-------------------------------------------------- PBeM『VOiCE』第5回リアクション 05-B 命に時間を -------------------------------------------------- ●新学期初期値  校門を並んでくぐる新入生たちの姿を、ニアシュタイナー・シュトライヒリングは、教室の窓から眺めていた。まるで、雛鳥の行進だ。自分たちも、まちがいなくあれくらい幼かったはずなのだが、実感がわかない。思い出せないと言うべきか。  入学式が終わり、学校はいっそうにぎやかになった。廊下を走る新入生を注意するのは、去年同じように廊下を走り回っていた二年生だ。  授業の開始を告げるベルの音を聞きながら、ニアシュタイナーは昨日夜遅くまで考えていたテキストデータを呼び出す──これから始まる授業とはまったく関係ない内容だ。そこにはいくつかの施設の所在地と連絡先が書かれていた。放課後になったら、このリストの上から順番に、連絡を取ってみるつもりだ。これまで興味も持たなかった施設だけに、まずどうやって連絡を取るべきなのか、そこからまずつまずきかけたが、「とりあえずやってみる」ことにしたのだ。  変わったな、とニアシュタイナーは思う。  今までであれば、こんな風に行動することなど、きっとなかっただろう。どういう心境の変化か、あるいは周囲からの影響か──いくつか思い浮かぶ顔の中に、アレクセイ・アレンスキーの顔を見つけた瞬間、なぜか頬が熱くなるのを感じた。  高齢者養護施設──ニアシュタイナーの作ったリストには、ふたつの丘にいくつかあるそれらが記載されていた。  新学期が始まってしばらくは、授業の進行も比較的ゆったりしている。宿題もさほど多くなく、どこかふわふわした、浮き足立つような空気が放課後の教室には満ちていた。 「ねえ、今日はどこへ行く?」 「新入生の子も誘ってあげようヨ」 「お菓子は僕たちのおごりかなぁ?」 「そりゃあ、たぶん、センパイ、だし」 「うー」  クラスメートたちの会話を聞きながら、御堂花楓は教室を出た。足早に校舎を抜け出すと、校庭の片隅にいつの間にかできていたという薔薇園の茂みにそっと身を潜ませた。そして、モバイルを取り出し、慎重にアドレスを打った。何度も文面を読み返し、送信しようとして──そこで指が止まる。それを六回ほど繰り返し、ようやくメールを送った頃には、日差しは夕暮れの色になっていた。  どんな答えが返ってくるだろうか。それとも、返ってこないのだろうか。  花楓は、手の中のモバイルをじっと見つめる。  薔薇の葉が風に揺れた。 ●高貴な赤  黒葛野鶫が、四つ葉のクローバーについて知っていることといえば、「幸せを運ぶ」「幸運の四つ葉」と呼ばれていることくらいだ。妹がいた頃──まだ、母が鶫を鶫だとわかっていてくれた頃──、母が教えてくれたのだ。本当は花言葉やらなにやらあるらしいが、彼にとってはそれで十分だった。  手作りキーホルダーストラップの作成キットをいくつ買おうかと、鶫は指折り数えてみる。できれば優先順位はつけたくない。あいつにはあげて、こいつには渡さない──などということは、他の誰でもない、鶫自身が許せないことだったから。  もしも失敗してしまったときに備えて、渡す人数よりひとつ多めにキットを買った──全部で、七つ。  ストラップの色は、どうしようか?   あの二人はお揃いがいいだろう。かといってまったく同じというのも味気ないので、青の濃淡で違いを出すことにした。空色と、海色。いつか二人が本物の水平線を見れるように。  殺風景な病室で過ごす彼女には、華やかなピンクを。  青空を眺める彼には、太陽のように軽やかなオレンジを。  静かに手を見つめるあの人には、かつて好きだった萌えるような若葉の色を。  そして、あの子には──。  鶫の手は、ふと止まる。なぜ手が止まったのかは、自分でもわからない。ややあってから、鶫はふたたび手を動かし始めた。その手には、赤いストラップ。生きている証、その鼓動が生み出す、いのちの赤を──あの子に。   ●選択の技法  八代青海は、今日も赤いケープのフードを目深にかぶって、その部屋へ向かった。慣れた足取りで、迷いもためらいもなく、まっすぐに進む。  さっとドアを開けようとして──ノックしなければいけないことを思い出す。そうそう、レイギを守らなきゃいけないの。  ノックの音には、すぐ反応があった。 「どうぞ」  誰か、とも聞かずに、部屋の主──岸城朗人は言った。青海は、不用心だなぁとつぶやく。 「狼だったら、どうするの? 食べられちゃうよ」 「だいじょうぶさ、先生の部屋に来てくれるのは、狼じゃなくて赤ずきんだから」  促されて、青海はちょこんと椅子に腰かけた。キィと、椅子がしなる。 「朗人先生にね、聞きたいことがあるの」  赤ずきんは、さっそく本題に入った。時間を無駄にするのはクールじゃないと、昨日見たドラマで言っていたのだ。 「おや、なんだろう?」 「あのね、青海と青葉の将来のこと」 「それは責任重大だ」  岸城は、まっすぐに青海と向き合った。 「先生は病気やけがを治すお医者さんでしょ? でも、病気やけがを治すのはお医者さんだけじゃダメ。青海、知ってるよ」  ちゃんとベンキョーしたからね──青海の言葉に、岸城はうなずいた。 「そう、お医者さんだけでは病気やけがは治せない。看護士さん、薬剤師さん、検査技師さん……それだけじゃない。患者さんのためにご飯を作ってくれるひと、病気のことを調べてくれるひと、手術に必要な道具を作ってくれるひと、その道具を動かすのに必要な電気を作ってくれるひと──たくさんのひとがいてくれて、初めてお医者さんは誰かを治せるんだ」  青海は尋ねる。 「青海は、誰になればいい?」 「青葉のために、かい?」  岸城の問いに、青海はゆるゆると首を横に振る。 「青葉のためだけど、青葉のためだけに、青海はいるんじゃないよ」 「そうだね。つまらない質問をしてごめんよ」 「青海はね、考えたの。病気を調べる方がいいのか、薬を作った方がいいのか。別にどっちでも、青海がなろうと思えばなれるけど、どっちがいいのかなって」  両方になれたらいいけど、ウサギは二匹同時には追えない──青海と青葉は双子だが、青海は、この世にひとりしかいないから。 「そうだね、なろうとする限り、どちらにだってなれる。先生としては、薬を作るひと、かな」 「どうして、そう思うの?」 「薬を作るためには、病気のことをよく知らなくちゃならない。一個の薬を作るのに必要な時間の、その何倍も何十倍も、時間をかけてね」  たったひとつのことを成し遂げるのに、すべてを行わなければいけない──そんなこともあるんだよ、と岸城は微笑んでみせた。  病院は、いつ来ても、どこか寒々しい感じがする。もちろん、温度も湿度も、香りさえも調整されて、実際にはそんなことはないのだが。  緊張を和らげる効果のある香り──生死の狭間をやりとりする血生臭さや薬くささをきれいに覆い隠して、今日も病院のロビーは穏やかな時間が流れている。  黒葛野鶫の荷物は、普段と比べると多かった。それもそのはずで、七人分のおみやげを抱えているからだ。  事前に決めておいたルートで、鶫は病室を巡っていく。 「クローバーだね」 「四つ葉だね」  鏡合わせのような双子──八代青海と青葉が言う。その手の中には、鶫が作った手作りのキーホルダーストラップ──透明なアクリル版と樹脂で、四つ葉のクローバーの時間を永遠に閉じこめた、鶫お手製のものだ。 「青葉は空色だね」 「青海は海色なんだね」  ストラップの色の違いに気づいてくれて、鶫はなんだかこそばゆかった。 「きれいな色ね」  キルシ・サロコスキは、鶫の顔と、キーホルダーストラップを交互に見ながら微笑んだ。 「クローバーっていうのよね、これ。赤い花が咲くんだったかしら」  白い花だよ、先生──鶫がそう言うと、キルシは笑った。 「そうそう、白い花だわ。冬に咲くのよね?」  鶫が病室を出るまで、キルシは鶫の名を呼ばなかった。呼べなかったのかもしれない。 「僕ね、忘れっぽいんだ。いろんなことをわすれる」  それは前からじゃないのか、と鶫は思わず口にしかけて、あわてて言葉を飲み込んだ。