-------------------------------------------------- PBeM『VOiCE』第4回リアクション 04-E 空っぽの娘の椅子 -------------------------------------------------- ●La Creation du monde  彼らの決意は固かった。  新しい大地を目指して来たのだから、ここでくじける道理はない。  むしろ、思いもがけずたどり着いた新天地に、運命の導きさえも感じるほどだ。  産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。  海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を全て支配せよ。  古い祝福の言葉のように、彼らはこの地に満ちた。 ●童語 〜 Innocent Dreams  夏期講習も半ばを過ぎ、教室全体の空気もどこかゆるみがちだ。夏の午後は気だるく、風に揺れる葉の音も眠気を誘う音楽のようだ。  シュリー・ジルカは小さくあくびをしながら、図書室へと向かった。学校の授業があった頃と同じように、帰る前に図書室へ向かうのは、シュリーにとってはもう呼吸や睡眠と同じくらいに、自然のことなのかもしれない。  図書室は今日も涼しく、静かにシュリーを迎え入れる。なぜか家に帰ってきたような、そんな気分にさえなる。 「あら、ごきげんよう」  シュリーに気づいたらしく、司書教諭のヴィヴィアン・フェイがにこやかに言う。夏期講習の間も、ずっと図書室で仕事をしているようだ。夏休みってないのかしら、とシュリーはふと心配になる。 「先生、こんにちは」 「今日の夏期講習はどうでした? 暑いから大変でしょう?」  他愛のないおしゃべり。年の離れたふたりだったが、今では姉妹のような雰囲気だ。  不意に会話が途切れ、静けさが戻ってくる。だが、その沈黙もシュリーとヴィヴィアンにとっては、特に不快なものではなかった。シュリーは、天井でゆっくり回るシーリングファンの動きを目で追いながら、言葉をゆっくりつなぎあわせ、整理した。そして、三つ数えてから、口を開く。 「せ、先生」 「どうしました?」 「本って、ずっと残るものなんですね」 「ええ、そうね」  シュリーは先日見た、本の補修作業のことを思い出す。人の手で作られたものは、人の手によって守られ、補われ、伝えられていく。それははるか遠い未来までも残っていくのだろう。 「──先生、わたし、夢ができたんです」 「まあ、素敵! よろしければ、聞かせていただけないかしら?」 「ふふ、先生にだけ、特別に、ですよ」  シュリーが人差し指を唇に当てて、囁くように言うと、ヴィヴィアンもまた悪戯な笑みを浮かべて、同じように人差し指を唇に当てた。 「わたし、物語が書きたいと思うんです。歴史とか、思い出とか、そんなことを残していく仕事がしたいんです。先生みたいな司書なのか、それとも作家なのか、それはまだちゃんと決められてはいないんですけど」  そこまで一気に言うと、シュリーはちらりとヴィヴィアンの目を見る。穏やかにシュリーを見守るような黒い目に、ふと安堵を覚えて、シュリーはまた話しだした。 「誰かの思いを、後世に伝えていく。そういうことが、したいんです。その……だから、今ちょっと、書き始めてみてるところで……」  言葉が薄く消えて行く。 「その、いつできるとか、そういうのもちょっとまだわからないんですけど……か、完成したら、ヴィヴィアン先生に一番に読んでもらいたいんです。感想が、聞きたくて」  シュリーがやっとの思いで話し終えると、ヴィヴィアンはそっとシュリーの銀髪を撫でた。 「なんて素敵な夢なのかしら。ヴィヴィアンが約束しますわ、その夢は必ず叶います」 「……で、でも、その、うまく書けるかどうかわからなくて、その」 「ありのまま、あなたの目に映るとおりに、書いていけばいいのですわ。思いを言葉に変えて、わたくしに話すように書けばいいだけ」  そう言うと、ヴィヴィアンはウィンクしてみせた。その悪戯っぽい仕草を見ると、シュリーはふっと心の重荷が軽くなるような気がした。──ああ、きっとこれが、先生の「魔法」なんだわ。  それから、シュリーは毎日、「物語」を書いている。  王子と、女騎士の物語。    さいはての地で、女騎士は剣を握る。  守るべきものを守るために。  金と銀の鞘が、雪の光を受けて、静かに光った。  彼に代わり、この国をまm ……  >>Delete all  「んー、なんか違うかな……」  書いては消し、消しては書いてを繰り返す。思ったことをそのままに、というのは案外難しい。頭の中に情景が広がっているのに、それを文字に置き換えると途端に陳腐に見えてしまう。  ふと、気配を感じてそっと振り返ると、百日紅メリサが深刻そうな顔をして通りすぎていくところだった。何か悩みでもあるのだろうか、人形のような容貌がかすかに歪んでいる。  ──メリサさんでも、悩むようなことってあるのかしら。  