-------------------------------------------------- PBeM『VOiCE』第4回リアクション 04-B あたしプラネタリウム -------------------------------------------------- ●La Creation du monde  彼らの決意は固かった。  新しい大地を目指して来たのだから、ここでくじける道理はない。  むしろ、思いもがけずたどり着いた新天地に、運命の導きさえも感じるほどだ。  産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。  海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を全て支配せよ。  古い祝福の言葉のように、彼らはこの地に満ちた。 ●I'm 10years old  夏の朝は、まだ少し肌寒い。夜の空気を少し残した、朝もやの中で、御堂花楓は太極拳の動きを繰り返す。  頭では正確に──それこそ、教えてくれる陳宝花の表情まで──覚えているのに、いざ自分の体で再現しようとすると、どうもうまくいっていないような気がする。目で見たことと、自身が体験したことの間を埋めるのは、結局、自分自身の行動でしかないのかもしれない。 「繰り返しやってるうちに、体が覚えていくんだヨ」  そう言って、宝花は笑う。  繰り返し、繰り返し。  宝花もそうして、この動きを覚えたのだろうか。  花楓は、もう一度、最初から動きを自身の体を使って再現する。頭の中でよみがえり続ける動きと、自分の体をシンクロさせるように、少しずつ、すりあわせていった。    繰り返し、繰り返し。  覚えたことを、何度でも、繰り返す。  ──繰り返し、ができるなら。  花楓は思う。  繰り返し、覚えたことを自身の体で再現することができるなら、繰り返し伝え続けることで、心が覚えることだってできるんじゃないのか。 ●元気な小さい少女たち 「おはよー、先生ー!」  キルシ・サロコスキの病室に、元気な声が響く。クロワ・バティーニュが、今日もお見舞いにやってきたのだ。 「あら、まだおはようの時間だったかしら?」  キルシが首を傾げると、クロワは笑ってみせた。 「えへへ、だって一番最初に会ったら、おはようでもいいと思うんだぁ」  時刻はお昼を過ぎて、街はどこか気だるい夏のまどろみにたゆたっている。それは病院も例外ではなかった。どこか倦怠感にも似た穏やかさが、ロビーにも病室にも漂っている。 「今日はね、おみやげ持ってきたの」 「あら、何かしら?」  クロワは、可愛らしい包みを取り出した。恭しく中を取り出して見せる──明るい水色のリボンと、ふわりとした柔らかい素材でできたシュシュだ。 「まあ可愛いわね。それにこの色、明るくて素敵だわ」  キルシはリボンをするりと手に取ると、太陽でも見るようなまぶしそうな目でリボンを眺める。 「いいでしょー。これね、さつきとおそろいなんだよ」 「え?」 「さつきちゃんと先生とで、おそろいのリボンなの。病院って、おしゃれできないでしょ? でも髪を結うくらいだったら、問題ないはずだもん」 「ふふ。そうね」 「これからね、さつきのお部屋にも行くの。先生も一緒に来る?」 「あら、いいわね。じゃあ、一緒に行こうかしら」  キルシは楽しそうに微笑んで、ベッドから起き上がる。よろめいて、転びかけたが、ベッドの端を掴んでどうにか持ちこたえた。 「先生、大丈夫?」 「平気よ……やっぱり寝っぱなしじゃダメねぇ」  さつきの病室に行くまで、キルシは三回道を間違えた。ひどい時は五回も間違える。今日はまだ少ない方だ。 「さーつきーっ」  クロワが勢いよくドアを開けると、衛宮さつきはいつものようにベッドの上でタブレットをいじっていた。 「何してたの? お絵描き?」 「ううん、ちょっとお勉強」 「わぁ、偉いんだぁ」  クロワとキルシに椅子を勧めると、さつきはタブレットを手元に置いて、ふたりに向き直った。 「ふっふっふっ。今日はねー、いいもの持ってきたんだぁ」 「えっ、何?」 「じゃーん!」  クロワは、キルシに渡したのと同じように、可愛らしい包装に包まったリボンとヘアゴムを取り出して見せた。 「わー可愛い! どうしたの、これ?」 「いつもいい子に勉強してるさつきに、クロワさまからプレゼントだよぉ♪」  クロワが言うと、キルシも微笑みながら自分のリボンを胸ポケットから取り出した。 「ほら、先生とおそろいなのよ」 「わああ、ほんとだ!」 「結ってあげるね」  クロワは用意してきたブラシを取り出すと、さつきの髪をそっと梳き始めた。こうも入院生活が続いては、楽しいことを考えなければ気が塞いでしまうだろう。ましてや、さつきは先月倒れてしまったのだ。少しでも、楽しいことや面白いことを、さつきに体験してほしい。 「そういえばねぇ。なんかの本で読んだんだけど、笑うとメンエキリョクがアップするんだって」 「メンエキリョクって?」 「うーん、女子力みたいなものじゃないかな? 上がると可愛くなるんだよ、きっと」 「そっかー、素敵ー!」  夏の空が、三人を見守るように、そっと病室のカーテンを風で揺らす。 ●水面下でずっと 交渉してたの  勝手知ったるなんとやら、とは今の宝花のためにあるような言葉だろう。 「いえいえ、お構いなク」 「いいのよ、遠慮なんてしないで。ごめんなさいね、せっかく来てくれたのに、あの娘ったらまたどこかへふらりと行ってるみたいで」  恐縮するニアシュタイナー・シュトライヒリングの母を目の前に、宝花は気遣い無用と頭を下げた。出されたアイスティーに添えられたクッキーは素朴で、きっとニアシュタイナーが作ったのだろうと、宝花は思う。シュトライヒリング家のリビングは、夏の風が吹き抜け、快適だった。