-------------------------------------------------- PBeM『VOiCE』第3回リアクション 03-E 少年と猫 -------------------------------------------------- ●五月女王に祈りを  五月は卒業、そして進級・進学のシーズンだ。芽吹く緑に囲まれながら、子どもたちは次の世界へと巣立っていく。  ふたつの丘で生まれ、育ち、いずれはここで死んでいく。  中には、他の街へと旅立つ者もいるだろう。  そうやって、人々はこの地で歴史を作ってきたのだ。  今月末には、水素発電所が本格稼働する予定だ。自然が生み出す夜の闇を、人間が生み出した科学の光が照らす。  それは、子どもたちの前途も照らしているように、大人たちには思えた。  子どもたちの行く末が、光と幸いに満ちたものであるように、と誰もが願っている。 ●わたしの中の…… 「お姫様だわ……」  辻風麻里子は思わず深いため息をついた。彼女がいま立っているのは、それこそ物語の中のような部屋だった。  薄く軽やかなヴェールをまとった天蓋付きのベッド──もちろん、足は優雅なラインを描く猫足だ。  お荷物をお運びしますね、とそっと麻里子の手からバッグを受け取り、後ろをついてくるハウスメイド。こちらもまた、物語の登場人物のように、古式ゆかしいエプロンドレスを身に着けている。  幼い少女が抱く、ふわりとしたレースとフリルにあふれた甘やかな夢を、そのまま具現化したら、おそらくこの部屋のようになるだろう。 「ようこそ、来てくださって嬉しいわ」  魔女──ジャンヌ・ツェペリの言葉も、今日はなんだか小説の中の一フレーズのように聞こえた。 「ここが、魔女さんのお部屋ですか? すごいです……!」  クラスメートの野中永菜も、思わずため息をこぼす。御手留乃歌も、思わずうっとりと部屋を見回している。白戸さぎりだけは、落ち着かさそうに周りをきょろきょろ見回しているが、おそらく男子と女子の好みの違いというやつだろう。  今日は、ジャンヌの自宅で進級試験の勉強会──という名のお泊り会──である。留乃歌が試験勉強の面倒を見ている永菜とさぎりも、一緒にお呼ばれしたという次第だ。進級試験も近いとあって、クラスではちょっとした勉強会(という名のお泊り会)ブームだ。陳宝花や片岡春希らも、ジャンヌたちと同じように勉強会をしているらしい。  麻里子は、もう一度ため息をつく──こんな世界って、本当にあるのね。  この日以来、少女たちは勉強会と称して、お泊まり会を開催することが増えた。名目とはいえ、確かに勉強について互いに分からないところを教えあっているのだから、あながち間違いでもない。遊んでいるだけではないというところを見せないと、親たちに小言を言われてしまうかもしれないからだ。女の子同士の秘密のおしゃべりほど、楽しいものはない。  だが、麻里子の心はどこか曇っていた。  楽しくないわけではない。  だが── 「ねえ、麻里子。今日も占いのお話しましょうか」  不意に、ジャンヌが話しかけてきた。ああ、気を遣ってくれてるんだな、と麻里子は微笑んだ。 「ジャンヌちゃん、すごく詳しいけど、いつもどこでお勉強しているの?」 「どこというのは、特にないけど……でも、好きなことならなんでも知りたいと思わない? その積み重ねかしらね」  そう言いながら、ジャンヌは占星術の資料をタブレットで呼び出す。  ──星。  麻里子の心は浮き上がりそうで、沈みそうで、あやふやな位置のまま、どこにもたどり着かない。 「やっぱりジャンヌちゃんはすごいですね」 「そんなことないわよ。本当にすごいのは、占いの体系を作った、うーんと昔の人たちだわ」  ジャンヌのタブレットには、黄道十二星座と呼ばれる星座たちが映し出されている。 「占星術というのはね、太陽や月、惑星の位置や動きをもとにしているの。いわば、天文学の走りね」 「月ってなに?」  横で一緒に話を聞いていた留乃歌が首を傾げた。ジャンヌはゆるゆると首を横に振る。 「さあ、昔の占いだとそれが重要なものだったみたいなの。よく名前は出てくるけど……でも、そんな星はないしね」 「星が消えてしまったんでしょうか……」  麻里子も不思議そうに呟いた。星が死ぬ──それ自体は、麻里子も知っている現象だ。だが、月という星が死んだという記述は、麻里子が知るかぎり、どこにもなかったような気がする。そもそも「月」という天体を、彼女たちが暮らすふたつの丘でも、遠く離れた十二枚の盾でも見かけたことはない。 「よくわからないけど、存在しない以上は、惑星の死というのを迎えてしまったんでしょうね」 「そっかぁ……」  星の死。  それは、避けられないことだが、しかし星が死を迎えるまでには途方もない時間が必要だ。しかし、麻里子はたとえ星そのものが死ななくても、星の輝きが失われてしまうことを知っていた。 「さっきも言ったけれど、昔は、占星術は天文学と切っても切れない関係にあったのよ。科学である天文学よりも、占星術の方が王様なんかには頼りにされていたくらいなの。「このおろかな娘、占星術は、一般からは評判のよくない職業に従事して、その利益によって賢いが貧しい母、天文学を養っている」なんて言葉もあるわ」 「へえ、占星術がなかったら、天文学もなかったかもしれないのね」  留乃歌が感心したように言う。 「そうかもしれないわね。昔は魔法と科学は限りなく近い分野だったもの。魔法使いも魔女も、今でこそ黒いローブをまとっているけれど、大昔は科学者やお医者様みたいに白衣を着ていたかもしれないわ」  その言葉に、麻里子は思わず、白衣を着た魔女──ジャンヌを想像する。似合っているような、似合っていないような……思わず笑みがこぼれてしまう。  麻里子は心の中でそっとふたりに感謝する。  けれど、なんだか本音は言い出せない。ジャンヌや留乃歌だったら、あるいはクロワだったら解ってくれるだろうか。  麻里子は、窓の外を見つめた。ジャンヌの部屋からは見えないが、外には街灯が灯り、夜の闇から人々を優しく守っていることだろう。