成績優秀で、人形のように綺麗で、洋服もいつも夢みたいに可愛くて。  シュリーから見れば、順風満帆を約束されているように見える。  ──メリサさんだったら、どんな「物語」を書くのかしら。  そう考えると、なんだか少し楽しくなってきた。人それぞれの物語、いつかそれを見ることができたら。シュリーはまた文字を書き進め始めた。 ●華胥の幻 「モイ」 「モイ」  それは、ふたりだけの挨拶だ。エルメル・イコネンは、今日もライサ・チュルコヴァと秘密の挨拶を交わす。  ──ヒチャクシュツシ。  ライサは、この言葉の意味を求めていた。  音の響きだけでは、いまいち意味がわからないと、ライサは悩んでいるようだった。たしかに、エルメルにとっても聞きなれない、妙に堅苦しい言葉のように思える。 「あのさ、この間のことなんだけど」  ライサがどこか遠慮がちに切り出した。その場の勢いとはいえ、さすがに無茶を言い過ぎたか、と思っているのか、いつになくしおらしい。その姿と、普段のギャップに、エルメルは笑ってしまいそうで、必死に冷静なふりをした。 「この間って、言葉の意味調べ?」  ん、とライサは浅く頷いた。 「さすがに悪いかなって思って──」 「いいよ」 「え」  エルメルはライサの目をまっすぐ見て言った──いつの間にか、まっすぐ見られるようになった自分に少し驚きながら。 「いいよ、ボクでよければ。ライサさんの知りたいことだったら、なんでも調べるよ」  あ、なんか後半余計だったかも、と思ったが、口にしてしまったのだからもう取り消せない──だが、当のライサはそこまで深くは受け止めなかったらしく、笑顔でエルメルの手を取ると、ぶんぶん振り回した。 「ありがとう! すごく助かるわ!」  そう言うと、ライサは次の約束──キルシ先生のお見舞いに皆で連れ立って行くらしい──の待ち合わせで、校門まで行くという。 「そうだわ、エルメルも来る? 先生も喜ぶわよ」 「あ、いや……ボクもちょっと用事があって」 「そっかぁ。じゃあまた今度ね」  ライサは残念そうだったが、じゃあねと手を振って去っていった。  用事なんてなかった。  ライサとはいたいが、他の誰かと一緒では嫌だ。  ──あれ? なんでそんな風に思うんだろ?  エルメルは、図書室を出て昇降口へ向かいながら、自問自答する──自分でもよくわかんないや。 ●薔薇紅茶館 〜 Rose tea  薔薇の葉が、ふわりと風に触れる。しっとりとした重みのある花びらを、皆藤華名はそっと撫でる。まだ朝露が乾ききっていないのだろうか、ひやりと冷たい。人間にとっては楽しい夏も、薔薇にとっては過酷な季節だ。この時期にきちんと手入れをしてやらないと、秋の開花に悪影響をおよぼすのだ。だが、見たところ、この庭にはそういった心配は不要のようだった。 「さすが、オーガスタ殿の庭であるな」  華名はぐるりを周りを見渡す。黒髪がその動きに合わせて、円環を描いた。  オーガスタ・ジェフリーズの庭は、華名の目から見ても十分な手入れと愛情が行き届いているように見えた。 「おまたせしてしまったわね、ごめんなさいね」  声に振り向くと、オーガスタがこちらへ向かってくるところだった。いつもは品のいいロングスカートだが、今日は動きやすさを優先したのか、洗いざらしのジーンズ姿だ。おそらく庭仕事の時にいつも着ているのだろう。普段の雰囲気からは想像もつかないが、どこか板についている。 「構わぬ、誘ったのは私の方じゃからな」 「では参りましょうか」 「うむ」  華名は恭しく、オーガスタの手を取ると一礼した。    毎週土曜日に開催される薔薇の講習会──華名は最年少の常連だ。今日は、オーガスタも誘ってやってきたのだ。講習参加者はみな年上で──それもはるかに年上で──華名は見た目だけなら、まるで孫のような存在だった。しかし、ここでは年齢や見た目よりも、薔薇の知識と手入れの技術、そして薔薇への愛情こそが価値基準だ。そういう意味では、華名にとっては同年代の子どもが集まる学校よりも、過ごしやすい場所だった。 「土曜日だけといわず、毎日やればよいものを」  そう言って、華名は口を尖らす。その様だけ見れば、歳相応の少女でしかなかった。 「ふふ、でも学校の勉強も大事ですよ。ひとつのことを本当に深く知るためには、まわりみちのように見える道を歩くことも必要なのよ」 「うむ……薔薇の道も一歩から、薔薇に王道なし、であるな」 「ええ。華名ちゃんは、本当に薔薇の道理がよくわかっているわ。見習わなくてはね」  オーガスタはどこか嬉しそうに微笑む。華名は、オーガスタを見上げて言った。 「どうじゃ、この後、お茶でもせぬか。予定がなければ、でよいのだが」 「あら嬉しいわ。ぜひご一緒に。そうそう、この間、薔薇の花びらのジャムを作ったのよ。スコーンと一緒にいただきましょう」 「おお、それはよいな!」  祖母と孫のように見える──しかし、実際にはふたりは「同志」だ──ふたりは、連れ立って歩いて行く。薔薇の香りを楽しむように。 ●ヴォヤージュXXXX  西藤はるせは、ベッドに寝転がるとラジオアプリを立ち上げた。