穂刈幸子郎は、どこかさみしそうに、手の中のキーホルダーストラップを見つめている。 「さきに、あやまっておくね。ごめんね。もしかしたら、この四つ葉のことも、わすれちゃうかもしれないんだ」  でも、覚えていられる限りは覚えているから──幸子郎は約束だよ、と言って鶫と指切りをした。  彼女はなにも言わずに、キーホルダーストラップを受け取った。無言のまま、ただそれを見つめている。不意に手が動いて、鶫の髪をなでた──いとおしそうに、何かを確認するかのように、念入りに。  じゃあ、また来るよ──それだけ言い残して、鶫は病室を去る。振り返らずに。だから、ドアの閉まる音にまぎれるように、彼女がこうつぶやいたのには気づかなかった。 「……つぐみ」  ドアは閉じられていた。そのこと自体は、いつもと変わらない。 「入るぞー」  いつもと変わらぬノックと声かけ──それだけのことなのに、なんだか緊張する。  あの子──衛宮さつきもまた、いつもと変わらない様子でベッドにいた。倒れたときにくらべれば、顔色も戻っているように見える。 「今日のおみやげは?」  くすくす笑うさつきの、シーツに隠れた膝の上に、鶫はぽんと無造作に包みを投げた。手作りのマドレーヌと、もうひとつ。 「なぁに?」 「おまえ、どんくさそうだから、モバイルとかさ、すぐどっかにやっちゃうだろ? だから、なくさないようにストラップ作ってやったよ」 「なによぅ」  鶫の言い分に、さつきは口をとがらせながら、包みを開けた。 「あ、四つ葉」 「アレだよ、幸せを運ぶっていうやつだろ? ……手術、それがあればうまくいくよ」 「……ん、ありがと」  その言葉に、ほっと肩の荷が下りたような気分になる。さつきは少し何かを考え込んで──ふと口を開いた。 「……クローバーの花言葉、知ってる?」 「え?」 「ううん、なんでもない」  さつきがそう言ってシーツの下に潜ってしまったので、鶫はそれ以上なにも聞けなかった。  右を見る。白い。  左を見る。白い。  前を見る。白い──白衣の女性。 「……もう一度、説明しましょうか?」  白衣の女性──ドクター・ベネットは、御堂花楓に言った。花楓は、もういい、と首を横に振る。正直なところ、言っていることはなんだか小難しいし、面倒な用事はさっさと済ませたかったのだ。 「では、ご両親の承諾を得たら、もう一度来てね。今度は予約はいらないわ」  ドクター・ベネットはそう言って微笑んだ。承諾といっても、もらった書面に電子サインをしてもらうだけだ。言い訳は適当に考えるとして、ドクター・ベネットが用意した文面に対して、おそらく両親はそれほど警戒も持たないだろう。 「医学生の採血実習に協力って、そんな人ほんとにこの病院にいるの?」  花楓の言葉に、ドクター・ベネットはただ微笑むだけだった。 「さて、これで前進するかしら?」  病院の窓から、去っていく花楓の後ろ姿を、ドクター・ベネットは見ていた。 「感心せんな」  ドクター・シュトライヒリングは苦虫を噛みつぶしたような顔で、花楓に渡したという「承諾書」の文面を見ていた。 「あら、でも今は可能性があるなら、何にでも挑戦してみるべきでしょう? 幸い、あの子も協力してくれるんだし」 「協力、ね……」  花楓の血液を採取し、遺伝子解析にかける──それは朗報をもたらすかもしれないし、あるいはまったく無意味かもしれない。 「ここ何年か増えてきてる超記憶障害の研究にもなるし、一石二鳥じゃないかしら」  ドクター・ベネットは朗らかに笑う。その顔を見て、ドクター・シュトライヒリングはため息をついた。 「……熱心なのはいいが、たまには、早く家に帰ってあげたらどうかね」 「あら、先生がそれをおっしゃるの? でも……そうね、お言葉に甘えようかしら。小さな一歩は踏み出せそうだし。たまにはミシェーラに晩ご飯作ってあげないと、わたしがお母さんだって忘れられそうだわ」  もうとっくに忘れられてるかもね──女医は、そういってまた笑うのだった。 ●医学の娘 「どうやったらお医者さんになれるの?」  開口一番、衛宮さつきがそう言うと、後に続けとばかりに、八代青海も手を挙げた。 