だが、その優しい光は星の輝きを消してしまう。  どうして悲しくなるのだろう。  夜が明るいのは、いいことのはずなのに。 ●通りすがりの噂 「ねえ、聞いた?」 「えっ、何?」 「ユーレイの話」 「聞いた聞いた! あれでしょ、キモノを着た女の子」 「そうそう! 上級生が見たんだってー!」 「嘘ー! ほんとだったんだ!」 「黒くて長い髪で、顔はあんまり見えなかったらしいんだけどー」 「うわぁ……」 「誰かに恨みがあるとか……」 「や、やめてよぉ……」 「ねえ、鈴香は知ってる? 幽霊の話」 「知らないなぁ」  白鐘鈴香はそう答えると、クラスメートの会話の輪に入っていった。  幽霊。それはそれは──聞いておかなくちゃね。 ●サマー・ガール 「──稼働した水素発電所では、このように、毎日職員たちが発電量をチェックしています。こうして、安定した電力供給を……」  ぼんやりとリビングでニュースを見ながら、瀬木戸鈴夏はふと思った。  海って、どんなところだろう?  よく考えれば、とりたてて遊びに行くような場所でもないし、あまり足を運んだこともなかった。海の風景を思い出そうとしても、まず再生させるのは風力発電所のプロペラ──その背後に海があった、という程度だ。あとは潮騒。それ以外に何かないかと記憶を探ってみたが、特に見つからない。 「ねえ、お母さん。海ってどんなところ?」 「どんなところって……海は海でしょ?」  急に聞かれてもねぇ、と母も思わず首を傾げるほどだ。それほどに、鈴夏たちは海と縁遠い。行こうと思えば、行ける距離だというのに。  少年が荒野を目指すなら、少女は海を目指す。  鈴夏は、思い立ったが吉日とばかりに、海へ行くことに決めたのだった。 「ねえねえ、ツンデレー!」 「……それって、もしかしてボクのことを呼んでいるつもり?」 「そうそう、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさー」  進級試験を控え、誰もが試験勉強のためにそそくさと家に帰っていく。そんな中、鈴夏はクラスメートのクリス・グランヤードに声をかけた。クリスの苛立たしげな表情は軽くスルーして、鈴夏は本題へ入る。女の子は忙しいのだ。 「海に行く道って知ってる?」 「はぁ?」  クリスは呆れたような声を上げる。 「道も何も……風力発電所の先じゃないか。そのまま道なりに進めばいいんじゃ」 「わかったー! ありがと、ツンデレー!」  声をかけた時と同様に、鈴夏は唐突に去っていく。 「な、何だったんだ……」  クリスにできることといえば、走っていく鈴夏の背をぼんやりと見送ることだけだった。 ●問いかけのネメシス 「そなたは、どこへ行きたいのじゃ……?」  鈴が鳴るような声で、それは言った。  長くまっすぐな黒い髪。  古めかしい着物。  顔はうつむき気味で、表情はうかがえない。夕暮れ時の薄暗さもあって、顔や着ている服よりも、目の前に立っているそれの異様さだけが、際立って見える。 「そなたは、何を成し遂げたいのじゃ……?」  再び、声。 「あ、あ、の」  対して、こちらは声が出ない。思わず、一歩後ずさる──ごつん、と壁の感触が、背中越しに伝わってきた。 「そなたの答えを聞かせておくれ……」  そう言って、それはすっと距離を詰めた。寂しそうな表情の少女が、ずいと目の前に迫る。それが、すっと手を上げ、優しく頬を撫でる。ひどく冷たい手で、ますます喉は凍りつく。 「聞かせてくれたら……」 「き、聞かせてくれたら……?」  思わず鸚鵡返しに答えると、それは薄く笑って、囁いた。 「連れて行かないでいてあげる……」 「……だってさ!」 「うわぁあ、やめてよぉ」 「卒業生がよく会うらしいよ」 「やだー」 「呪われてるとか?」 「嘘ぉ」  今日も、教室には少女たちの賑やかな声が満ちている。最近は、もっぱら「夕暮れの幽霊」の話題で持ちきりだ。 「それって、答えられないとどうなるんだ?」  鈴香が声をひそめて尋ねると、相手もまた同じように声をひそめた。 「あの世に連れてかれるって噂……」 「それはそれは……おっかないね」 「でも、ちゃんと答えられれば連れて行かないって話なの。実際、幽霊を見たっていう人も、答えたら大丈夫だったって」 「ふぅん……」  鈴香は納得がいかないといった表情だが、幽霊というのはそういうものなのだと相手は説き伏せる。まるで、幽霊の肩を持っているような風だ。 「どこへ行きたい、何を成し遂げたい、か……」  鈴香は呟く──どこへ行って、何をしたいか、それが考えられない人なんて、この世にいるのかな。 ●年に一度の修復を  シュリー・ジルカは、進級試験どころではなかった。進級とか卒業とかそんなの人生においては非常に瑣末なことだ──紙の本に比べたら!  終了のチャイムが鳴り、ホームルームが終わると早々に、シュリーは図書室へと向かっていた。  今日は図書室の本の修復作業日であり、図書室は閉鎖されている。だが、特別に許可をもらって、シュリーはその作業を見学できるのだ。 「ごきげんよう、シュリーさん」  司書教諭のヴィヴィアン・フェイがシュリーに気づいて手招きした。 「こちらへいらっしゃいな」 「は、はいっ!」  胸の高鳴りを抑えられずに、シュリーは上ずった声で返事をするのがやっとだった。 「今日は、修復作業の職人さんに来ていただいているの。すべての工程をやるわけではないのだけど……それでも、本物の紙の本が見られますわ」  ヴィヴィアンの言葉に、シュリーは何も言えずに何度もただ頷くのが精一杯だ。  本の修復といっても、その工程はいくつもある。修復作業が必要な本は事前に図書室から運び出され、専門会社で処理をしてくるという。 「えっ、じゃあ実際に作業は……?」 「今日やるのは、いわば最後の工程ね。紙の修復が済んだ本に、保護用のポリマーを塗りますのよ」 「そ、そうなんですか……」  目に見えてがっかりするシュリーに、専門会社の社員だという男性が慌てて言った。 「でも、フェイ先生からとても本が好きで熱心な生徒さんがいると聞いてね、実際の作業の風景を映像に撮ってあるんだ。