映像がないなんてつまらない、と思っていたけれど、意外とそうでもない。音だけの方が、頭の中で映像を自由に想像できて、けっこう楽しいのだと、最近思うようになってきた。  ──ご先祖様に比べたらさ、ぼくらの引越しなんて、ほんのちょっと、近所まで歩いていったようなものだね。  聞き慣れた、山野ニコ=トポの声が聞こえた。ラジオを通して聞くニコ=トポの声は、実際に会うよりもはるかに元気そうで、はるせはなんだかそれが嬉しい。ルン=ペルという友達は、最近あまりラジオには出演してくれないらしく、もっぱらニコ=トポがひとりで話している。だが、ひとりで誰かに向かって話ができるというのは、そう簡単なことではない。なんといっても緊張する。はるせも、ディベートの授業で、発表するときは足が震えて、逃げ出したくなる(実際逃げてみたこともある)。それなのに、ニコ=トポは堂々と臆することなく話している。 「すごいなぁ」  ──遠くに行きたかったら、行っちゃっていいんだ。行きたいところがあるなら、行けばいいんだ。そうでしょ? 「そうそう!」  ニコ=トポの言葉に、はるせは何度も深く頷いた。はるせは、メッセージラインで、ふたり──ニコ=トポとジャンゴ・リーボリックにメッセージを送信する。ルン=ペルはアカウントがわからないので、ニコ=トポ経由で伝えてもらえばいいだろう。  ──行こうよ、遠くへ! 行けるからさ! ●お菓子が降りてくる 〜 Make a candy  リビングの白いカーテンが、夏の風を受けてふわりと膨らんだ。太陽の香りが部屋に満ちる。そろそろ今日の分のおやつでも作ろうか、今日も暑いから、冷たいゼリーにしましょう──そう思いながら椅子から立ち上がり、ふと考える。あの子は、鈴夏はお菓子をちゃんと届けられたかしら?  瀬木戸鈴夏は、その施設の前に立っていた。  ふたつの丘の港。  水素製造工場を行き来する輸送船が駐留する、ふたつの丘唯一の港湾施設だ。  見上げるそれは、潮風のせいだろうか、それほど古いようではないのに錆び付いている。それほど遠くない距離から、波の音が聞こえてくる。鈴夏は、家から持ってきた袋の取っ手をぎゅっと力を入れて持ち直した。 「どこか、入れる場所はっと……」  きょろきょろと辺りを見回すと、作業員専用入り口と書かれた扉が見つかった。おそらくここ──港湾で働く人々のためのものだろう。どうやらセキュリティロックがかかっているらしく、押しても引いても開かない。 「ぐぬぬ」 「何やってんだぁ?」  見れば、ここで働いているのだろう、真っ黒に日焼けした作業服の男が数人、こちらを見ていた。これから仕事なのだろうか。 「げ」  目当ての人物には相違ないが、さすがに今の行動は怪しかったかもしれない。 「なんだ、弁当でも持ってきたんか?」 「おーい、どっかの娘さんが来てるぞー」 「あ、あ、あ、あ、いや違うんです!」 「違うの?」  とっさに否定したものの、じゃあなんだと言われると、その、なんだ、困る。 「えーっと、その、アレです。お菓子の差し入れに来ましたァ!」  間違ってはいない。が、作業服の男たちは不思議そうに顔を見合わせる。 「差し入れって……誰に?」 「えー……っと、その、みんなに」 「はぁ……」 「じゃ、じゃあ、遠慮なく……でいいの?」 「いいんですッ!」  鈴夏がぐいと差し出す袋を、おずおずと男のひとりが代表して受け取った。 「なんか、その、よくわかんないけど、ありがとう」 「どういたしまして」  鈴夏が母に教わって焼いたマフィンが、たしかに彼らの手に渡ったのを見て、鈴夏は思った。  ──第一関門、突破! ●約束の報い 〜 Imperishable Promise  エルメルは迷っている。答えを言うべきかどうかを。  言葉の意味を調べること自体は、エルメルにとってはさほど難しい作業ではなかった。複数の辞書ツールを並行して、難しい言葉が出てきたら、またそれを調べて、の繰り返し──多少時間はかかったものの、いずれは必ず答えを見つけられるものだ。  だからこそ、エルメルは悩んだ。ライサも、自分と同様に、いつかはこの言葉の意味を知るだろう。だが、自分を頼ってくれたのだから、それに応えるべきなのだ。それが、ライサにとってあまりいい意味を持たないとしても。 「わかったの!」  ライサが嬉しそうに言った。その言葉と表情がエルメルの胸に突き刺さる。一生抜けない棘かもしれない。 「すごい、さすがね! 難しい言葉ばっかり出てきて、いっつも途中で嫌になってたの」 「そう……」  エルメルはそっと目を伏せた。そう、嫌になるけれど、いつかは辿りつけてしまうんだ。 「で、どういう意味だったの」 「……非嫡出子」  少しだけ間をおいて、エルメルは言った。いつか知ってしまうなら。 「結婚をしていない男女の間に生まれた子、のこと」  エルメルは息を吸って、吐いて、言葉を続けた。 「ちゃんと結婚してない、人の間で生まれた子。ライサさんは、お母さんのことは話したけど、お父さんのことは一度も話してない。それは……ライサさんには、お父さんがいないんから、だよね?」  しん、と沈黙が降り積もる。