「はいはーい、それ知っておきたい!」 「あっ、僕も知りたい! あとね、あとね……」  さつきが提案した「親子懇談会」は、本来の意味合いよりも、医師たちへの質問攻め大会といった方がより正確だった。 「さつきったら……」  母は口では困っているようではあるが、実際にはさつきが積極的に質問する様子が嬉しいらしい。にこにこと横に座って、医師とのやりとりを眺めている。図らずもこれまでの進路やライフパスを説明する羽目になった医師たちは、予想していなかった展開なのか、最初はしどろもどろだった。だが、もともと誰かに説明することには慣れているだけあって、てきぱきと説明しだす──欠点といえば、専門用語をさも当然とばかりに織り交ぜてくるところだ。  学校でも、今ごろ親子懇談会が開かれているのだろう──病院内とは、だいぶ趣が違うだろうが。クラスメートの雫が生配信してくれた新入生歓迎会の様子を見るに、一学年あがっても、クラスの様子に変わりはないらしい。さつきや穂刈幸子郎にとって「進級した」という感覚はわからないが、それでもモニターの向こうで、いかにも神妙な面もちで新入生を迎えるクラスメートたちの様子を見ていると、なんだか気持ちが引き締まる。 「あっ、あとね、あとね!」  さつきがまた手を挙げて言う。 「フードビョーって治らないの? 風邪はうがいや手洗いで予防できるし、お薬飲めば治るのに、フードビョーは違うの?」  突然出てきた単語に、医師たちは一瞬意味がつかめなかった。やがて風土病といいたいのだということに気づくと、互いに顔を見合わせた。 「風土病だなんて、難しい言葉を知っているのね」  ドクター・ベネットがにこやかに言う。 「どうして、急にそんなことを知りたいと思ったの?」 「キルシ先生、フードビョーなんでしょ?」  さつきは思い切って、その疑問を口にした。急に息苦しさを感じる──心臓の鼓動が速くなっている。 「そうよ」  対するドクター・ベネットは、きわめて単純明快に応えた。その言葉に、かえってとまどってしまったのは、さつきたちの方だった。 「え、えっと、その、本当に?」 「そうよ。もっとも、キルシ先生たちの病気は、ふたつの丘だけのものではないけれど」 「……ふたつの丘以外のところに行っても、フードビョーになっちゃうの?」 「そうね、残念ながら、その可能性は常につきまとうわ」 「……治らない、の?」 「それはわからないわ、まだね」  まるで世間話をするように、気軽に応えるドクター・ベネットの声音に、なぜかさつきは背筋に寒気を覚えるのだった。 ●父なる風  緊張はしていない──といえば、嘘になる。ニアシュタイナー・シュトライヒリングは、父の書斎のドアをノックした。それは思っていた以上に弱々しい音で、ニアシュタイナーは部屋へ戻ろうか、ほんの一瞬本気で考えた。だが、それもドアの向こうから聞こえた父の声で消えた。 「入りなさい」  許可というより、どこか命令めいた響きは、普段と変わらない。できる限り何気ないそぶりを意識しながら、ニアシュタイナーはドアを開いた。  父──ドクター・シュトライヒリングは、仕事の途中だったのだろうか、モニターに顔を向けたままだった。 「何か用かね」 「……相談ごと」 「ふむ」  さすがに珍しいと思ったのか、ニアシュタイナーの言葉に父は顔を上げた。 「簡潔に」  それだけ言うと、また父はモニターに目を戻す。その姿をまっすぐに見つめながら、ニアシュタイナーは口を開いた。  父に──医師に相談しようとしているのは、高齢者への採血だ。キルシの病気が、この土地由来の風土病だとして、すべての住民が罹患したというわけではない。現にニアシュタイナーも、発症はしていない──はずだ。つまり、発症しておらず、かつ何十年にもわたってこの地で暮らしている高齢者には、「免疫」があってもおかしくはない。  実際に、ニアシュタイナーは毎週末、高齢者養護施設やデイケアセンターへ足を運び、高齢者たちの様子をうかがっていた。 「加齢による脳の萎縮、痴呆による忘却との区別はどうつける? その基準がなければ、難しい話ではないかね」  同僚か、あるいは医学部の学生を相手にするように、ニアシュタイナーの父──ドクター・シュトライヒリングは言った。