あとでデータをあげるから、ぜひ見てね」 「は、はいっ!」  シュリーは何度も頷き、そのたびにゆるく結われた銀髪が激しく上下に揺れた。  派遣されてきた職人は慎重に本を手に取ると、素早い手つきで絵筆を動かす。まるで本の形をしたキャンバスであるかのように、絵筆が動くたびに本の表紙にアクリルポリマーが塗られていく。その厚みは、素早さのわりに常に一定で、その手際には長年培ってきた技術力が窺える。  その作業を見ながら、ヴィヴィアンはおもむろに話し始めた。 「あまりに劣化が激しいと、修復をあきらめなければなりませんの……」  そう教えてくれるヴィヴィアンは本当に悲しそうで、シュリーの胸もきりりと痛んだ。  本の修復は、どんな本でも可能というわけではない。修復作業そのものが、本にとっては負荷となるほど劣化しているものもある。ページを開いただけでばらりと崩れていく本や、触れてもいないのにぱらぱらと剥がれていく表紙──想像しただけで、絶望的な気持ちになる。そうした本は、修復すらできない。なるべくダメージを与えないように、読める箇所をスキャンしてデータにするのが精一杯だ。それさえも、ページの劣化が激しければ難しい。 「紙の本って、とっても価値があって、大切に扱わなければいけないんですね……」 「そう……たとえデッドメディアと呼ばれようと、紙は古来から人類の記憶や想いを伝える、大切なものですもの」  水にも弱く、紫外線にも弱く、火にくべればあっさりと燃える。年月を経れば、それだけで脆くなる。シュリーには想像もできないが、紙を食う虫もいるという。 「どうして、紙を食べてしまうんですの?」  あんまりおいしくなさそうだけど、とシュリーは思った。 「紙は植物から作られますから、虫にとっては食料なのでしょう。わたくしたちには紙は紙として認識できますが、虫には紙も葉も同じことでしょうし」  はるか昔にはパピルスという植物から、紙が作り出されたという。 「紙がなかった頃は、どうやって記憶を残していたんですか? まさか全部自分で覚えておくとか?」 「それはそれは大変すぎますわ。もちろん、はるか大昔は口伝といって、人から人へ直接教えて覚えさせるしか手立てはありませんでしたが……多くは粘土板や木の板などに書き記していましたの。中には絹の布なんてものもありますわ」  シュリーが何かを書き残しておきたいと思ったら、タブレットなりモバイルなりでデータを作って、データストレージにでも残しておくだろう。それに比べると、昔はただ思い出を残すだけでも苦労の連続だったのだ。 「いつか、シュリーさんにも本物の紙を触る機会を作ってさしあげたいわ……さらりとした素朴な手ざわり、モニターにはない優しい色合い……文字が印刷されたばかりの紙には、インクというものの香りすらついていたそうですわ……ああ、なんて素敵なのかしら……ふふ……」  恍惚とした表情で語るヴィヴィアンの横顔を見ながら、シュリーもいつか紙が触りたいと思うのだった。  ぐぅ。 「あ」  そういえば、試験が終わってまっすぐ図書室に来たのだ──当然、腹の虫は鳴いて自己主張するわけで。 「あっ、あう……」  お腹を押さえるシュリーの顔は、耳まで真っ赤になっていた。 「そういえば、もうこんな時間ですものね。お昼にはもう遅いけれど、ティータイムにしましょう」  ヴィヴィアンは、笑顔でウィンクしてみせた──もちろん、サンドイッチは多めにね。 ●いつか歌になる日まで  おねえちゃんの赤い靴と、ぴぃちゃんと。それさえあれば、大体どこだって行ける。おまけに今日は、クラスの友達も一緒だ。  西藤はるせは、ジャンゴ・リーボリックとともに、駅の改札口に立った。ジャンゴは調べ物の協力者を探しているという。はるせは、なんとなく面白そうだったので手伝うことにした。その代わりとばかりに、ジャンゴを駅まで連れてきたのだ。 「電車ってすごいよね。ボクも乗ったら、遠くまで行けるんだよね」  夢見る眼差しで、ジャンゴは駅舎を見つめている。はるせはジャンゴを置いて、職員がいる改札窓口へ向かった。かぱかぱと、赤い靴は今日も歌う。 「ねえねえ、お兄さんいるでしょー?」  ぴょいと飛び跳ねるように、はるせは声をかけた。 「おーい、ご指名だぞー」 「またッスか……」 「ほれ、行ってこい。未来のお客様だぞ」 「はーい……」  先輩駅員に促されて、はるせの尋ね人がこちらへ向かってくるのが見えた。その足取りは重い。元気がないのはよくないなぁ、とはるせは思った。まったくケシカラン。 「はいはい、今日はどんな御用……って、なんだ、今日は二人もいるの?」  青年は、ジャンゴを見るなり言った。 「まいったなぁ……増えるの? 最近のお子様は増えるのか?」 「ねーねー、お兄さん、卒業したらどこ行くの?」  青年はため息をついた──いい加減、慣れたつもりでいたのだが、この少女の突拍子のなさは、そろそろ人類を超えている気がしてきた。 「今日は何のお話なんだよ……」 「あっ、それボクも知りたい!」  もう一人の子ども──ジャンゴも興味津々といった様子で、会話に入ってくるのを見て、青年は絶望的な気持ちになった。 「まいったなぁ……お兄さんはね、保父さんじゃないんだ。君たちとうまいことやってく自信がないよ……」 「そうそう! お兄さんってお兄さんじゃないでしょ?」 「ごめん、意味がわからない」  青年は素で聞き返すことしかできなかった。 「あ、そうだよね。お兄さんはお兄さんじゃないもんね」 「えっ会話成立してんの!?」 「わたしははるせだし、ジャンゴくんはジャンゴくんでしょ? だから、お兄さんはお兄さんじゃないでしょ」 「…………ごめん、ちょっと考えさせて?」  青年は頭を抱えるようにうつむくと、しばらく熟考した。数分経っただろうか、ようやく顔を上げる。その間、はるせとジャンゴはじっと青年を見つめていた。 「……あー、つまり、名前は何ってこと?」 「そうだよー」 「はるせちゃん、最初からそう言ってるよー」 「いや伝わってないから。