いつもと変わらない図書室のはずなのに、エルメルとライサが立っているここだけ、まるで深海のように暗く静かで、いきものの温かな気配が消え失せてしまったかのようだった。 「……なんとなく、わかってたんだ」  ライサがようやく言った。 「なんとなく、そうじゃないかって。お父さんがいないのは、死んだとか別れたとかじゃなくて……そういうのじゃなくて……」  ぽたり、と音がした。ライサのスカートに、水滴がひとしずく──すぐに布に吸収されて、ちいさなシミに変わった。 「ライサさん」  エルメルは言った。 「ライサさんは、ライサさんだよ。ボクには、それで十分なんだ」  ライサはじっとエルメルを見つめた。ぽたりと、涙がひとしずく。エルメルはそれをそっと指でぬぐう。それきり、ライサの涙は流れなかった。 ●微睡み裁判 〜 猫の寝床弄びし少女  猫には縄張りが必要だ。そしてそれを拡張していくのは、もはや雄にとっては宿命といってもいい。力の誇示とは存在の誇示であり、存在を主張するためには時として戦わねばならないこともあるだろう。 「よかろう、受けて立つ」  猫──白戸さぎりは、世界に宣告した。戦いの始まりである。  場所はすんなり決まった。校舎裏の雑木林だ。あまり人も来ないし、木々の葉は夏の日差しを和らげてくれる。何かあっても、塀さえ乗り越えればすぐ逃げ出せるだろう。校舎まで戻れば水飲み場もある。昼寝するには最適の場所だった。 「ここはぼくの場所だ! つまり、ぼく自身! はーはっはっはっ!」  声高らかに宣言すると、さぎりは早速、寝床の準備にとりかかった。  当初は枯れ葉や適当な素材を集めて、地面にベッドを作ろうと思っていたが、思いのほかゴツゴツしていて、寝心地が悪そうだった。木々の根が隆起し、枕にできそうだが、いかんせん硬すぎた。さぎりは路線変更し、地面がダメなら空があるさとばかりに、木々の間にハンモックを取り付けることにした。家から持ってきた古いハンモックは、さぎりが幼い頃に庭で使っていたものだ。しばらく使っていなかったが、強度も状態も申し分なかった。 「飽きたんじゃないんだ。しばらく使わなかっただけで」  そうひとりごとを言いながら、さぎりは慣れた手つきでハンモックをくくりつける。額ににじむ汗を手の甲で拭い、ふと空を見上げる。葉の隙間からは、ほどよく太陽の日差しが差し込んでいる。直射日光がうまく遮られているため、思っていた以上に過ごしやすそうだ。とはいえ、突然の雨を防いでくれるほどの密集度ではない。しばらく考え込んださぎりは、校舎の昇降口へと向かった。 「よしよし、あったぞ。まったく、この世界は猫に優しくできているな! いや、この世界は猫のためにあるんだったな、うっかりうっかり☆」  さぎりのお目当ては、忘れ去られた傘だった。置き傘というにはあまりに長く放置され、新学期の前にはおそらく処分されてしまうだろう。持ち主にさえも忘れられた存在が、さぎりの手によって新たに命を吹き込まれるのだ。ちょっと取っ手が埃っぽいけど。 「はーはっはっはっ! ぼくの傘として転生する許可を与えよう」  めぼしいものを何本か見繕うと、さぎりは先生に見つからないうちに、足早に雑木林へと戻った。ここまで材料が揃えば、あとは完成したも同然だ。ロープで傘をくくりつけ、位置を調整する。 「うむ!」  さぎりは満足気にうなずくと、ハンモックに身を任せた。ゆらり、と揺れるが、その揺れも眠りを誘う心地良いリズムだ。  ──ぼくのにおいがする、ぼくだけの場所。  ああ、それはなんて甘美な響きなのだろう!  ここはぼくの場所だ。  ぼくはここにいる。  ここにぼくはいる。  ぼくはここだ。  ここはぼくだ。  ぼくは──  夏の光と風が、さぎりをまどろみの海へと連れて行く。  行きつ戻りつ、眠りという名の波間にて、猫はたゆたい、されど沈まず。  遊びをせんとや生れけむ。戯れせんとや生れけん。眠る子猫の寝息をきけば、我が身さえこそ動がるれ──  ぱきり  ──乾いた音がした。  さぎりの体は、本能的に反応する。誰か来た。それも自分と同じか、あるいは少し小さい程度の大きさの。  さぎりは寝返りを打ちかけた身を、がばりと起こす。反動でハンモックが揺れたが慣れたもので、バランスを上手く保って身を起こした。 「な、なんだよ。ぼくは寝ているんだぞ! 寝ている猫を起こすのは、人類の十戒に抵触する罪深い行為と知り給え! 汝、猫を起こすなかれ! 見守れ! 慈しめ!」  寝ている猫を起こすとは、なんと不遜な輩だろう! 未来永劫、呪われるがいい!   ところが、相手はさぎりの言葉を聞いても、恐れをなすどころか、むしろ笑ってみせた。 「あー」  その少女──クラスメートの水無月千鳥の顔に、笑みが広がるのを、さぎりは確かに見た。と同時に、千鳥が軽やかなステップを踏み、飛び上がった瞬間も。千鳥はそばにあった木を勢いよく蹴り飛ばし、その反動を使って高らかに宙へ舞う。 「えっ」  ちょっと待ってどういうことなの。  驚いた猫が、危険が目の前に迫っているにもかかわらず、その場で思わず硬直してしまうように、この時のさぎりもまた、不運にも思わず身をこわばらせてしまった。 