その語調に内心怯むが、すぐに思い直す──それはつまり、ある意味「対等」の立場に立てているのだから。 「それは……私の力では調べきれない」  ニアシュタイナーは素直に答えた。わからないことは、ごまかさずにわからないと言うこと──科学に携わるなら、それは真実を追求するのと同じくらいに重要な姿勢だ。 「そう、疫病調査は、子どもが思い立ってすぐにできるようなものではない」  その言葉が、ニアシュタイナーの胸に突き刺さる。うつむきかけて、だがまっすぐに目の前にいる医師の目を見て、そこに立つ。 「……医師には守秘義務がある。だから、たとえ実の娘であろうと言えないことはある。だが……公開されている情報の見方を教えるくらいは、できる」 「え」  ドクター・シュトライヒリングは言った。 「来なさい。公開論文データベースの閲覧用IDを作ってやろう。検索キーワードは教えるから、あとは自分で調べるように。どんな些細なことでも、気づいたことがあったら遠慮せずに言うように。わたしは、それがたとえ既知であっても、必ず耳を傾けよう。インスピレーションは《我々》を救う。いずれそれはおまえにも実感できるだろう」   ●確率の夢  怖くない──と言ったら、嘘になる。  衛宮さつきは、ベッドに横たわったまま、白い天井をただ見上げていた。ここは静かだ。だが、ドアの向こうはあわただしい。それもそのはず──これから、さつきの心臓移植手術が始まるのだから。  昨日、キルシ・サロコスキにあれだけの大見得を切ったのだ。ここで震えるわけにはいかなかった。 「先生、あのね」  明日は手術──そんな日でも、さつきはキルシにいつもどおりの「授業」を求めた。いつもと違うことをしたら、何かよくないことが起こりそうな気がしたからだ。 「わたしね、将来お医者さんになるって決めたの」 「まあ、それはすてきなことだわ」  さつきの意気込みに反して、キルシはどこか暢気そうに応える。 「でね、先生の病気を治すの」 「……それは、嬉しいけど」  キルシは言葉を濁す。 「ねえ、先生。心臓が止まるって、死ぬってことなんでしょう?」  唐突に出てきた「死」という言葉に、キルシの表情がこわばった。 「あのね、手術で新しい心臓を入れるあいだ、わたしの今の心臓は止まっちゃうかもしれないんだって。そのあいだは人工心臓っていうのに切り替えるって言ってた。だから、わたし、手術の間にちょっと死んでるんだと思うの」 「さつき?」  ふと見たさつきの手が震えていることに気づいて、キルシはそっと自分の手を重ねた。さつきの手がぴくりと跳ねて、キルシの手をそっと握り返す。 「でもね、わたしは手術が終わったら生き返るの。生きて、あのお部屋から出てくるの。……だから、先生も待っててね。わたし、絶対、絶対に帰ってくるから」  大昔であれば、適合する臓器がなければ、さつきのような子どもは手術すらままならなかった。脳死を人の死とするか否かで、まず議論していたような時代もあった。脳死判定され、移植可能な臓器があったとしても、大人の臓器は子どもの体には合わず、子どもの臓器の移植を快く承諾するには、親の悲しみと苦悩はあまりに深い。自身の細胞から、必要な臓器を作れるようになるまでは、臓器移植には莫大な費用と、それと同じくらいに時間が費やされたという。  とはいえ、それでも移植手術そのものが簡単になったというわけではない。血管と血管を結び、神経を傷つけないように、筋肉を縫い合わせるのは、やはり相応の技術が必要とされるのだ。幸いにして、臓器のクローニング技術のおかげで自己免疫の問題はクリアされているが、それでも長時間の開腹は、人体にとって大きなリスクを伴った。心臓移植のために、何本も肋骨を切断し、長時間内蔵を外気にさらす──移植の成功率は飛躍的に高まっていても、その後の回復はさつきの体力次第だ。当然、中には移植は成功したにもかかわらず、その後体力が低下し、亡くなったケースもある。  母がそっとさつきの手を握る。 「行ってくるね」  なんと言えばいいのかわからず、さつきはとりあえずそう言ってみた。 