それ」  青年は何度目かのため息をついた。 「望月だよ。望月凛太郎」 「凛太郎かぁ」 「いきなり呼び捨てかよ!」 「それでね、教えてほしいんだぁ」 「卒業したら、どこ行くかって?」 「んー」  はるせは不意に考えこむように、うつむいた。その様子を見て、思わず青年改め凛太郎はふと心配になって顔をのぞき込む。いくらなんでもまだ子どもなのだ、うまく言葉にできないものを山ほど抱えて生きている。それは、かつて自分も同じだったはず──と、凛太郎がしみじみ思っていると、突然目の前に電子リコーダーが差し出された。あまりの勢いにあやうく額に刺さるところだった。 「どしたら、ずーっと、おねえちゃんとぴぃちゃんと歌ってられる?」 「……はい?」 「ああ、それは悩むよね〜」 「え、だからなんで君ら会話が成立してんの」  ジャンゴがうんうんと何度も深く頷くのとは対照的に、凛太郎は呆然とした表情で呻く。 「どうしたら、ずっと一緒にいられるかな? どうしたら、ずっと歌っていられるかなぁ?」  はるせの問いに、凛太郎は答えようとして──だが、何も言えずに口をつぐんだ。学校を卒業しても、大人になっても、生まれ育った街を離れてどこか遠くへ行ったとしても、それでも変わらずに、変えずに、生きていくなんてできるだろうか。自分は、それに答えられるだけの大人だろうか。できると答えられる人間だろうか。ただ年を取っても立派な大人になれるわけではないと、子どもの頃には思っていたつもりだったのに。 「とりあえず、歌えばいいんじゃないかなぁ」 「そっかー。じゃあ、歌おっかー」  ジャンゴの声に、あっさり頷くはるせを見て、凛太郎はあやうく見事な足ズッコケを披露するところだったが、大人の威厳でなんとかこらえた。 「そうだよー」  ジャンゴは笑った。 「歌い続けたいなら、歌い続けなくちゃ。ねえ、凛太郎お兄さん?」 ●薔薇に会えた日 「薔薇じゃ」  皆藤華名は開口一番にそう言った。 「薔薇……? ああ、華名の好きな花だね」  華名の担任教師ローマン・ジェフリーズが言うと、華名は呆れたといわんばかりに、大きくため息をついた。 「あのなぁ……女の子が薔薇といったらアレしかなかろう」 「んー?」  ローマンは首をひねって考えこむ。 「アレじゃ、アレ」 「アレ?」 「どこまで鈍いのじゃ……第十四回『薔薇と庭園技術ショー』に決まっておろうが!」  きりっと指をつきつけ、華名は言った。ちなみにここは職員室。華名の声に、周囲の教師たちが何事かと思って振り向くが、声の主が華名だとわかると「あー」となぜだか納得して、また自分の仕事に戻っていった。 「あれ、それって……」 「知らぬ者はこの世におらぬはずだ。もしもそんな不届き者がいたら、私が剪定して肥料にしてくれるわ。そんなことよりもだ、第十四回『薔薇と庭園技術ショー』の最終日に、何があるか知っておろう? いや知っているはずだ。むしろ知っておらねばならぬ。人類の義務みたいなものじゃ。労働・納税・薔薇、これが人類の三大義務じゃ、忘れずに覚えておくようにな。遺伝子にもよーく刻み込んでおくとよいぞ。えーっとなんだったっけ。そうそう、最終日にはな、展示即売されていた薔薇の苗が最終日お買い得価格で投げ売りされるのじゃ! 薔薇の苗が! 最終日! お買い得! 価格で! 投げ売りじゃ!」  大事なことなので二回言った。  なぜなら大事だから。  そんな華名に対し、あっけらかんとした様子でローマンは言った。 「じゃあ、君も一緒に来るかい?」 「ん?」 「華名ちゃんというのね、今日は一日よろしくね」 「うむ。オーガスタ殿、感謝するぞ」 「あらあら、ずいぶん古風な言葉遣いなのね。歴史物はお好き?」  華名が職員室で大事なことを大事なので二回ほど言った日から三日後──今日は第十四回『薔薇と庭園技術ショー』の最終日だ。ローマンの祖母、オーガスタ・ジェフリーズの自宅前で午前八時に待ち合わせという約束だったが、華名は三十分も前についていた。薔薇は拙速を尊ぶのだ。  オーガスタもまた、華名と同じように薔薇を愛する女性だった。自宅の庭には薔薇が咲き誇り、毎日手入れを欠かさないという。もちろん『薔薇と庭園技術ショー』には毎年赴き、最終日になれば最終日お買い得価格で投げ売りされる薔薇の苗を買ってくるのが恒例行事だ。薔薇の苗をひとりで抱えて帰ってくるのは大変だということで、当然のことながら孫──ローマンも駆り出させる。しかも、移動用にわざわざ公共自動車の貸出申請までさせるという気合の入りようだ。 「すっかり意気投合しちゃったなぁ……」  運転席でローマンは苦笑する。運転といっても、貸出用の公共自動車は行き先を入力したら、それで終わりだ。指定した移動先以外へはどこへも行かないし、ただ座っていれば目的地まで運んでくれる。自動運転をキャンセルして、手動に切り替えることもできるが、それが必要なのは緊急車両くらいなものだろう。遠くの街に出かける用事がなければまず使うこともないし、個人所有するためには厳重な審査が必要になるため、一般家庭には普及していない。どちらかといえば、電車の方が使用頻度は高い。 「華名ちゃんはどんな薔薇がお好きなのかしら?」 「うむ、和薔薇が好きじゃ。特にわかなとてまりじゃ。ミニ薔薇だったらグラウンブルーが好きじゃのう」 「いいわねぇ、てまりはオーガスタおばあちゃんも好きですよ。ちょうど今は羽衣がうちの庭で良い感じになってきているの。お休みの日にでもいらっしゃいな、薔薇を見ながらお茶にしましょう」 「おお、よいな!」  ローマンは完全に蚊帳の外で、ふたりのロザリアンはすっかり薔薇の話で盛り上がっている。鬼のジェフリーズと呼ばれたオーガスタも、同じ趣味を持つ人の前では、すっかり鬼の角が隠れていた。 「薔薇じゃ! 私の可愛い薔薇、今行くからな!」 「そうよ、華名ちゃん。薔薇が呼んでいるわ」  歳相応な子どもであれば、自動車に乗れることを喜ぶところなのだろうが、あいにく華名にとって自動車とは手段に過ぎない──第十四回『薔薇と庭園技術ショー』に行ければ、別にどうでもいい。 「さあ、買いますよ!」 「うむ!」  