ごま油の香りと無縁の家というのは、宝花にはなんだかかえって落ち着かなかったが。 「ところで、朝の体操……っていったかしら、素敵なことだと思うわ。生活習慣の改善にも役立つし」  宝花が今日、ニアシュタイナーの自宅を訪れたのは、宝花主催の朝の体操に、ニアシュタイナーを誘うため──ではなかった。あくまでもそちらは布石である。 「そうなんでス! おかげで夏期講習にも遅刻してくる子は減ったし。みんなでわいわいやってたら、なんだか前より仲良くなれた気もするんでス。だから、ニアにも一緒に参加してほしいなぁっテ」 「ありがとう、そんなにあの娘のことを思ってくれるなんて……」  嬉しそうに微笑む彼女を見て、良心がちくりと痛まないわけではないが──でも、ニアも来てくれたら嬉しいという言葉には、嘘はない。 「もしよかったら迎えにだって来るシ、ニアにも伝えておいてくれると嬉しいでス」 「ええ、もちろんよ」  ぺこりと頭を下げ、宝花はさり気ない様子を装って、本題へと切り出した。 「そうダ! お母さんもお父さんも、病院のお医者さんなんですよネ?」 「ええ、そうよ」 「じゃあ、キルシ先生のこと知ってますカ?」 「ああ、あなた達の担任の先生ね。ええ、知ってますよ」  にやり。  思わず浮かびかけた笑みを、宝花は屈託のない笑顔に変換する。 「わあ、本当ですカ! じゃあ、もしキルシ先生に会えたら、キルシ先生も朝の体操に来ませんかって言ってもらえませんカ?」 「先生にも?」 「キルシ先生は体を動かすのが好きで、宝花ともよく太極拳の話をしてくれたんでス。朝の短い時間だけだから、病院から出ても平気じゃないカナ?」  そう言って、宝花は無邪気に首を傾げてみせる。 「そうねぇ……あまり前例はないけれど、外出許可には特に時間制限や指定はないものねぇ……」  その返答に、ふたたび宝花はにやりと笑いかけ──子ども特有の満面の笑顔に切り替えた。 「わあ、じゃあもしもキルシ先生も来てくれるってなったら、宝花に連絡くだサイ! みんなもきっと喜ぶカラ!」 「うふふ、わかりました。相談してみるわ。さ、ぬるくならないうちに、紅茶を召し上がって。そうそう、このクッキー、あの娘が作ったのよ。筋がいいのか、最近はとっても美味しく作れるようになってね」  どこか誇らしげに、さり気なく娘自慢を始める彼女の笑顔に頷きながら、宝花は遠慮なくクッキーに手を伸ばす。  ──よしよし、まずは上々、カナ? ●時にはHappy, 時にはDisease 「さっちゃん、お薬の時間よ」  看護士フェリシテ・サン=ジュストが声をかけたが、返答はない。もしや、と思ってベッドを覗きこんだが、どうやら杞憂だったようだ。 「んー……あと五分ー……もう食べられないよー」 「こーら、さっちゃん」  ベッドの中で、さっちゃんこと衛宮さつきはテンプレートな寝言を言いながら眠っていた。フェリシテがシーツをめくると、さつきは幼児のようにぐずりながら、眠そうに目をこする。 「まだ寝てるー……」 「寝ててもいいけど、お薬はきちんと、ね?」 「うぐー」  フェリシテに促されながら、日課の投薬を渋々受けたさつきは、フェリシテが去って行くなり、ぱたんとベッドに倒れ込んだ。 「もおー……眠いのにぃ……」  このところ、さつきは常に寝不足だ。というのも、毎日のように夜更かししているからだ。 「調べ物……たくさん……」  タブレットは肌身離さず、抱えて一緒に寝ているような始末だ。それだけ、さつきには調べたいことが山ほどある。だが、今は眠い。とにかく眠い。 「せんせ……」  そのまま、さつきは眠りの世界へ戻っていった。 ●だれかと会いたい  ニアシュタイナー・シュトライヒリングは、クラスメートの頭部についている「それ」を、改めてまじまじと見つめた。よくできている。正直なところ、感心する。だが、それを日常的に身に着けている意味は、さっぱりわからない。 「ニアシュタイナーさんも、調べ物なの?」  その言葉に連動するように、「それ」──猫耳はぴこぴこと動く。右耳がやや後ろを向いているので、後方のことも気にかけているのかもしれない。 「まあ、そんなところだ」 「そっかぁ。じゃあ、一緒にやる?」  そう言って、相手──平谷杏樹はにこにこと手を差し出す。猫耳はぴこぴこと動いている。その手をどうするべきなのか、ニアシュタイナーは悩む。 「いや、その」 「わたしはね、ご飯のことを調べようと思ってるの」  有無を言わせずに、ニアシュタイナーの手を握り、杏樹はぶんぶんと振り回す。その手のぬくもりが、思っていた以上に温かくて、ニアシュタイナーはなんだかくすぐったい。 「ご、ご飯?」 「んーとね、自由研究、みたいな?」 「いまいちよくわからないが、ずいぶん勉強熱心だな。そんな宿題は出てないだろう」 「んー。でもほら、そう言っておけば、大人の人とか教えてくれそうだし」 「ああ……なるほど、たしかに」  猫耳なりに、いろいろ考えているのだな、とニアシュタイナーはぴこぴこ動く猫耳を見ながら思う。ずいぶんリアルだが、やはり触り心地も本物の猫と同じなのだろうか。さ、触ってみたい、かも。 「ニアシュタイナーさんは何を調べるの?」  猫耳少女が、ニアシュタイナーを見上げながら言った。 「何をって……」  思わず口ごもる。もしかしたら、本当は触れてはいけないことなのかもしれない──クラスメート同士の他愛ない内緒話とは、規模の違う問題なのかもしれないのだ。それを気軽に口にしていいのかどうか、それさえ悩むような。 「……風土病という言葉を、知っているか?」 「フードビョー?」  杏樹は首を傾げる。 「風土病について、だ。私の、その、自由研究は」  自由研究という課題は出ていないが、杏樹が言うとおり、そういうふうに言っておけば、門も立たずに済むかもしれない。何より医者の娘なのだ、その手のものに興味を持っていたっておかしくない──と、相手が勝手に思ってくれれば、なお良い。 