「行ってらっしゃい──おかえりを、言わせてちょうだいね。ママとの約束よ」  手術室、その風景をさつきはあまりよく覚えていない。 「はい、ゆっくり深呼吸──一、二、三」  麻酔医の声を聞いたのを最後に、さつきが次に目にしたのは、やはり白い天井だった。  二度、三度とまばたきをする──あれ、手術室へ行ったんじゃなかったっけ? 手術ってどうなったんだっけ?  その後しばらくして、さつきの疑問は解けることになる。 「おかえり、さつき」  母は確かにそう言った。 ●ライサ・チュルコヴァの無口な席  もともと、この教室には人が欠けていたのだ。衛宮さつき、穂刈幸子郎、そしてキルシ・サロコスキ。  三人も欠けていた。そして、また一人。  エルメル・イコネンは、そっと窓際の席を見やった。秋の日差しは柔らかく、あと二時間もすれば夕暮れの色合いへと移るだろう。午後の陽光が眠りへ誘うその席に、座っていた彼女はいない。  もう一週間。  彼女──ライサ・チュルコヴァの姿が教室から消えて、もう七回も陽は昇り、そして落ちた。  最初は話題にもなったが、やがてそれも消えていった。触れてはいけないと感じ取ったのか、あるいは早くも「日常」として受け入れたのか──エルメルは、そのどちらでもなくて。  エルメルは、彼の言葉を信じるよりほかにない。  エルメルは、じっと自分の両手を見つめる。  その手からこぼれ落ちていくものと、つかんで守れるもの──その違いを、エルメルはまだ考えないようにしている。  希望なら、いつだって、この手とともにあるはずだから。 ●夢見る言葉に 「いたずらするから、お菓子をください!」  穂刈幸子郎が張り上げた声に、八代青海は冷静に訂正する。 「違うよ、お菓子をくれたらいたずらしてあげる、だよ」 「あれ、そうなんだ。えへへ、間違えちゃった」 「……今年のハロウィーンは、独創性に富んでいるのねぇ」 『……どちらも違うと思います……』  青海が手にしているタブレットの中で、クラスメートの楪雫が恐縮至極といった面もちで、ぽつりと言ったが、幸子郎たちの耳には届かなかった。  雫が手配した親子懇談会の配信は好評で、ハロウィーン・パーティも配信してほしいと病院側からも正式な依頼があった。そのせいか、雫はすっかり緊張しているらしい。  そんな二人(雫も入れると三人)の子どもを前に、ドクター・ベネットは苦笑しながら、小さな飴を恭しく差し出した。幸子郎は、白いシンプルな包装紙のものを、青海にはオレンジと黒のカボチャのイラストが描かれた包装紙のものを、それぞれそっと手のひらに載せる。 「これで、いたずらは勘弁してもらえるかしら?」 「うん!」 「ケーヤクセーリツ、だね」  何かの約束をして、それを互いに守ろうとすることを、ケーヤクがセーリツすると言うらしい。そのことを知った青海はさっそく使ってみることにした──うん、なんか大人っぽくっていい感じ。 「じゃあ、次はキルシ先生だね!」 「あらあら、いたずらはしないんじゃなかったの?」 「キルシ先生とはまだケーヤクしてないから」  幸子郎と青海は、早足で──かろうじて、まだ「歩く」スピードだ──キルシの病室へ行き、そこでもいたずらしないことと引き替えにお菓子をねだるのだった。 「僕とケーヤクしてお菓子をください!」  その様子は、雫の生配信で、クラスのみんなにも伝わった。 「あのねぇ、僕ね、お願いがあるんだ」  ドクター・ベネットとキルシからもらったお菓子を食べながら、幸子郎は言った。その横には、タブレットが立てかけられており、学校の教室と病院とを結んでいた。 『お願い、ですか?』  雫が首を傾げる。 「あのねー、僕最近けっこう忘れっぽいかも。だからね、忘れないうちに、誰かに覚えておいてもらえたら、助かるなぁって思ったんだ」 「青海、覚えておいてあげるよ?」  赤いケープのフードをかぶり直しながら、青海が言う。 『私でよければ、私も……』 「わ、ほんとー? ありがとー」  二人の少女の返答に、幸子郎はすっかり機嫌を良くしたようで、おもむろに電子リコーダーを取り出した。 