バーゲンセールに挑む戦士の目で、華名とオーガスタは会場へ力強く向かっていく。当然、ローマンはその間、デパートで買い物に夢中な家族を待つパパのように、ぼんやりベンチで時を過ごす。ふと見れば、「薔薇の花びら入りジャムとスコーンセット」というティーセットが売られていた。あとで間違いなく奢らさせるだろうな、とローマンは思うのだった。 ●おわかれの日  夏期講習からの帰り道で、鈴夏はふと思った。  進級試験前には、あれだけ密やかに、かつあちらこちらで囁かれていた、例の幽霊の噂を聞かなくなった。 「結局、うちは見れなかったなぁ」  会ってみたかったんだけど、と嘯きながら、鈴夏は午後の道を歩いて帰る。明後日は日曜日──夏期講習もお休みだ。天気予報では、薄曇りだという。日差しはそれほどきつくなく、雨の心配もなさそうだ。 「それって、つまり!」  鈴夏は天啓を受けたように叫んだ。 「海がうちを呼んでいる! ……ような気がする!」  急に駆け足になって、そのまま勢いよく家まで走っていった。 ●スター・レクイエム 「あ、こんにちは。今日も来てくれたんだ」  すっかり顔なじみになった受付の女性が、麻里子を見かけるなり声をかけてきた。麻里子も、ぺこりと頭を下げる。  プラネタリウム館──あまり訪れる人もいないのか、いつもどこかひっそりとしている。夏休みに入れば子ども向けのプログラムも開催されるというが、今は特にこれといって目を引くイベントもない。  季節の星座を人工の夜空に映し出し、それを見上げる。ただそれだけといえば、それだけのことなのだが、麻里子の心が安らいだ。 「麻里子ちゃんだっけ? 星が好きなんだね」  あたしもよ、と受付の女性は笑う。 「ラッキーね、今日も麻里子ちゃんの貸切よ」  たったひとりのために、星が輝くのは──たとえそれが人工であっても──なんだかVIP扱いされているようで、麻里子はなんだかこそばゆい。 「……お姉さんも、星を見ませんか?」  なんとなく、そんなことを言ったのは、顔なじみゆえの気安さか。言ってから、麻里子は思わず赤面した。 「ご、ごめんなさい。あの、お仕事ですもんね……」  うつむく麻里子に、受付の女性は笑顔で言った。 「いいよ。たまには職権乱用くらいしなくちゃね」  ショッケンランヨーってなんだろ、と麻里子が思う間もなく、女性は麻里子を促す。 「あたしはルドヴィカ。ルドヴィカ・ナーゾよ。よろしくね」  プラネタリウムの柔らかな椅子にそっと身を沈める。包み込まれているような気持ちになるのは、ここが麻里子の好きな「星」に関する場所だろうか。  やがて穏やかな音楽とともに、ナレーションが始まる。季節の星座を春から順に説明していくだけ──今ではすっかり覚えてしまった。 「麻里子ちゃんはさー」 「は、はいっ」  ルドヴィカに話しかけれられて、麻里子は思わず姿勢を正した。 「あはは、緊張しなくていいよ。星、好きなんだねー。熱心に見に来てくれるとさ、受付のやりがいもあるってもんだわ」 「そんな……その」 「いいの、いいの。見ての通り、暇な仕事だしさ。夏休みになれば、ちびっこちゃんたちがいっぱい来るから、忙しいんだけどね」  ルドヴィカの言葉に何と返したらいいか、麻里子は考えてみるものの、何も思いつかない。 「……えっと、ナーゾさんは」 「ルドヴィカでいいよ」 「……ルドヴィカさんも、星が好きだから、プラネタリウムで働いてるんですか?」 「そんなとこかな。昔っから理科の授業でも、星に関するとこだけはテストの点も良かったよ。ほかはガタガタだけどね」  それに、とルドヴィカは小さく言った。 「親のコネがあるから、もっといいとこ就職できるって言われたけどさ。やっぱり、やりたいこととか、好きなことがあるなら、そっちのがいいと思って」 「……そう、ですか」  好きなことと、仕事。麻里子には、それがイコールでつながれるべきものなのかどうかも、今はわからない。  しばらく、沈黙が続く。その合間を縫い合わせるように、ナレーションは夏の星座の話をしている。 「……星」 「んー?」 「あんまり見えなくなっちゃいましたね。その……本物の、夜の。電気、明るいから」 「ああ……そうだね」  ぽつりと漏らした言葉に、返答があると、まるでスイッチを押されたかのように、麻里子の心からぽろぽろと気持ちがこぼれた。 「……さみしいなって、思うんです。夜が明るくなって、みんな喜んでて、きっと私も喜ぶべきことなんだって……それはわかるんです。でも」  水素発電所が稼働して以来、計画停電の知らせは来ないし、突然電気が消えることもなくなった。だが、それと引換に、麻里子は星を失ってしまった──そんな気さえする。 「そうだねぇ……」  ルドヴィカは言葉を探るように、ゆっくりと口を開いた。 「確かに、夜は明るくなった。でもね、よーく目をこらしてごらん。星は変わらず、そこにあるから」  麻里子とルドヴィカは無言で、人工の星の瞬きを見ていた。 ●そして、星へ行った船  エルメル・イコネンは学校の図書室から借りてきた本のデータを呼び出した。表示されるインデックスの文字列を指でなぞりながら、ゆっくりと読み始める。  わたしたちの先祖は、果てしない距離を旅してきました。遠く故郷太陽系に位置する地球を離れ、新天地を目指してきたのです。  星間移民は大事業であり、当時の地球統一政府の一等書記官であるイーヴ・ベシエールの言葉が示すように、これは今までの歴史の中でも、もっとも重要で輝かしい偉業であり、進化そのものでさえあると言えるでしょう。  中等教育クラス向けと指定されているだけあって、難しげな単語がいくつも並んでいる。エルメルはざっと目を通すと、目星をつけたページから読み始めた。  そこには、かつて地球と呼ばれる惑星で行われた政治体制についての説明が記載されている。もちろん、内容は詳細ではなく、どちらかといえば単語の説明に近い、あっさりとしたものだった。この本のテーマとは少し遠い、おそらく補足的なページなのだろう。見慣れない単語はそのたびに検索して意味を調べながら、エルメルはそこに書かれた情報を頭の中に整理して詰め込んでいく。  