「フードビョーってなぁに?」  なんとなく流れで、近くにあった席に座って話を始める。杏樹は聞きなれない言葉に興味が湧いたのか、ニアシュタイナーの返答をじっと待った。 「ある一定の限定した地域に定着して、流行を繰り返す病気のことだ。たとえば……そうだな、病気というのとは少し違うが、土の成分に偏りがあったり、土地柄、特定の食品を食べにくい環境にあると、その地域固有の栄養障害……その、病気みたいなものが発生することがある。これも、風土病といえる。杏樹の自由研究でも、調べてみるといいんじゃないか」 「そっかー! フードビョーって、ご飯にも関係あるんだね!」 「まあ、ある場合もある、程度だ」  風土病は地方病とも呼ばれるが、その発生源はウィルス、細菌や寄生虫といったものとは限らない。土壌の成分や、地域の自然条件、独自の食文化などによっても発生し得る。人と病は常に戦い続ける。だがその敵は、自然そのものかもしれないのだ。 「ありがとう、ちょっと調べてみる!」  そう言って、杏樹は嬉しそうにニアシュタイナーの手を両手で握ると、ぶんぶんと振り回した。 ●夏 髪に感じて  八代青海と、楪雫は顔を見合わせた。その表情はどちらも曇っている。 「どうしよっか」 「どうしましょう……」  雫はいい知らせを持ってこれたのだが、どうも切り出せるような雰囲気ではない。  それというのも──ちらりと、談話室の隅っこにうずくまる穂刈幸子郎に目をやる。全力で落ち込んでいる。目に見えて落ち込んでいる。『ドナドナ』の切ないメロディが、静かに細く流れている──幸子郎が電子リコーダーで吹いているのだ。ああ、仔牛が連れられていく。 「ずっと、あんな感じなのかしら」 「ずっと、あんな感じだよ」  室内、しかも夏だというのに赤いケープのフードを目深にかぶったままの青海が、深く頷いた。  それは、幸子郎が学校のサマーキャンプに行きたいと言い出したのが発端だった。  全身全霊で、いかにキャンプに行きたいか、幸子郎は訴えたのだが、答えは「NO」だった。一日、しかも日帰りで終わる社会科見学と違い、サマーキャンプは泊りがけだ。病院側としても行かせてやりたい気持ちはあったのだが、いかんせん人手の確保ができなかった。体格は十歳のそれをはるかに上回る幸子郎では、万が一何かがあった時に対処できる人間は、それ相応の経験者でなくてはならない。それを三日間も外部に派遣するというのは、どうしても難しかったのだ。  ドクター・ベネットとドクター・シュトライヒリングは、言葉の限りを尽くして説明したが、幸子郎の気持ちを和らげることはできなかった。  すっかり落ち込んでしまった幸子郎は、切なげに電子リコーダーをか細く吹いて、覇気もなく一日を過ごすばかりだ。 「いつも走り回ってるから、ああいうの見ると、なんかこっちも落ち込んじゃうね」 「本当に……せっかく、サマーキャンプの中継の許可ももらえたんだけど……幸子郎くんに言ったら、逆に傷つけちゃうわね……」  雫が申し訳なさそうにため息をついた。  雫は、入院しているキルシやクラスメートたちのために、担任教諭のローマン・ジェフリーズを通して、サマーキャンプのネット中継の許可をもらってきたのだ。最終日の飯盒炊爨の様子を生中継して、キルシたちともやり取りできるようにしたのだ。  いつもいろんなお願いをきいてくれて、ありがとうと言った時の、ローマンの優しい笑顔を思い出す──幸子郎の姿と、それはあまりにかけ離れていて、雫の胸はなんだか締め付けられるようだった。  その様子を見て、青海はしばし考え込んだ。 「あのね、青海にいい考えがあるよ」  ややあって、雫の耳にそっと耳打ちする。そして、ぎこちなくウィンクしてみせた。 ●あなたに星 届けたい  プラネタリウムは、今日も静かだった。ちょうど上映時間だからだろう。もう少しすれば、ロビーも出入口も、子どもたちで賑やかになるはずだ。 「あ、麻里子ちゃんじゃない。来てくれたんだー」  声に振り向くと、そこにはプラネタリウムの受付をしているルドヴィカ・ナーゾの姿があった。 「残念、さっき上映始まっちゃったよ」  ルドヴィカの言葉に、辻風麻里子はゆるゆると頭を振った。 「あの、今、お話しても大丈夫ですか?」 「いいよ。あ、なんだったら、こっちに入る?」  そう言って、ルドヴィカは受付ブースの内側へと麻里子を手招きする。思わず辺りを見回すが、麻里子とルドヴィカ以外に人気がないのを知ると、麻里子はおずおずとブースの内側へと入った。 「い、いいんですか?」 「いいの、いいの。別に怒られたりはしないよ、あたしが入れたんだし」  平然と言うルドヴィカを見ていると、そんなものなのかな、と麻里子は少し安心した。大人の人が言うのだから、たぶんそうなのだろう。 「で、今日はどうしたの?」 「あ、あの。……プラネタリウムって、どうやったら作れるんでしょう?」 「おお、ついにプラネタリウム建設に着手ですか、麻里子さん! いいなぁ、完成した暁には、あたしのこと雇ってね☆」 「えっ、えっ、あの」 「あはは、冗談だよ。冗談。なぁに、学校の宿題か何か?」 「い、いえ、そういうわけでは、ないんですけど……。あの、作り方は調べたんですけど、実際に作る前にアドバイスもらえたらなって……」  麻里子はどぎまぎしながら、説明し始めた。麻里子の説明を聞いたルドヴィカは感心したように何度も頷いた。 「ふぅん、なるほどねー。いいよ、あたし協力したげるよ。こう見えて、手先は結構器用な方だからさ」 「ほ、ほんとですか?」 「オッケーオッケー☆ 未来の納税者様へのご奉仕だもの、あたしが断る理屈はないわね」 「は、はあ……」 ●向こうは 他の世界  その日は、朝から空は晴れ渡り、雲ひとつなかった。風は穏やかで、これからの暑さを伺わせた。 「あっ、キルシ先生だー!」  最初に声を上げたのは誰だったか──だが、その声をきっかけに、わっと子どもたちはキルシの元へと駆け寄った。 