を迎えても目覚めない者もいるが。  科学同様に、医学もまた進歩している。いや、進歩し続けなければならない。人類に病気や怪我といった脅威がある限り、医学は人を救い続けなければならないのだ。  それは、彼には終わることのない戦争のようにも思えた。  戦争。  もはや死語だ。歴史の教科書の中でしか見ることのない──見ることがあってはいけない──言葉。  しかし、人類は未だに戦い続けている。病気という敵は、常に人類を脅かし続けているのだ。星の海さえ越えられるようになっても、まだ人類は「敵」に勝てない。だが、勝たなければならないのだ。 「負けることはできない、か」  ドクター・シュトライヒリングは、苦々しく呟いた。 -------------------------------------------------- ■お知らせ -------------------------------------------------- 衛宮さつきさんは、次回(第4回)のアクションには行動制限がかかります。基本的にベッドの上で過ごすような感じだとお考えください。無茶すると看護士さんとお医者さんがすっ飛んでくるでしょうし、アクションの内容次第では万が一ということもありえるでしょう。 -------------------------------------------------- ■ 登場PC・NPC一覧 -------------------------------------------------- 【PC】 ・クロワ・バティーニュ ・穂刈幸子郎 ・衛宮さつき ・榛雫 ・八代青海 ・菜月加奈 ・黒葛野鶫 ・御堂花楓 ・平谷杏樹 【ちらっと出てましたね系PC】 ・エルメル・イコネン ・白戸さぎり ・委員長(こと御手留乃歌) ・ジャンヌ・ツェペリ ・陳宝花 【NPC】 ・キルシ・サロコスキ ・フェリシテ・サン=ジュスト ・ローマン・ジェフリーズ ・八代青葉 ・岸城朗人 ・ライサ・チュルコヴァ ・ドクター・シュトライヒリング ・ドクター・ベネット ・オルガ・サロライネン 【ちらっといたね系NPC】 ・ヴィヴィアン・フェイ ・外科医(名前はまだない) ・黒葛野鶫、雀の母 ・黒葛野雀