「猫さーんだーッ!!」  上空から迫る満面の笑みと、風を受けてふわりと広がるスカート──スローモーションで、それはさぎりへと近づき、そして。 「ふぎゅぅッ」 * * * 「お昼寝っていいよねー」  ご機嫌全開の千鳥の声に対して、さぎりは憮然とした表情のままだ。  さぎりは、さきほどまで気持ちよく寝ていたハンモックの上で、あぐらをかいている。その隣では、千鳥がにこにこと笑っている。本来ひとり用のハンモックに二人で座っているのには、かなり無理があったが、揺れる様がブランコのようだと、千鳥は笑って一向に降りてくれる気配がない。というか降りない。結局、かれこれ小一時間は、こうして二人でハンモックに揺られている。どうしてこうなった。 「あのね、幽霊さんに連れて行ってもらおうとしたら、さぎりくんがいてね。だからぽーんって」 「飛んだのか」 「飛んだよ」 「なぜそこで飛ぶのか」 「飛べるからだよ」 「飛べると飛ぶのか」 「飛べると飛ぶでしょ?」  禅問答のような会話は、夕暮れの風が空腹を思い出させるまで続いたという。合掌。 ●物語と現の境界  サマーキャンプは、いつもあっという間に始まって、あっという間に終わっていく気がする。  楽しい時は飛ぶように過ぎていき、あとに残るのは思い出と、少しの疲労感。  だが、シュリー・ジルカにとって、今年のサマーキャンプはいつもと違った。  目に映るすべてを、文字として書き残したい。現実の姿を、物語へと生まれ変わらせ、残したい。  司書教諭のヴィヴィアンに言われた言葉を思い出す。  ──ありのまま、あなたの目に映るとおりに、書いていけばいいのですわ。  だから、シュリーはありのまま、夏の青々とした木々の葉を、夏の日差しを、水の冷たさを、友達の笑顔を、書き起こしていく。  シュリーの目に映る、そのままの姿を。  シュリーが感じた、感情をそのままに。    木陰のベンチに座って、風を頬に感じながら、シュリーは一息ついた。明日はいよいよ最終日だ。クラスの女子たちは、明日の飯盒炊爨のことで、今から盛り上がっている。野中永菜は事前にレシピを調べてきたというし、委員長こと御手留乃歌は相変わらずの行動力でみんなをサポートしてくれるようだ。  シュリーは、ふと自分のタブレット画面を見やる。  今書いているものは、シュリーが夢見る物語とは程遠い、習作とも呼べないレベルなのは、シュリー自身もよく分かっている──何せ、ありのままを、ただ必死に書き残しているだけなのだから。  だが、ここにある文章は、すべてシュリーが見たもの、聞いたもの、感じたものだ。普段なら気にも留めない、記憶の片隅にすら引っかからないような、他愛ないおしゃべりも、今のシュリーにとってはかけがえのないもののように思えた。 「書き始めたおかげ、なのかしら……」  ただ残すだけなら、写真にでも撮るのがいいだろう。その場の雰囲気を、そのまま切り取って置いておける。だが、自らの手と頭を通して、風景を記録に変換していくと、その風景は記憶となってシュリーの中に確実に蓄積されていくような気がした。  ──いつか、この日のことが、わたしの物語の糧となるのかしら?  それがいつになるのかは、シュリーにはわからない。  だが、その日がいつか必ず来るように、他ならぬシュリー自身が引き寄せ、たぐり寄せるべきなのだろう。  風は夕暮れの香りがした。  この風さえも、シュリーには糧なのだ。いつかきっと生まれる、シュリーの物語のために。 ●冒険機械 〜 Phantom Adventure 「凛太郎ー! おーそーいー!」 「呼び捨てかー!」  もはや定例の挨拶になってきている、はるせと望月凛太郎のやり取りを、ニコ=トポは鉱石ラジオを片手に見ていた。なんか、楽しい、かも。いや、楽しい。 「凛太郎、遅いよー」 「ジャンゴ、お前もか……!」  リュックサックを背に、出発を今か今かと待っていたジャンゴ・リーボリックの言葉に、凛太郎はがくりと膝をついた。その姿勢のまま、ニコ=トポを見上げて言う。 「ニコ=トポくんから、はるせさんとジャンゴくんに言ってやってくれませんか。年長者に対する礼儀とか、そんなようなことを」 「ん……特に、ない。です」 「そうですか……」 「ほらほらー早くー」  そう言って、はるせは凛太郎の腕をぎりりと引っ張った。 「あーはいはい」  ニコ=トポは、空を見上げた。真っ青な空には雲ひとつなく、太陽は今日も眩しい。  ──今日は絶好の冒険日和だよ、ルン=ペル!  ニコ=トポいわく、「河もどきの森」を、四人でひたすら歩いて行く。古い映画みたいだ、と凛太郎が呟いた。  ふたつの丘の西にある、深くえぐれたような大地と、森。たしかに、河のように、はるか遠くへと流れているようにも見える。  水筒には冷たい水、はるせが背負ったリュックには四人分のお弁当が入っている。はるせは、かぶっている帽子のつばを動かしながら、言った。 「大冒険にはね、おべんとなんだって」 「そうなの?」 「うん、パパが言ってた」 「中身はなに?」 