「先生、元気ー?」 「退院できたの?」 「学校もう来れる?」 「ねぇねぇ、先生あのねあのね」  入院前に比べて少し痩せたキルシだが、笑顔は入院前のそれと何ら変わるところはなかった。 「今日はね、えーっと朝の体操に、先生も参加させてもらいにきたのよ」 「わぁ、本当にー!」 「じゃあ、教えてあげるよー」 「先生、先生ーねーねー」  腕を引っ張られて、輪の中に入っていくキルシを見ながら、威風堂々とばかりにフラットな胸を張っているのが首謀者──宝花だった。残念ながら今回だけ、という制約はついてしまったが、一度実績を作ってしまえば、そんな道理は宝花の無理でこじ開けてやろうではないかフゥーハハハハハハ!  花楓も、宝花が用意したサプライズに目を丸くしている。 「え、マジで?」  ぽかんと見つめる花楓の顔を見ていると、仕掛けた甲斐があったものだと、宝花はますます嬉しくなるのだった。  体操が終わったあとは、中華料理店「宝花」で豪華モーニングと行くのが、もはや定番コースである。もちろん朝から通常メニューを出すことはなく、おかゆがメインになる。とろとろに煮こまれたおかゆは、夏の暑さで疲れ始める胃に優しく、その柔らかな風味は全身にしみわたるようだと評判だ。  だから、いつものように宝花はキルシを店へと誘った。それが普通だったから。 「ごめんなさいね。食べてはいけないの。病院に戻らないと」 「えー……そうなのカ?」 「元気になったら、食べにくるわ。その日のために、後でオススメのメニューを教えてね」  意気消沈する宝花の髪をそっと撫でながら、キルシはウィンクした。 ●ほら猫耳が揺れてる  ぴこぴこと動く猫耳に、公立図書館の司書は思わず目を細めた。カウンターにしがみつくようにして、猫耳つきの少女──平谷杏樹は言った。 「ふたつの丘の、ご飯のことを調べたいんです」  杏樹が知りたかったのは、ふたつの丘での食糧事情だった。この街で、今自分たちが口にしている食料は、どこで作られ、どんな経路をたどって、口に入るようになるのか──それが知りたかった。  ふたつの丘で主に食べられているのは、人工食品と自然食品がちょうど半々だった。どちらも、ふたつの丘で生産されたものよりも、大農場と生産設備がある「閉じた扉」産のものが多い。だが、近年では特定の地域の生産品への依存率を減らそうという政策方針で、どの街でも農場と生産設備の開発が進められている。特に、ふたつの丘は医療都市とも呼ばれるだけあって、万が一に備えた発電・蓄電設備と並んで、急務の案件だと考えられているようだ。  そこまで調べてみて、杏樹は空腹に気づいた。母が作ってくれたお弁当を食べようと、いったん図書館から出た。飲食禁止のところでは食べてはだめよ、と母にも言われていたからだ。  中庭に出ると、夏特有の熱気のこもった風が、杏樹の頬を撫でていった。日差しは強いが、木陰のベンチに座れば、湿度の低さもあってか、過ごしやすい。 「いただきまーす」  そう言って、杏樹はお弁当の包みを開ける。今日はラップサンドとアイスティーだ。冷たくて、香りのいいお茶を一口飲むと、暑さも忘れられそうだ。 「あら、お昼ご飯?」  ふと顔を上げれば、先ほどの司書の女性が、杏樹と同じようにお弁当箱を持って立っていた。 「お隣、いいかしら?」 「どうぞ!」  礼儀正しく、杏樹はお辞儀をすると、司書の女性が座れるように少し横にずれた。 「ありがとう、お勉強熱心なのね」 「うん!」 「宿題か何かかしら?」 「んーとね、宿題じゃないんだけど、自由研究」  その答えに、司書の女性は感心したようだった。 「偉いわねぇ。わたしだったら、夏休みは遊んで暮らしちゃいそうだもの。自由研究ははかどりそう?」 「うん、たぶん」  ラップサンドを頬張りながら、杏樹は頷いた。ぽろっとこぼれたパンくずを、司書の女性が代わりに拾ってくれた。 「でも、どうしてご飯のことを調べているの? 将来は料理の先生にでもなるの?」 「えっとね、ご飯を食べてもらいたい人がいるんだけどね、食べてもらえなかったの」 「あら、それは残念ねぇ……」 「でね、なんかご飯が食べられないのはお料理の味が嫌いとかじゃなくてね、なんか食べちゃダメって言われてるからなの。よくわかんないんだけど」 「その方、お病気なのかしら?」 「病気だと、ご飯食べちゃいけないの?」 「そうね、病気によっては、食べてはいけないものがあるのよ。残念だけれど」 「そっかぁ……」 「高血圧だと塩辛い食事は避ける、とかね。でも最近は治療方法も薬もたくさんあるから、そんなに厳しくしなくてもいいはずなんだけど」 「んー、でも先生は塩辛いとかそういうんじゃなくて、とにかくダメなんだって。病院で用意するご飯以外は食べちゃいけないの」 「あら、そうなの? それは大変ねぇ。ルアナ症候群かしら?」 「よくわかんない……」 「あ、そうね。ごめんなさいね、立ち入ったことを言ってしまって」  申し訳なさそうに恐縮する女性に、杏樹はふるふると首を振った。 「ルアナなんとかって、なぁに?」 「ああ、最近増えてきてる病気よ。昔からあったんだけど、最近は特に増加傾向にあるって。大変よね、あの病気は」 「そうなの?」 「そうよ、お薬で悪いバイキンやウィルスを倒せばいいってわけではないから」  そんな病気があるの、と聞き返そうとした時、女性が不意に立ち上がった。モバイルに、何か連絡が来たらしい。 「いやだわ。会議が早まるなんて……ゆっくり食べてる暇もないわね。ごめんなさいね、また今度」  いそいそと去っていく女性の背を見ながら、杏樹はアイスティーを一口飲んだ──そういえば、フードビョーだと、バイキン以外の理由もあるんだっけ? ●変わることのない 私の小さい箱世界  さつきは、消灯後もベッドの中でタブレットを見ていた。これまで集めた情報を整理し、分類し、テキストデータに切り分けていく。