政治のあり方は、その思想や実務的な仕組みも含め、生まれたからといって、それが完成形ではないのだろう。試行錯誤を繰り返し──時には妥協と呼ばれる──どうにか築きあげて、継続していく。それは、エルメルたちが大人になっても変わらずに続けて行かなければならないことのひとつだ。  エルメルは、彼女が見ていた本のタイトルを、今でも思い出せる──『わたしたちの社会のしくみ』、『選挙ってなぁに?』、『くらしをささえるもの』、『お金とはなにか』、どれも社会の仕組みを説明した本ばかりだ。  彼女は知りたいのだろう。  エルメルにはまだ漠然としているが、社会の仕組みや政治についてだろうと推測していた。  だが、「なぜ」知りたいのかはわからない。  自分が、彼女のことを「なぜ」知りたいのか、わかっていないように。 ●ルン=ペルと一緒に  空は青く、雲は白く、草は風に揺れ、鉱石ラジオは今日も声を届ける。  遠く、遠く、誰かの耳元まで。  ルン=ペルが言ったんだ。 (二人だけの秘密基地を作ろう!)  ぼくとルン=ペルは早速、基地作りを開始した。秘密基地というからには、誰にも知られちゃいけない。それなら、うってつけの場所がある。街の西側──公園もないし、駄菓子やさんもない。ぼくらも、普段はここまで遊びに来たりはしない。行く用事ないし。だからこそ、ここは最適なんだ。 (ラジオ局をここに作ろう! ちょうどいいじゃないか、空はこんなに広いし、きっと声はどんなに遠くだって届くさ!)  ルン=ペルの思いつきはいつだって急で、でもいつだってとっても素敵なんだ。 (夏期講習が終わったら、もう夏休みだ。そしたら、毎日ここに来よう。ラジオを流そう。誰かがぼくらの声を聞いてくれた。ニコみたいにおしゃべりがあんまり上手じゃなくたって、ラジオなら誰かが耳を傾けてくれる。すごいことだよ、これは!)   街の西側には展望台がある。ちょっとした休憩場所みたいな四阿もある。ここなら、よっぽどひどい雨でもない限り、快適に過ごせるだろう。  ルン=ペルと一緒に──といっても、ルン=ペル結構サボるんだけど──家にあったガラクタや、もう遊ばなくなったおもちゃを組み上げて、土台にした。持ち運びやすい方がいいだろうと、小さなカートにくくりつける。ぐにゃぐにゃした針金をまっすぐに伸ばして、アンテナ替わりにしたら、真ん中に鉱石ラジオをそっと飾る。 (やったね、ぼくらの移動鉱石ラジオ局の完成だ!)    ぼくらは早速、西の展望台へと向かった。展望台には相変わらず誰もいない。もったいないなぁ、見晴らしいいのに。でも、そうじゃないとぼくらの秘密基地──ぼくらだけの「ふたつの丘」にならないか。じゃあ、いいや。それで。  ──Hello,World.この声は聞こえますか?  深呼吸してから、ぼくはラジオ越しに話しかける。  こんにちは、世界。ぼくの声は、あなたに届いてますか? (今日は風力発電の話をしようよ! 風車に登って、海を見たなんて、きっとぼくたちくらいさ!)  そう、今日は風車の話をしよう。水素発電はニュースにもなったし、あれ以来ぼくの家にも「停電します」のお知らせは来ない。でも、風車だってすごいんだ! 知ってる? 遠くから見たらゆっくり回ってるだけのように見えるけど、実際にはすっごい大きなプロペラが、ごうごうと音を立てて風を切ってるんだ。あの音を聞いたら、きっと風車を見直すと思うよ。優雅なプロペラかと思ったら、豪快な騎士みたいなんだ!  それからね…… 「何してるの?」  不意に呼びかけられて、山野ニコ=トポは慌てて振り返った。そこには、クラスメートのジャンゴとはるせがいた。 「誰とおしゃべりしてたの?」  はるせが問うと、ニコ=トポは笑顔を崩さないものの、何も言わない。ややあって、ふるふると首を横に振る。 「…………ラジオ、してた」 「ラジオ?」 「ひとりで?」  またしても、ニコ=トポはゆるゆると首を横に振った。 「んーと、お友達と?」  こくりとニコ=トポが頷く。 「そっかー」 「……ルン=ペルっていうんだ」  ぽつりと呟いたニコ=トポは、どことなく誇らしげにも見えた。 「ねぇねぇ、もしかしてキミたちも冒険って興味ある?」  ニコ=トポがじっと黙っていると、ジャンゴは急にその手を取った。驚いて顔を見上げると、ジャンゴは笑顔で言った。 「一緒に行こうよ!」 ●宇宙から来た船  空は青く、雲は白く、草は風に揺れ、猫は可愛い。  つまり、絶好の冒険日和だ。  ジャンゴは以前見つけた展望台のモニュメントの前に立っていた。今日ははるせも一緒だ。駅の凛太郎お兄さんもせっかくだからと誘ってみたところ、ジョーシと呼ばれる人が「お前、午後は半休でいいぞ」と言ってくれた。そのおかげか、午後からは凛太郎お兄さんも一緒に冒険に参加できるようだった。当の凛太郎お兄さんが「うぇええ」と機嫌の悪い猫のような呻き声を上げたことに関しては、ジャンゴもはるせも関与するところではない。ていうか気にしてない。 「こんなところがあったんだねぇ」 「こないだ見つけたんだ!」  はるせの言葉に、ジャンゴは胸を張る。以前来たときは、すでに日が暮れていたためによく見えなかったが、晴れた土曜日の午前中なら、展望台からははるか向こうまで見渡せそうだった。大きく、そして深くえぐれたような大地にはところどころ緑の草木が生えていて、なんだか河の中の浮島のようにも見えた。 「この河みたいな森、ずーっとあっちの方まで続いてるんだよ」  ジャンゴが指差す方向──その果てには何があるのか、はるせは見ようとして目をこらすが、遠すぎてよく見えない。 「あっちって何があるのかなぁ」 「北の方だから……ちょっと待ってね」  そう言うと、ジャンゴは背負ったリュックからタブレットを取り出すと、地図アプリを呼び出した。それと、今見えている景色とを照らし合わせながら、ジャンゴは言った。 「えーっと、閉じた扉の方だね。ほら、大農場があるっていう」 「へぇー。じゃあ、この森を歩いて行ったら、閉じた扉に行けちゃうね!」 「そうだね!」  