「知らなーい」 「知らないんか!」  ツッコミ担当になりつつある凛太郎は、十歳の子どもたちの歩幅に合わせてゆっくり歩く。ああ、昔は自分も、こんなくらいしか歩けなかったんだっけ。そう思うと、ニコ=トポやはるせ、ジャンゴたちの行動力が信じられないほどたくましいものに思えた。十歳の頃、となり町まで歩いてみようなんて、思っただろうか?  歩きながら、不意にくるりとはるせが身を翻して、ジャンゴに言った。 「ジェシーちゃんたちとサマーキャンプでナイトトークしたんでしょ? どんな話したの?」 「えっ、なんで知ってるの!?」 「ふふふ、おんなのこはねー、なんでも知ってるんだよー」 「お、おんなのここわい!」 「末恐ろしいよ……」 「ねーねー、なんのお話したの?」  はるせの無邪気な催促に観念したのか、ジャンゴはぽつりと話しだした。 「魔女にね、占ってもらったんだ。ボクが立派な探検家になれるかどうか」 「で、どうだったの?」  ジャンゴは満面の笑みで答えた。 「なれるって! ボクの行く先にはインジャと神さまの導きがあるから大丈夫だって! インジャはね、引退した冒険家で、でもボクたちみたいな冒険家のために道を明かりで照らしてくれるんだって」 「うわぁ、インジャって超いい人ー」 「いい人だよねー」  ふたりの会話を聞いていた凛太郎が、ニコ=トポにそっと耳打ちする。 「魔女ってなに? そういうのがクラスにいるの?」  ニコ=トポは、うん、と小さく頷いた。 「い、今の学校ってすごいんだな……」  はるせは違和感を感じながら歩いていた。天気はいい。最高の冒険日和だ。お弁当も美味しかった。ジャンゴもニコ=トポも凛太郎もいる(残念ながら、今日はルン=ペルはいないらしい)。それなのに、何かが違う。何かがいつもと違う── 「あっ!」  唐突に気づいた。 「え、なに!?」  隣を歩いていた凛太郎が、はるせの突然の声に思わず立ち止まる。 「おねえちゃん!」 「はい?」 「どうしよう、おねえちゃんがね、「ぱ」しか言わない!」 「……はい?」  はるせは気づいてしまった。これまでなら、ぱかぱかと、歩く度に一緒に歌ってくれたおねえちゃんの赤い靴が、今日は「ぱ」までしか歌ってくれない。いつからこうなってしまったんだろう。 「おねえちゃん、具合が悪いのかな?」  ジャンゴが心配そうに、はるせの足元を見つめる。 「いつもはね、ぱかぱかって、歌ってくれたのに……」 「……調子が出ないときだって、あるよ」  凛太郎はそう言って、そっとはるせの頭を撫でた。口にしかけた言葉は、ぐっと飲み込んだ。  ──おねえちゃんとは、そろそろお別れなんだよ。君は大きくなっていくから。おねえちゃんとは、お別れなんだ。  河のように続く森は、森の中に入ろうとしなければ、意外と「気軽な冒険」には向いていた。森に沿うように、古い道があったからだ。舗装はだいぶ前にされたものらしく、ところどころ穴も開いていた。おそらくは、昔作られた輸送用の道路なのだろう。今では鉄道もあるし、他に道もできているから、わざわざここを通る車両も人もなく、このまま忘れ去られていくのだろう──時折、ジャンゴたちのように冒険にやってくる子どもたちの歩く音が響く程度で。 「おわー、今度はでっかいよ!」 「見てみて、おっきい石!」  そろそろ日が傾きつつある。凛太郎はそっとモバイルで位置と時間を確認した──子どもたちの歩く速度や疲れ、帰路の長さを考えると、そろそろ戻った方がいいだろう。 「ねえ、そろそろ……」 「りーんたろーーーーっ!」 「呼び捨てかっ!」  反射的に言ってから、凛太郎は自分を必死に手招きする子どもたちの姿に気づく。 「あれ何ー?」  ジャンゴが指差したその先には、木々の間に見え隠れする、崩れかけた壁のようなものがあった。   ●潮騒の槭樹 〜 Eternal Dream 「おお、また来たのかい?」  笑顔で迎えてくれるのは、いつもの港湾作業員たちだ。タオルで何度も顔をぬぐい、にかっと笑ってみせる。 「港好きなのか?」 「あれだろ、船舶燃えってやつだな」 「おお、将来有望だな!」 「いいぞ、その調子ででっかくなれよ」  口々に言いながら、鈴夏の頭をぽんと撫でる。手作りのお菓子──今日はクッキーだ──を手渡すと、嬉しそうに顔をほころばせる。 「嬉しいなぁ、うちの母ちゃんもうこんなの作ってくれねぇし」 「おめぇんとこは娘がいるだろ。そっちに期待だな」 「どうだかなぁ……最近お父さんあっち行ってとか言われるし……」 「あー泣くな泣くな」  鈴夏が見ていることに気づくと、ひとりが苦笑しながら言った。 「ま、危ないところには行くなよ」  それだけで、ここまでやってくることには、おとがめなしだ。ある意味、信頼されているのかもしれない。  鈴夏は、港湾施設沿いの歩道をゆっくり歩いた。じりじりと夏の太陽が照りつけるが、日陰になりそうなものはない。潮騒の香りは濃く、強化岸壁には波がぶつかっては消えていった。波の音がこんなにするのに、なぜか静かに思えてしまう。 「危ないところには行くなって言われたけどさー」  鈴夏は汗をハンカチで拭いながら呟いた──行けっこないじゃん、こんなんじゃ。  