それぞれのサイズは小さいが、数は多い。だが、共有ボックスのアップロード制限に引っかかるほどのサイズではない。時計を見れば、もうすぐ日付が変わる頃だ。こんなに夜遅くまで起きていたのは、これが初めてかもしれない。 「これでよし、と」  さつきは、フォルダをボックスのアイコンに放り込む。  ──アップロード開始  アイコンが、点滅し始めた。更新中の表記が、タブレットの中で光る。 「誰か、誰かが見つけてくれれば、一緒に調べてもらえるはず……!」  さつきは祈るような気持ちで、更新中の点滅を食い入るように見ていた。 「……ん?」  眠い目をこすりながら、睡魔と戦っていたニアシュタイナーが、それに気づいたのは幸運だったかもしれない。 「あれ、誰かが更新してるのか……」  クラスの共有ボックスが、更新中を示す点滅を繰り返している──今はもう夏休みで、共有ボックスにアクセスすることも、そこを更新する機会もほとんどないはずなのだが。  やがて更新が終わり、ボックスのアイコンが通常通りの味気ないフォルダに戻った。ニアシュタイナーは、このまま寝てしまおうかと思っていたが、大した手間でもあるまいと思い直し、ボックスを開いた。  そこには、ひとつのフォルダが新しく作られていた。更新日時はつい先程だから、これが新しく放り込まれたのだろう。作成者は衛宮さつき──入院中のクラスメートだ。ニアシュタイナーは、首を傾げながらそのフォルダを開く。はて、入院している子どもには何か宿題でも出ていたのだろうか。  開いたフォルダには大量のテキストデータがあった。どれも、それほど重いサイズではないが、数だけは多い。フォルダに貼り付けられたタグには「誰か一緒に調べて!」とある。やはり宿題なのだろうか。気になって、試しに一番上のテキストを開いてみた。 「……致死、性……?」  どこかで見たような気がして、ニアシュタイナーはそのテキスト内のデータをコピーすると、検索ボックスに放り込んだ。タブレット内と、街のクラウドネット内を検索ロボットが駆け巡り、ややあってから検索結果を表示した。  ──致死性ルアナ・アルムニア症候群。  ──症状は家族性アルツハイマーと致死性家族性不眠症に似ている。初期症状は物忘れや筋力の低下。  ──認知障害と進行性不眠、自律神経障害が同時進行し、最終的には無動無言状態となり死亡する。  表示された結果を見て、ニアシュタイナーは息を飲んだ。いくつか意味の分からない単語はあるが、それは後で調べればいいだけのことだ。 「……これだ」  ニアシュタイナーは震える手をぐっと握る。  ──死亡する。  その言葉が、目に焼き付いて、消えない。 ●嫌いじゃないよ でもあなたを  夏の日差しは、肌を刺すように熱く、だがそれがなんだか心地よかった。  サマーキャンプは、教室の雰囲気をそのまま外に持ってきたようだった。だが、やはり学校とキャンプ場では、同じ顔でもどこか新鮮に思えた。  夕食までの自由時間を、黒葛野鶫は写真撮影と探し物に費やしていた。鶫にとっては他愛ない風景でも、それを目にすることのできない者から見れば、思い出になるだろう。風に揺れる木の葉の音や、足元で咲く花を踏まないように避けて歩く感覚──そんなことさえも、今の彼女にとっては、遠い日のできごとのように思えているだろうから。  うなじに貼りつく髪を鬱陶しく思いながら、鶫はクローバーの花が揺れる草むらを見つけると、そこにかがみ込んだ。一枚一枚、丁寧に葉の枚数を確認する──意外と、探せば見つかるものだ。 「お姫様ー!」  唐突に頭上に降ってきた声に振り向く暇さえなく、鶫は前のめりに勢いよく転がった──長い黒髪がふわりと宙を舞う。回転する視界の先にいたのは、案の定、水無月千鳥だった。 「何してるのぉ? お花摘み?」 「……そんなところだ」  寝転がったまま、鶫は答えて──あわてて目をそらして起き上がった。そりゃあ視界いっぱいにスカートの中がふわりと広がって見えちゃってたらびっくりしちゃうんですよ男の子ですから! 「そうなんだー」  対する千鳥は、齢十歳にして戦闘技能「ぱんつじゃないから恥ずかしくないもん」を会得していた。スカートの下にはドロワーズ。見えても恥ずかしくない。だって、ぱんつじゃないから。だが、男子である鶫には、そんな女子専用謎スキルの存在を知るよしもない。どぎまぎと今まさに見てしまった、フリルつきの何やら白い布地を必死に忘れようとしていた。 「な、な、なんだよ、なんの用だ」 「鶫くんが何してるのかなぁって」 「べ、別にいいだろ。何してようと」 「んー、そっかぁ」 「だいたい、なんだ、お姫様って」 「だって、鶫くん髪の毛長いでしょ? お話に出てくるお姫様みたいだなぁって。そうだ、今度ドレス着てみて!」  にこにこと言う千鳥に、鶫は苦いため息をついた──違う、違うんだ、お前が思ってるような髪じゃないんだ、これは。俺の、髪は。 「あっ、いけない、忘れてたぁ!」  来た時と同様に、突然千鳥が大声を上げた。 「もうすぐ晩ご飯前のミーティングだから、宿舎に戻ってきてねって、ミシェーラちゃんが言ってたの」 「あれ、もうそんな時間だっけ」  モバイルの時刻表示を見れば、確かに時間帯は昼から夕暮れへと移りつつあった。 「夏って、夜が来るのを忘れちゃうよねー」  千鳥が鶫の手を掴んで立ち上がらせる。鶫はあわてて、握っていた四つ葉のクローバーをポケットに押し込んだ。 ●もっと もっと伝えたくて  外は静かだ。公営キャンプ場の宿泊施設も、昼間とは打って変わって、静かな夜を取り戻している。  誰かが寝返りをうつ、衣擦れの音がたまに響く。御堂花楓は、割り当てられた部屋のベッドの中で、じっと天窓を見ていた。普段のベッドとはまるで違う感触──だが、この感触も、寝心地が違うという違和感も、花楓はずっと覚えている。いつでも思い出せる。