森を抜けて、その先にはまだ行ったことのない街があるのなら、そこへはいつか必ず行かなければ──きっと、そこはボクらを呼んでいるだろうから。  足元に柔らかな毛の感触を感じて、ジャンゴはふと下を向く。にゃあ、と猫が甘えて鳴いた。 「うーん。そっか、そうだね。ちょっと一休みしよっか」  思えば、今朝は早起きだったし、待ち合わせ場所からここまでずっと歩いてきた。午前のお茶にも最適の時間だ。 「ニコ=トポくん、お茶にしよ」  はるせが先程からずっと黙ったままのニコ=トポに声をかけると、かなりの間を置いてから、ニコ=トポは極めて小さく頷いた。はるせが持ってきた水筒には、母が作ってくれた冷たい紅茶が入っている。友達と冒険しに行くのだと行ったら、いつもより砂糖を多めにしてくれた。ひんやりと甘い紅茶は、するすると喉を潤していく。 「…………と」  ニコ=トポが小さく言った声は、おそらく「ありがと」だろう。  ジャンゴとはるせと、猫とニコ=トポ。そしてルン=ペル、四人分のコップが四阿のテーブルに並べられた。猫は匂いだけ嗅いで、興味が失せてしまったのか、ジャンゴの膝の上で香箱を作ると、あくびをひとつ。 「今日はどこから冒険するの?」 「あっちにね、モニュメントがあったんだ。字も書いてあったし、まずはそこからだね。きっと何かのヒントだよ」  そう言うと、ジャンゴは以前見つけたモニュメントに書かれていた言葉を諳んじてみせる。 「我々に、信念と勇気を。開拓者たちよ、永久に眠れ──だってさ」 「どういう意味?」 「さあ? それをこれから調べるんだよ」 「そっかー」  ふとニコ=トポが顔を上げると、見知らぬ青年が辺りをきょろきょろ見回しながら歩いてくるのが見えた。 「あっ!」  知合いなのか、はるせがいきなり立ち上がる。 「凛太郎くん、遅いよ!」 「君付けか!」   開口一番にツッコミを入れると、駅の青年こと望月凛太郎はため息をついた。 「まいったなぁ……」  ニコ=トポがどこか居心地悪そうにうつむくのを見て、はるせがごく簡単に燐太郎を紹介する──「凛太郎くんだよ」「それだけか」 「でも、なんだってこんなとこまで来てるんだい? 遊べる場所でもないと思うけどなぁ。アスレチックとか公園とか、そんなものないよ?」  凛太郎が、どこか懐かしげに言った。 「子どもの頃、見学に来たよなぁ、そういえば」 「見学?」  はるせが尋ねる。昔は見学も冒険だったんだろうか? 「そう、大昔のご先祖様を知るってやつでさ。ああ、でも今は行かないんだっけ? なんか先輩がそんな話をしてたような……」 「どうして、ここを見学したの?」  ジャンゴの言葉に、凛太郎は答えた。 「昔々、ここまで宇宙船に乗ってやってきた、ご先祖様を見習って、僕たち私たちも頑張りましょうってやつだよ。星間移民だっけ、授業で習ってから来たっけなぁ」 「セイカンイミン?」 「なぁに、それ?」  子どもたちの反応を見て、凛太郎は思い出した──ああ、この子たちはまだ十歳だっけ。 「あーそっかそっか。まだ十歳じゃ習わないっけ……たしか卒業するくらいだったような気がするし」 「卒業とセイカンイミンってなんか関係あるの?」 「ないない。ないけど、だいたいそれくらいの年に習うってことだよ。あー……今はどうだかわからないから、あんまり確実なことは言えないけど」  そう言って、凛太郎は目の前に広がる、えぐれた大地を指さす。 「ここよりもっと海側の方にさ、ドカーンと落ちたんだってさ」 「何が?」 「船。僕たちのご先祖様はね、遠く離れた地球ってところから、ここまでやってきたんだってさ。新しく、この星を開拓して、住むためにね」 ●海に会えた日  空は高く、雲は白く、草は風に揺れ、海はどこまでも青い。  切り立った崖に、波しぶきが打ちつける。遠くで聞く潮騒とは違い、ここで聞く波の音は思っていた以上に荒々しい。  薄曇りの日曜日の空からは、おだやかに太陽が覗く。暑くもなく、寒くもなく、出かけるには絶好の日和だった。  鈴夏は、朝からひたすら海を目指した。風力発電所を越えた先──ツンデレ(鈴夏的あだ名)が教えてくれたように、道なりに進むと、やがて海が見えてきた。崖には柵が張り巡らされている。転落防止用のものだろう。立て看板のようなものが立てられている──危険。ここから先はあなたの責任で。 「海だぁ……」  ずいぶん遠くまで来たような気がして、高揚感とともに、どことなく不安な気持ちにもなる。  鈴夏は周りを見回した。できれば海の近くまで行きたいが、崖の下に下りる手段はないようだ。柵を越えて下りていく──という手もないではないが、家から持ってきたロープでは明らかに長さが足りない。というより、ロッククライミングの経験者でもない鈴夏に、それは無理だろう。 「せめて、海の水か、貝殻みたいなのでもあればなぁ……」  鈴夏は、おそるおそる崖の下を覗く。ごつごつとした岩に、波が寄せては返し、そのたびにしぶきが高く上がっていた。  ふたつの丘の東側はリアス式海岸になっており、人が気軽に下りたり、遊べるような砂浜はなかった。他の街なら、砂浜が広がる場所もあるというが、さすがにそこまで行くのも大変だ。洋上水素製造工場で精製した水素を運ぶための港も、リアス式海岸をわざわざ削って作ったという。当初はパイプで送るという案もあったそうだが、事故の危険性があるということで比較的初期に却下されたという。 「んー。ていうことは、港の方まで行けばいいのかなぁ……」  鈴夏はタブレットを取り出して、港の位置を調べた。ここからはだいぶ距離がある──歩いていくこともできるだろうが、そうなると帰りが何時になるかがわからない。門限破りで叱られるのが目に見えていた。 「出直すかぁ……」  鈴夏は海を見た。つい先程までは荒々しく見えた波が、今では鈴夏を誘うように、手招きしているようにさえ見えた。 ●ちいさなささやき 「モイ」 「モイ」  それはまるでふたりだけの合言葉のようで──エルメルは、嬉しい半面、なんだか落ち着かない。  図書室は授業があった頃に比べると、利用者は減っていた。夏期講習が終わったあと、図書室を訪れるのは本好きの面々くらいになっている。 