「じゃあね、お礼! って言っても、まだ完成はしてないんだけど……これ、僕が作ったんだ。これも忘れちゃうかもしれないから……聞いて、覚えていてね」  そう言うと、幸子郎はそっと演奏を始めた。最初はぎこちない運指だったが、そのうち自分が生み出したメロディを思い出せたのだろう、やがてなめらかに音楽が流れ出す。  雫は、その音色に耳を傾けながら、そっと録音アプリを起動させた。たとえ幸子郎がこの曲さえ忘れてしまったとしても、彼のメロディはずっと残るだろう。幸子郎のことだ、メロディを聴けば、きっと音楽を思い出してくれるに違いない。今この瞬間のことも、きっと──雫はそう思いながら、つま先でリズムを取る。笛は人の呼気で音を生み出す。ほかの楽器に比べると、奏でるというよりも、「歌う」というのにより近いといえる。そう思うと、雫にとってずいぶん身近な楽器のように思えた。  幸子郎の笛と雫の声、いつか一緒に歌う日も訪れるかもしれない。  ささやかなハロウィーン・パーティの熱は、午後の潮騒のように静かにひいていった。秋の風が、クロワ・バティーニュとキルシ・サロコスキの髪を揺らす。静かな中庭には、季節の花たちが、徐々に短くなっていく昼の光を存分に浴びていた。  ふたりは同じベンチに腰掛けて、何を話すでもなく、ただ雲が流れていくのを見ていた。 「──キルシさん!」 「はい!」  クロワの突然の声に、反射的にキルシは返事をする。 「先生じゃなくって、さん付けするねぇ。大事なお話だから」 「は、はい」  教え子を前に、キルシは浅くうなずいた。その目の前に、ずいと小さなブーケが差し出された。さらに、やや遅れてクロワの右手──その手のひらには、小さな指輪が光っている。クロワの顔と、ブーケと指輪、それらを交互に見やりながら、キルシはその意味を考える。あら、これってどんなリドルなのかしら──と、思考を巡らそうとした瞬間だった。 「お嫁さんになってください!」 「えっ、はい! えっ」  突然の声に、キルシがとっさに口にできたのは、それだけだった。 「ありがとう、うれしい!」  クロワが感極まったのか、キルシに抱きついた。 「ど、どういたしまして……?」  しばらくクロワの髪をなでてやっていたが、やがてキルシははたと思いつく。 「ね、ねえクロワ?」 「なぁに、キルシさん?」 「わたしたちって結婚できたんだったかしら……?」  その問いに、クロワはあっけらかんと答えた。 「できるよー」 「そ、そうなの……?」  自信ありげなクロワの顔を見ていると、そういえば結婚できたんだっけと、なんとなく納得する。 「ちゃんとね、真面目なお話なんだなぁ。真剣に考えたんだよぉ?」 「は、はい」 「わたしねぇ、先生の家族になりたいの」 「家族?」 「そう、お母さんとかお父さんとかになるのは難しいかもしれないけど」  キルシに家族と呼べるものはいない。何度もお見舞いに来ているうちに、クロワにもそれは薄々わかってきていた。長期入院しているというのに、誰も来ない。その孤独は、治るかどうかの見込みすらわからない病を抱えたキルシにとって、いかほどの苦痛だっただろうか。  家族がいないなら、家族になればいい。  そのことに気づいてしまえば、あとは簡単だ。 「結婚って、それまで他人だった人同士で、新しく家族を作ることなんでしょ? だから、わたしとキルシさんは結婚しちゃえばいいんだよぉ。ね、これで新しい家族のできあがり!」  だからね、指輪も買ってきたんだよ──そう言って、クロワはキルシの薬指に、自分とおそろいの指輪をそっとはめる。お小遣いの限界に挑戦し、妥協せず、とはいえ予算に限りあるなかで正々堂々と引かぬ媚びぬ省みぬの精神で値切り交渉までした、精一杯の「家族の証」だ。 「わたしとキルシさんは家族だから、先生っていわないよ。さん付け。ね?」  薬指の指輪をまじまじと見つめながら、キルシは考える。家族──ずいぶん前に失ったもの。なくしてしまったら、もう二度と手に入らないと、そう思っていたような気がする。 「なぁんだ」  キルシはつぶやいた──そんなに難しいことじゃなかったんだわ。  深夜──だが、病院は眠らない。  