色褪せることもなく、消えていくこともなく、いつでも鮮明に、「今」は常によみがえるのだ。  ねえ、と出した声は、なんだかかすれているようで、花楓はちゃんと相手に聞こえたかどうか、ふと心配になった。 「なに?」  衣擦れの音とともに、相手──隣のベッドで寝ているライサ・チュルコヴァがこちらを振り向く気配がした。 「さては花楓、寝れないんでしょ」  今にも笑いそうな、弾んだ囁き声を聞きながら、花楓はこれも「覚えてしまう」のだな、と頭の片隅でぼんやり思った。 「そんなんじゃないよ」 「本当に?」  天窓のある部屋は、いわば特等席のようなもので、部屋の割り振りが決まったときには、ずいぶんとクラスメートたちから羨ましがられたものだ。ガラス越しに見える星は、思っていた以上に明るい。 「この部屋になるなんてラッキーよね」  ライサの声に、花楓は無言で頷いた。声を出さなければ、それが相手に伝わるはずもないとわかってはいたけれど。 「あのさぁ」 「ん?」 「ライサはさ、よくキルシ先生のお見舞い行ってるじゃん? 先生、どう?」 「どうって……うーん、見た感じ、病気みたいじゃないんだけど……たまに、というか、最近よくいろんなこと忘れてる。もともとうっかりした先生だなーとは思ってたけど。最近は、特に」 「そっか……」  しばらく、花楓は黙って星を見ていた。 「あの、さ」 「あ、起きてたんだ。やっぱり寝れないんでしょ」 「違うってば」  花楓はむくりと起き上がると、天窓を見上げた姿勢のまま、ぽつりと話しだす。 「あのさ、わたし、ずっと忘れないじゃない? 絶対忘れない。ずっと覚えてる。だから、さ。「絶対に忘れたくない」ことを、わたしに言ってくれたら、わたしがずっと代わりに覚えていられると思うんだ」  星が瞬く。流星が一筋、流れていったような気がした。 「……キルシ先生の分まで?」  ライサの声に、花楓はあわてて首を振った──が、すぐにうなだれ、そしてまた天窓を見上げた。 「いや、その、うん、そうなんだけど、その、なんていうの、うん。……ガラじゃ、ないし」 「そんなこと、ないと思う」 「……そう、かな」 「花楓の提案、素敵だと思う。花楓が覚えて、キルシ先生が忘れちゃっても、また教えてあげればいいんだし」 「……覚えたことを、伝え続ければ、キルシ先生が忘れちゃっても、またすぐに伝えれば、忘れたことにはならないと思うんだ」 「ならないよ、きっと」 「ならない、よね」 「うん」  ライサが起き上がる音がする。花楓は、なんだか急に気恥ずかしくなって、頭からばさりとシーツをかぶった。 「明日さ、起きたら作戦会議しよ。キルシ先生の代わりに、花楓が覚えるっていう作戦」  ライサの声に、花楓はシーツの中で何度か頷いた。 ●喜びと悲しみはいつも 折り混ざる 「先生、見えますか?」  返ってくる答えは決まっているのに、それでも雫は、なんだか不安になって何度も尋ねてしまう。 『ええ、大丈夫。見えてるわ』  そう答える彼女──キルシ・サロコスキの笑顔は、画面越しでもいつもと変わらないように見えた。 「これから、みんなでカレーを作るんです」 『まあ、そうなの! いいわね、楽しそう』  そう言って笑うキルシの声に、雫の胸の奥がつきんと痛んだ──本当なら、先生もここにいるはずなのに。  サマーキャンプ最終日の昼食は、クラス全員での飯盒炊爨と決まっている。クラスメートの野中永菜が事前にカレーの作り方を調べてきたおかげで、作業自体はかなりスムーズに進行している。 「じゃ、肉入れるぞ。油がはねるかもしれないから、気をつけてな」  長い髪を結い上げ、慣れた手つきで調理を担当しているのは鶫だった。永菜はその横で、てきぱきと手伝っている。雫は、その光景を、邪魔にならないように距離を取って撮影していた。 「はい、これ使って」  そう言って、包丁に不慣れなクラスメートにピーラーを手渡すのは、ミシェーラ・ベネットだ。 「じゃがいもの芽は取ってね。難しそうだったら、私か、鶫くんか、委員長に言ってね。代わりにやるから」  普段から料理をやり慣れているのか、鶫とミシェーラのおかげで、目立ったトラブルもなく、カレーの準備は着々とできている。そのうち、カレーの煮えるいい香りがしてくるだろう。映像と音だけじゃなくて、香りも伝えられたらいいのに──雫は、手に持ったカメラをじっと見た。 「ねえ、委員長、どうしよう〜! 火が消えそう!」  不意に、悲鳴のような声が上がった。どうやら、ご飯を炊くための焚き火が消えかかっているらしい。 「はいはい、今行くわ!」  その声に即座に反応したのが、委員長こと御手留乃歌だった。学校行事の時にはいつでも頼りになる留乃歌だが、今回も面目躍如とばかりに四方八方に走り回っている。 「ああ、ダメよ。闇雲に薪をくべても燃えないわ」  留乃歌は慣れた手つきで分厚い軍手をはめると、くべられた薪を整理していく。 「火は空気がなくちゃ燃えないわ。うちわで扇ぐときも、火が弱まってるうちは扇いで、強くなったらやめていいのよ。ずっと風を送ってたら燃えすぎて危ないからね」 「ありがとう、委員長」  その言葉に、煤だらけの軍手を脱ぎながら、留乃歌は微笑んだ。 「委員長ー、こっちも頼む!」 「もう、仕方ないわね」 「さっすがー! キャンプ奉行!」  どこからともなく上がる歓声に、留乃歌の足がふと立ち止まった──だが、すぐに「委員長」の顔つきで言った。 「もう! だらしがないわね、男子たちは!  やがてできあがったカレーは、他のクラスがわざわざ見に来るほどの出来栄えだった。 「初めての飯盒炊爨とは思えないよ。さすが、みんなで協力しあった成果だよ」  ローマンが言うと、子どもたちは照れくさそうに、しかし嬉しそうな満面の笑みでお互いを見やった。 「鶫くん、お料理上手なのね」 「上手ってほどじゃないよ、単に慣れてるだけさ」  単に慣れてるだけ──そう、自分で作らなければ食事はないのだから、やらざるを得ないのだ。