「あら、なんだかずいぶん難しそうなの読んでるのね」  ライサは、エルメルが抱えた本の貸出用ケースを見て言った。 「中等教育クラス向けじゃないの、それ?」  エルメルは頷いた。 「だいたい、全部読んじゃったから」  ライサは肩をすくめた。 「自分で本を読むより、エルメルに聞いた方が早そうだわ」  そう言って笑うライサに、どう返したらいいか悩んで、結局エルメルは曖昧に微笑むことしかできなかった。 「ま、とは言っても、やっぱり自分で読んだ方が身につくんだろうけどね」 「そうだね」  しばらく、互いに無言が続く。  並んで書架を見る──ふたりの目線は交わらない。 「そういえばさ」  エルメルが言うと、ライサは書架から目を離さないまま、話を促した。 「この間読んだ本でね、ボクたちの先祖がどこから来たのか書いてあったんだ。ライサさんは「地球」って知ってる?」 「チキュウ……? それもエルメルの家の言葉?」 「ううん、違うよ。すごく昔に、地球っていうところから、ボクたちのご先祖が船に乗って、ここまで来たんだって」 「そうなの!? そんなの習ってないわ」 「ボクらの学年じゃ、まだ習わないみたいだよ」 「そう……」  ライサはため息をつく。 「ほんとに嫌になるわね、時々だけど」  エルメルは本を探す手を止めて、ライサを見る。普段と変わらない横顔だが、目はどことなく悔しそうだ。 「まだ子どもだからって、いろんなことがせき止められてる感じだわ」 「そうかなぁ……」  エルメルは首を傾げた。本や、周りの大人に尋ねれば、いろいろなことを教えてもらえる。その時わからなくても、少しずつ知識と経験を貯めていけば、いつか必ずわかる──エルメルはそう思った。 「そうよ! ほんとに失礼しちゃうわ!」  ライサはなんだか唐突に怒りだした。 「わたしがまだ子どもだからって、何にも教えてくれないのよ! 信じられる? わたしもう十歳なのよ! 生まれてからもう十年も経ったんだから、そろそろいいと思わない?」 「えっと……何が?」 「ママよ!」  普段のライサと比べると、ずいぶん感情的で、おまけに話の要領を得ない。よほど腹にすえかねることでもあったのだろう、ということくらいしかエルメルには思いつかない。 「そうだわ!」  ライサが突然、エルメルに向き直る。 「わたしがもう立派な大人なんだって、ママに証明してみせればいいんだわ。難しいこともちゃんと分かるんだってことを」 「でもライサさん、他の子や、ボクなんかより、ずっとしっかりしてると思うけどなぁ……」  エルメルのひとりごとめいた言葉に、ライサは頬を赤らめつつ、笑顔になった。 「そ、そうでしょ! エルメルだってそう思うわよね! ……そうだわ、エルメルも手伝って」 「え、な、なにを?」  思わぬ展開に、エルメルはなんだかついていけない。そもそも、ライサは何に腹を立てて、何を母親に証明したいというのか──ライサの感情的な部分に初めて触れたようで、エルメルは戸惑うばかりだ。 「手伝ってもらうのはきっとノーカウントだわ。ええ、そうよ」  なんだかルールも構築しているらしい。意味は分からないが。 「あのね、一緒に調べて欲しいの」  ライサは小声で言うと、エルメルを手招きする。おずおずと一歩近寄ると、ライサは不意にエルメルの耳に手を当てて、囁いた。 「──ヒチャクシュツシ。この言葉の意味が知りたいの」 ●エンドレス・ゲーム  街は、今夜も街灯が煌々と灯り、人々の眠りを見守っていた。  夜の闇はもう恐れるものではなく、突然の停電や計画停電に右往左往することもない。夜は、安心して過ごせる時間へと生まれ変わりつつあるのだ。  ドクター・シュトライヒリングは、同僚のドクター・ベネットがまとめたレポートを読み終えると、病院の宿直室から見える街の風景をぼんやりと眺めた。  病院内はもう消灯時間を過ぎており、ほとんどの患者が眠りについているだろう──時には、朝を迎えても目覚めない者もいるが。  科学同様に、医学もまた進歩している。いや、進歩し続けなければならない。人類に病気や怪我といった脅威がある限り、医学は人を救い続けなければならないのだ。  それは、彼には終わることのない戦争のようにも思えた。  戦争。  もはや死語だ。歴史の教科書の中でしか見ることのない──見ることがあってはいけない──言葉。  しかし、人類は未だに戦い続けている。病気という敵は、常に人類を脅かし続けているのだ。星の海さえ越えられるようになっても、まだ人類は「敵」に勝てない。だが、勝たなければならないのだ。 「負けることはできない、か」  ドクター・シュトライヒリングは、苦々しく呟いた。 -------------------------------------------------- ■お知らせ エルメル・イコネンさん:ライサのお願いを聞くも聞かぬも、あなたの自由です。 皆藤華名さん:オーガスタおばあちゃんとは友達になりました。 -------------------------------------------------- -------------------------------------------------- ■ 登場PC・NPC一覧 -------------------------------------------------- 【PC】 ・辻風麻里子 ・白鐘鈴香 ・瀬木戸鈴夏 ・シュリー・ジルカ ・西藤はるせ ・ジャンゴ・リーボリック ・皆藤華名 ・山野ニコ=トポ ・エルメル・イコネン 【ちらっと出てましたね系PC】 ・ジャンヌ・ツェペリ ・野中永菜 ・御手留乃歌 ・白戸さぎり ・陳宝花 ・クリス・グランヤード 【NPC】 ・ヴィヴィアン・フェイ ・おにいさん改め望月凛太郎 ・ローマン・ジェフリーズ ・オーガスタ・ジェフリーズ ・ルドヴィカ・ナーゾ ・猫(名前はまだない) ・ライサ・チュルコヴァ 【ちらっといたね系NPC】 ・片岡春希 ・幽霊に怯えた卒業生の皆様 ・ドクター・ベネット ・ドクター・シュトライヒリング