危険な場所にこそ、夢と希望と未知なる答えがある。あるに違いない。そうは思っても、目の前に立ちはだかる厳重な扉に、鈴夏は深くため息をついた。何重にもまかれた鎖に、おそらく生体認証付きだろうセキュリティロック。がんばればよじ登れないこともないかもしれないが、壁の向こうに行く前に警備員あたりに首根っこ掴まれるのがオチだろう。この向こうには、きっと船があるのだろう。他の街から来た船か、あるいは水素製造工場からだろうか。 「しょーがないなー」  くるり、と反転。元来た道をゆっくり帰る。と、見せかけて、なんとなく横道に入ってみる。とはいえ、立ち並ぶ倉庫群くらいしか見るものはない。やはり、港あたりまで戻っていこうか。 「ほいほい、迷子ちゃんかね」 「ん?」  振り向くと、白髪の警備員が手招きしていた。鈴夏が自分のことか、と指で自身を指すと、警備員は三回ほど頷いた。 「ほいほい、熱中症になったらオオゴトだ。おいで」  そう言って、見るからに冷たそうなジュースのボトルをちらつかせる──ひ、卑怯なり! 「言っとくけど、ジュースに釣られたわけじゃないから」 「ほいほい」  ジュースを飲みながら、鈴夏は自分の立場を改めて主張する。決して、断じて、ジュースに釣られたわけじゃありませんのだ。 「迷子のお嬢ちゃんは、船が好きなんかね?」 「んー、好きというか、乗りたいなって」 「ほいほい。そうか、そりゃいいな」 「船だったらさ、他の街まで行けるじゃん?」 「行けちゃうねぇ」 「ずーっと遠くまでだって行けるじゃん?」 「行けちゃうねぇ」 「そんでもってさ、海からふたつの丘だって見えちゃうじゃん?」 「見えちゃうねぇ」 「見てみたいと思ってさ」 「なるほどねぇ」 「他の街とか、他の場所から来る人は、海から見たふたつの丘を知ってるんでしょ? それってズルいじゃん」 「ズルいねぇ」 「ズルいよねー」 「ズルいねぇ」  警備員は、お茶でもすするようにして、ジュースを飲んだ。 「どうしたら船に乗れる?」 「んー。今のところ観光船は運行してないからなー。ほら、水素工場があるだろ? 万が一があっちゃいけないってんでねぇ」 「えー何それズルい」 「ズルいねぇ」  鈴夏はジュースを一口飲んで、考える。どうやったら、海へ出られるだろう? ●花違未来世紀  暑い季節だからこそ、あえて熱い紅茶を。そう言ったのは、華名だった。 「冷たいものもよいがな、そればかりでは体が冷えてしまう」  ジャムをそっと溶かして、銀のスプーンでかき混ぜると、紅茶のカップの中でゆるやかに薔薇の花びらが舞った。  今日は土曜日──薔薇講習会の帰りに、華名はオーガスタの庭園へ寄っていた。もう毎週の定例行事のようなもので、たまにローマン・ジェフリーズと会うこともあった。会えばお茶に誘ってみるのだが、いまのところすべて断られていた。 「あの子は薔薇には興味がないのよ、男の子だから」  そう言って、オーガスタは少し寂しそうに笑う。 「となると……この庭園は、」  そこまで言いかけて、華名は口をつぐんだ。しかし、オーガスタにはその言葉のあとに続くものがわかったのだろう。微笑んで、何気ない調子で言った。 「ええ、そうね……わたくしが死ねば、この庭もおしまい。あの子は、薔薇を継ぐ気はないでしょうから」  薔薇よりももっと、育てなくてはいけないものがあるしね──そう言って、オーガスタは笑って見せた。  華名は、紅茶のカップをじっと見つめた。紅いお茶の中で、薔薇の花びらがゆっくりと沈んでいくのを、ただ見守っていた。 「夢を」  花びらが沈みきったのを見て、華名は口を開いた。 「夢を見たのじゃ。遠い昔、私が生まれるもっと前の、夢を」  オーガスタはかすかに首を傾げた。特に何も言ってこないので、華名はぽつりぽつりと言葉をつないでいく。 「遠い昔、気の遠くなるような昔、ご先祖様は生きたいと思う気持ちを、その力を信じるのをやめた。生きたいと願ったところで、何も叶わぬ、何も変わらぬ、と。病にかかれば薬に頼り、薬がだめなら手術した。生きたいと願う声には耳を貸さず、薬も手術も効かぬ、これ以上は無理だと判断すれば……死なせた」  そういう世界の夢を見たのじゃ、と華名は囁くように言った。 「この薔薇を見ておくれ」  そう言うと、華名はそっとモバイルの画面に薔薇の画像を映しだした。 「まあ、かわいそうに……」  オーガスタが悲しそうに言った。それもそうだろう、画面に映る薔薇は、黒点病と呼ばれる病にかかり、ぼろぼろになっていたのだから。 「それがな、そうでもないのじゃ。……私も一時は諦めかけた。オーガスタ殿も知っておろう? 黒点病の病菌の殺菌剤感受性は、最初の九十時間しかない、と。この時、私が気づくのがもっと早ければ、あるいはこうはならなかったかもしれぬ。しかし、だ。薔薇は蘇った。葉はすべて落ち、枝も強剪定せねばならなかった。だが、薔薇は芽を出した。生きようとしていたのじゃ。私が諦めても、この子は諦めておらぬ。そう気づいたとき、私も諦めるのをやめたのじゃ」  華名は、少し冷めてしまった紅茶を一口飲んだ。 