ただ、それだけのこと。そう思っているのに、ミシェーラに言われた言葉がなんだかくすぐったくて、鶫はふいと横を向いた。 「うん、美味しいね。さすがミシェーラ、将来はきっといいお嫁さんになるよ」  配膳が終わり、食事が始まると、一気にキャンプ場は賑やかになった。初めて自分たちだけで作ったカレー──不揃いな野菜の形も、ご飯のおこげも、格別だ。 「ねー、先生! ミシェーラちゃんだったら、きっとお嫁さんの貰い手がたくさんです!」  永菜がまるで我が事のように嬉しそうに言う。 「ははは、お嫁さんは一人のところにしか行けないんだよ。ミシェーラがみんなのお嫁さんになってくれたら、美味しい食事が毎日食べられるけどね」 「そっかぁ」  雫は食事の風景が映るようにカメラをセットすると、キルシに話しかけた。 「先生、カレー、ちゃんとできました」 『そうみたいね。よかったわ』 「先生はキャンプの時は、何を作りましたか?」 『さあ……どうだったか……? キャンプって行ったかな……うーん、ごめんね、ちょっとわからないわ』  その答えに、再び雫の胸の奥で、何かが小さな悲鳴を上げる──先生、サマーキャンプは学校の恒例行事なんです。ローマン先生も、キルシ先生も、子どもの頃には絶対行ってるんです。その言葉を、雫は必死に飲み込んだ。言っていいことと悪いことがある。きっとこれは──そう、後者だ。  鼻の奥がつんとする。雫は、わざと大きな声を出した。 「先生も、もうすぐお昼ごはんでしょう? みんなで一緒に食べませんか?」 『まあ、素敵ね! ええ、そうしましょう』  キルシの笑顔がまっすぐに見られなくて、雫はそっと目をそらした。 ●白に囲まれて 「ほら、挨拶ちゃんとしなくちゃダメじゃないの」 「あーうん」  ライサに促されて、渋々といった面持ちで花楓はぺこりと頭を下げた。 「お名前は?」  ドクター・ベネットが、にこやかに尋ねてくる。ライサに肘でこづかれて、花楓は億劫そうに口を開いた。 「御堂、花楓」 「花楓ちゃんね。よろしく、私とこちらのドクター・シュトライヒリングが、キルシ先生の担当よ」  そう言うと、ドクター・ベネットは隣に立つ仏頂面の男性を手で示す。 「ところで、キルシ先生のことで相談と聞いたけれど……?」 「この子、すごく記憶力がいいんです。だから、キルシ先生の思い出を代わりに覚えてあげられるんじゃないかって」  なかなか自分から話し出そうとしない花楓に代わって、ライサがてきぱきと説明し始めた。 「その……キルシ先生、いろんなことを忘れていってるみたいですから」 「そうね……あなたたち教え子との交流は、キルシ先生にとってもいいことだと思うわ。刺激は必要だから」  ドクター・ベネットは、花楓とライサの提案を前向きに考えているようだ。 「ドクター・シュトライヒリングは、どう思われます?」  隣の医師に、何かを確認するように尋ねる。 「……いいのでないのかね」  何か物言いたげだが、ドクター・シュトライヒリングも賛同しているようだ。 「お許しもいただけたみたいね。ふふ、キルシ先生もきっと喜ぶわ。……とはいっても、毎日来るのはできないでしょう? 学校が始まるもの」 「放課後か、それかお休みの日に定期的に来ようかなって」 「そうね、でも無理のない範囲で、ですよ。お勉強や友達と遊ぶのも、あなたたちには必要なことなんですからね?」  そう言って、ドクター・ベネットはにこやかに微笑む。そして、花楓の目を見て言った。 「ちょっとお話があるの。ライサちゃんは先にロビーで待っていてね?」 「話って何?」  ライサが退室し、花楓はひとりで医師ふたりと向き合った。 「大した用ではないの。ただ、キルシ先生のところへ来る時は、必ずわたしたちのどちらかの部屋へ寄って欲しいの」 「はぁ? なんで?」 「ちょっとね、あなたの協力が必要なのよ。キルシ先生のために」  その言葉に、隣にいたドクター・シュトライヒリングの眉がぴくりと動いたが、花楓は気づかなかった。 「へ? どういうこと?」 「病気を治すため、かしらね」  ドクター・ベネットは、さきほどから微笑んだまま、それ以外の表情を一切見せない。 「さっきも言ったけれど、大した用事ではないわ。ただ、血液採取させてちょうだい、というだけのこと。大丈夫よ、痛くない針を使うから」 ●彼女と日々過ごしたい  久々に、仕事の合間を縫って来てくれた両親の笑顔が、さつきにはなんだかひどく懐かしく思えた。 「ちゃんと先生のいうことを聞いて、いい子にしてる?」  お約束の挨拶に、さつきは何度も頷いた。 「もうすぐ手術ね……手術さえ終われば、毎日学校に行けるようになるわ。楽しみね」  髪を撫でる母は、クロワがプレゼントしてくれたリボンを褒めてくれた。 「手術が終わったら、元気になれる?」 「ええ、もちろんよ」  さつきの移植用心臓は、遺伝子チェックと修正作業が終わり、細胞培養が始まっている。この調子でいけば、来月の終わりには手術日のめども立つという。 「元気になったら、どこへ行きたい? どこでも行きたいところへ行きましょう」  その言葉に、さつきはふと考え込んだ。ややあって顔を上げ、両親の顔をまっすぐに見つめた。 「わたし、お医者さんになれるところへ行きたい!」 「え?」 「元気になったらお医者さんになりたいの。だから、お医者さんになれるところへ、勉強ができるところへ行きたい」  さつきの言葉に、両親は顔を見合わせ、目を潤ませた。 「そうね、そう……本当に、行きましょうね」  抱きしめる母の手のぬくもりを感じながら、さつきは決意を固めていた。  わたしはあきらめない。  だから、先生もあきらめないで。  大人になるまで待ってて。  がんばって、早く大人になってみせるから。 ●この音を胸に 新しい世界で 「ああ……キャンプに行けないなんて……」  幸子郎は、その悲しみを電子リコーダーの調べに乗せて、空に届けとばかりに切なげに吹き鳴らした。