採血実習と称して承諾させた件の分析結果は、ドクター・ベネットの顔をほころばせるものだった。御堂花楓とキルシ・サロコスキ──両者の間で、明らかに異なる遺伝子配列があったのだ。もちろん、これがルアナ症例の治療の鍵となるかどうかは、わからない。だが、それでも何らかの進展があったことに変わりはない。詳細な分析が進めば、治療の糸口がつかめるかもしれない。 「さて、と。母の手料理ってやつは、またしばらく我慢してもらわなくちゃね」 ●通達(生存者の薔薇園)  最初は、小さな小さな──空をどんなに注意深く見ていても見落としそうな──点に過ぎなかった。  いつもと変わりない、午後の日差しの中で、誰もがいつもと変わりない夕暮れを迎えるものだと思っていた。  猫たちが、じっと空を見上げている。その髭はピンと前を向いていた。  空を普段から見上げる習慣があったなら、それに気づくこともできたかもしれない。だが、それは最初はあまりにささやかすぎた。  ふと落ちた影に、太陽──と便宜的に呼ばれているもの──が雲に隠れたのだと思ったときには、それは地表近くまで降り立っていたのだ。何気なく空を見上げ、そして息をのむ。  大きな。  あまりに大きな、影。  それが何であるかを認識するのに、時間がかかったのも無理はなかった。かつて、この星に強制的に降りざるを得なかったあの船のことを、リアルタイムで覚えているものはもういなかったのだから。 「あれ、なぁに?」  ティベリス通りで、その影を指さす子どもの無邪気な声が、やけに透き通って響いた。  地上の人々の視線を一身に浴びながら、その影はやがて言った──最初は音声で。次に紙という貴重なメディアを、惜しげもなく地表にばらまいた。そこに書かれていた文字は、日頃使っているものとよく似通っていたので、解読するのは容易だった。  ──そして、その内容は、瞬く間にネットワークの海にも広がっていった。 「我々は太陽系の第三惑星、あなたたちの故郷である地球からやってきた。我々は、あなたたちに危害を加えることはない。我々は、あなたたちと再び出会えた奇跡を、この宇宙のすべてに感謝する。我々は、同じ地球から生まれた者として、あなたたちの生存を心から喜び、そしてこれまであなたたちが味わったであろう様々な辛苦を分かちあいたい。それがたとえ罪滅ぼしにさえならないとしても」  そして、大きな影──それが地球生まれの恒星間用駆逐艦だと知る者は、この星にはいなかった──は言った。 「ビス・エバンス、クリス・グランヤード、葉柴芽路──どうか、我々と会ってほしい。この星で生きることを決意した勇敢なあなたたちと、地球に生きる我々とを、どうかつないでほしい。ヘルヴァの名をもらった彼女も、あなたたちに会えるのを心から待っている」 -------------------------------------------------- ■ マスターより -------------------------------------------------- ・次回で最終回です。リアクション発行が遅れ、大変申し訳ございません死ぬ。 ・ご結婚おめでとうございます。お二人の幸せを末永くお祈り申し上げます。 ・なんか来ちゃいました。関わるも関わらないも、みなさんの自由です。 -------------------------------------------------- ■ 登場PC・NPC一覧 -------------------------------------------------- 【PC】 ・ニアシュタイナー・シュトライヒリング ・御堂花楓 ・黒葛野鶫 ・八代青海 ・衛宮さつき ・穂刈幸子郎 ・楪雫 ・クロワ・バティーニュ 【チラリズム系PC】 ・アレクセイ・アレンスキー ・エルメル・イコネン ・ビス・エバンス ・クリス・グランヤード ・葉柴芽路 【NPC】 ・岸城朗人 ・八代青葉 ・キルシ・サロコスキ ・ドクター・ベネット ・ドクター・シュトライヒリング ・衛宮さつきの両親 ・黒葛野鶫の母親 【チラリズム系NPC】 ・ライサ・チュルコヴァ ・M/ヘルヴァ