「諦めるのをやめる──それは、生きようとするということじゃ。生きたいと、生きてこの先が見たいと願うことじゃ。生きたいと願った薔薇が、私に教えてくれたのじゃ。生きたいと願う力は、何よりも強い、と。それは、薔薇も、人も、変わらぬ。根源的な、いのちとしての力だと」  華名はそこまで言って、ふと我に返ったように、照れくさそうに笑った。 「ふふ、なぜこんな話をしてしまったのじゃろうな……なぜか、オーガスタ殿には話したかったのじゃ。薔薇愛でる貴殿になら、伝わるかもしれぬと思ってな」  見れば、オーガスタは神妙な面持ちだった。紅茶のカップを持ち上げ、しかし口にはつけず、ソーサーに戻した。 「そう……ね。薔薇が諦めていないのなら……わたくしたちが諦める義理も道理もないはずだわ」  なぜならわたくしたちは薔薇を愛してるから──そう言うと、ようやくオーガスタは静かに笑った。 ●禁じざるをえない出会い 「ライサ・チュルコヴァちゃんって知ってるかな?」  エルメルは、その声ではなく、その声に含まれた名前にだけ反応して、思わず立ち止まった。たぶん、それが運の尽きだった。  校門から出たところに、その男は傾きはじめた日を受けながら立っていた。  首からカードのようなものをぶら下げた、その見知らぬ男は、エルメルと目線を合わせるつもりなのか、腰をかがめた。 「知ってるかな、ライサ・チュルコヴァちゃんって子なんだけど」 「……えっと」  どう応えたものか、エルメルは悩む。知っている。当然のことながら知っている。だが、目の前のこの男にそう言っていいものだろうか? 「どうしたの?」 「おっ」  エルメルが振り向いたのと、男がその声に気づいたのは、ほぼ同時だった。エルメルは、嫌な予感がした──というよりも、嫌な予感しかしない。  「エルメルの知合い?」  ライサが、エルメルと男を交互に見やるが、エルメルの表情がこわばっているのを見て、やや眉をしかめた。 「ライサ・チュルコヴァちゃん、だよね。お母さんの名前はスヴェトラーナ・チュルコヴァ。だよね?」 「そう、ですけど……」  警戒するように、ライサが男を睨みつける。エルメルは、ライサの母の名を初めて知ったとぼんやり思った。男は笑顔のまま、ライサの睨む目など一向に気にする様子もない。 「お父さんの名前は、アレクシス・ローゼンハイム」 「えっ?」  ライサが弾かれたように男を見上げた。エルメルは思わずライサの顔を見やった。その視線に気づいたのか、ライサは不安そうに、エルメルを見返してくる──その顔は、「知ってる?」と問いかけているが、エルメルにはゆるゆると首を左右に振ることしかできなかった。 「なるほどなるほどねー。んー、わ・か・り・ま・し・た、っと。学校帰りに悪かったねー。じゃ、おじさんまた来るから。っと、名刺渡しとくから、お母さんにもよろしくね」  そう言って、男は薄いカード状のものをライサの手に押し付け、そのまま何事もなかったかのようにふらりと立ち去っていった。 ●街行く記者の不思議な毎日 「そうそう、娘の方には会えましたよ。母親の方は、さーすがにガードが固いッスわ」  男はまいったと言わんばかりに、頭をがりがり掻いた。 「あー、いやぁ俺だって報道許可証(プレスコード)没収は避けたいッスからねー。何しに来たんだってことになったら、デスクにきゅっと締められちまう」  首から下げたカード──報道許可証(プレスコード)は、男にとってはなくてはならないものだ。これがあるから、どうにかこうにか食っていけるのだ。 「ナーゾ議員がいない間にカタつけたいとは思ったんですけどねー。ま、気長にやりますわー。子どもの相手ってのは、大人相手と同じってわけにゃあいかないし……じゃ、そんなわけで」 ●Bon Voyage!  夏の終わりに、風が吹いた。  最初に気がついたのは昼寝中の猫だった。ぴんと伸びた自慢のひげが、夏の夕暮れの風で揺れて、猫は目を覚ました。  ぐい、と伸びて、猫は空をふと見上げた。  昼から夕へと陰っていく空の端に、不意に小さな影が浮かぶ。  猫は大きくあくびをして、その影をじっと見ていたが、やがて飽きて、どこかへ行ってしまった。  空に浮かんだ小さな影も、いつの間にか消えていた。   -------------------------------------------------- ■ 登場PC・NPC一覧 -------------------------------------------------- 【PC】 ・シュリー・ジルカ ・エルメル・イコネン ・皆藤華名 ・西藤はるせ ・山野ニコ=トポ ・ジャンゴ・リーボリック ・瀬木戸鈴夏 ・白戸さぎり ・水無月千鳥 【ちらっといましたね系PC】 ・百日紅メリサ ・野中永菜 ・御手留乃歌 【NPC】 ・ヴィヴィアン・フェイ ・ライサ・チュルコヴァ ・オーガスタ・ジェフリーズ ・望月凛太郎 ・記者 【なんかいたよね系NPC】 ・港湾作業員の皆さん ・白髪の警備員 ・スヴェトラーナ・チュルコヴァ ・アレクシス・ローゼンハイム ・ナーゾ議員