その笛の音には、空さえも涙したという──。  不意に降った夕暮れ時の雨で、木々の葉にはいくつもの雫が光る。雨は止んだが、相変わらず雲は厚い。この調子では、今夜は晴れないだろう。だが、それもかえって好都合かもしれない。青海は空模様をながめながら、ゆったりとした足取りで、幸子郎が物悲しく笛を奏でる談話室へと歩いていた。  首尾は上々だった。予想していた通り、兄の主治医である岸城朗人はこう尋ねてきた。 「お父さんと、お母さんの許可はもらってるかい?」  青海は何も言わずに頷いた。 「そうか、ならいいんだけど。あまり無理をしないように。夜更かしは禁物。お父さんとお母さんを心配させるようなことはしないようにね?」  青海はふたたび、何も言わずに頷いた。  昨日は、両親にも同じようなことを尋ねられた。 「岸城先生のお許しはいただいているの?」  青海は何も言わずに頷いた。両親は、やはり同じように言った。 「そう、それならいいんだけど。あまり無理をしてはだめだからね。夜更かしもほどほどに。先生にご迷惑をかけないようにね?」  青海は、嘘はついていない。  本当のことを言わなかっただけだ。  幸子郎は、どこかで見たような赤いケープの少女がこちらに向かっているのに気づいた──あれ、誰だっけ? 立ち上がろうとして軽くよろめいた。最近、こんなことが多い。きっとキャンプに行けない悲しみが、体調にも影響してるんだろう。きっとそうだ、ああそうだとも。  少女が、ぽん、と幸子郎の肩を叩いた。その顔は──ああ、そうだ、青海ちゃんだ、いや青葉くんだっけ? 「あのね」  赤いケープの青海は、幸子郎に言った。 「お星様をあげる」  カーテンを締め切り、外からのわずかな明かりも遮断したその部屋には、満天の星空が再現されていた。床に敷きつめた、やわらかなビーズクッションの上で、青海たちは横たわり、思い思いの体勢で星空を見上げている。 「あれは、ソール。一等星といって、とっても明るい星です」  麻里子が指差して説明するその先には、確かにひときわ明るく輝く星があった。  先月、特別夏期講習で使った会議室を借りて、青海は「病院内サマーキャンプ」を開催することにしたのだ。もちろん、そんなことをするには、病院の許可が必要だ。青海は、「何も言わない」ことによって、それを見事に勝ち取ったのだ。青海いわく「勝手に向こうが思っちゃっただけだよ」だが。 「すごい……」 「お星様って作れるんだね……!」  さつきとクロワが寝転がった姿勢のまま、思わず息を呑む。麻里子はその声を聞きながら、嬉しそうに微笑んだ。麻里子は、星が好きだという彼女たち──特にさつき──を元気づけようと、プラネタリウム館に務めるルドヴィカ・ナーゾの協力を得て、自作のプラネタリウムを作って持ってきたのだ。ピンホール式の素朴な作りだったが、プラネタリウムに務めるルドヴィカが指導した(というか、ほぼノリノリで作った)だけあって、出来はかなりのものである。しかも、映しだすのは、サマーキャンプで見た星空を同じもの──麻里子は、病院の中にサマーキャンプの夜空を再現してみせたのだ。  幸子郎も、まばたきするのも惜しいと言わんばかりに、じっと星空を見つめている。 「麻里子ちゃんも、おんなじ空を見たの?」 「ええ、見ました」 「雫ちゃんも?」 「そうよ」 「きれいだった?」 「うん」 「流れ星も見えたのよ」 「そっかぁ……」  幸子郎は、ふと電子リコーダーを手にとった。頭の中で、何かがふわりと浮かんでは消えていき──やがて、それは幸子郎の中で、おぼろげだが確実な存在となっていく。  ああ、そうだ──幸子郎は、リコーダーをそっと吹く。  そう、この感じ。  この景色、あのお星様、サマーキャンプの音。みんなの声、ぼくの声。 「……音楽家ね、幸子郎は」  キルシがそっと呟く。  幸子郎が奏でる、「サマーキャンプのメロディ」が、少年と少女たちのサマーキャンプ会場に静かに響き渡った。  ●私らしく生きて  彼女はそれをじっと眺めていた。  髪の短い少女──のように見える、少年の画像だ。  彼女はそれをじっと眺めている。  その目は一点に定まったまま、動かない。  彼女はそれをじっと眺めていた。  やがて、彼女は画像の中の少年を、そっと指で撫でた。  懐かしい、愛しい何かに触れるような手つきで。 ●Bon Voyage!  夏の終わりに、風が吹いた。  最初に気がついたのは昼寝中の猫だった。ぴんと伸びた自慢のひげが、夏の夕暮れの風で揺れて、猫は目を覚ました。  ぐい、と伸びて、猫は空をふと見上げた。  昼から夕へと陰っていく空の端に、不意に小さな影が浮かぶ。  猫は大きくあくびをして、その影をじっと見ていたが、やがて飽きて、どこかへ行ってしまった。  空に浮かんだ小さな影も、いつの間にか消えていた。   -------------------------------------------------- ■ 登場PC・NPC一覧 -------------------------------------------------- 【PC】 ・御堂花楓 ・陳宝花 ・クロワ・バティーニュ ・衛宮さつき ・ニアシュタイナー・シュトライヒリング ・八代青海 ・楪雫 ・穂刈幸子郎 ・辻風麻里子 ・平谷杏樹 ・黒葛野鶫 【ちょっと出てきたね系PC】 ・水無月千鳥 ・野中永菜 ・ミシェーラ・ベネット ・御手留乃歌 【NPC】 ・キルシ・サロコスキ ・ドクター・ベネット ・ドクター・シュトライヒリング ・ルドヴィカ・ナーゾ ・ライサ・チュルコヴァ 【ちょっと出てきたよ系NPC】 ・ニアシュタイナー・シュトライヒリングの母 ・フェリシテ・サン=ジュスト ・ローマン・ジェフリーズ ・公立図書館の司書さん ・衛宮さつきの両親 ・八代青葉 ・八代青葉・青海の両親 ・岸城朗人 ・黒葛野鶫の母親