-------------------------------------------------- PBeM『VOiCE』第5回リアクション 05-E 君は彼を見たか -------------------------------------------------- ●救済の作法  新学期になると、にわかに学校内がにぎやかになる。まだ「学校」という時間感覚やルールに慣れない新入生たちのとまどいや、上級生としての自覚を持てと言われて緊張する生徒たちの心に、校舎も反応しているようにさえ見える。  新入生たちの中には、まだ親に送り迎えされていたりする子どももいる。いずれは一人で、あるいは近所の友人たちと連れ立って登下校するようになるのだろうが、これもまた恒例行事めいた風景だ。その風景を眺めながら、エルメル・イコネンは今さっき入力したばかりの文面を、もう一度読み返した。 《学校周りに不審者がいます。身長はけっこう高くて、180cmくらい。茶色い髪で、首からカードを下げています。名前はノエ・マルクリー、男の人。ライサさんを追いかけてる。助けて》  あのとき、顔写真でも撮ってやればよかったと、エルメルは内心後悔した。写真付きで流してやれば、きっと周囲も気づきやすくなるのに──だが、あのときにそんなことが思いつけるはずもなく、エルメルは目に焼きつけた姿かたちをなるべく脚色せずに書くしかできない。だが、それだけでもきっと効果はあるはずだ。  エルメルは、ゆっくりと「送信」を押した。次の瞬間には、メッセージラインに投稿された。何度もやったら鬱陶しがられるだろうが、なるべく一日に二度、三度と投稿することに決めた。メッセージラインはもっぱら他愛ないおしゃべりで埋め尽くされるのが常だからだ。 「モイ」  不意にかけられた声に──なぜかひどく弱々しく聞こえた──エルメルは振り向いた。昼休みの日差しで、銀髪が輝いた。 「モイ。……おはよう、ライサ」 「おはよう。って言っても、もうお昼ね」  銀髪の少女──ライサ・チュルコヴァはそう言って、どこか自嘲気味に笑った。ライサは、ここ数日、登校時間はバラバラになりつつある。 「今日はだいじょうぶだった?」 「ん、なんとか」  ノエ・マルクリーのことは、すぐに担任のローマン・ジェフリーズにも伝えた。事態を重く見たローマンは、すぐに他の教職員にも掛けあってくれたらしい。放課後には、正門・裏門どちらにも教師が立っているようになった。それというのも、ノエが現れたのが放課後だったというエルメルの報告を受けて、だ。だが、ノエも手馴れているのか、放課後ではなく登校時間や休日を狙うようになったらしい。登校時は同じような時間帯に生徒が集中するし、今の時期は保護者もいる。まぎれてしまえば、追うのも難しい。下手に追って、不用意なトラブルを引き起こすのもまずい。実際、ノエも教師や保護者相手には「紳士的」らしい。学校側としても、ノエが何かやらかせば対応のしようもあるが、今の時点ではこれ以上手のうちようがなかった。 「明日はね、宝花や春希と一緒に病院へ行くの」  そう言って微笑んでみせるライサは、普段と変わらない。だが、どこか疲れたような笑顔だ。 「そうなんだ」  あの陳宝花が一緒なら──エルメルは少しだけ安心する。怪しい大人に回し蹴りを食らわすくらいは、きっとできるだろう。 「今日も、誰かと一緒に帰るんだよ」 「……うん」  エルメルの言葉に、ややあってからライサはうなずいた。 「どうしたの?」 「ううん、なんでもない」  ライサはゆるゆると頭を振った。その仕草は、やはりどこか疲れているような、そしてなんだか淋しげに見えた。 ●匿名裏学級次元から来た人  ──スクープ! あの先生の自転車の色は赤!  いつの間にか、クラスメートに配信されるようになった匿名裏学級新聞(※タイトル)は、ほぼ毎日のように配信されてくる。日頃のささやかなニュースや、港湾施設で働く人々など、いったいいつ取材したのかわからないような情報まで、にぎやかに紙面を飾っている。  その中でも、子どもたちの関心を一番集めているのが、ハロウィーン・パーティカウントダウンタイマーだった。秒刻みでカウントされるそのタイマーを見ていると、なぜかハロウィーン・パーティの準備をしないといけないような気持ちになるのだ。  匿名裏学級新聞は、誰がいつ、どこで編集しているかは誰も知らない。知られてはいけない。別に知られたからといって何があるというわけでもないのだが、この手のことは秘密の方がきっと楽しい。瀬木戸鈴夏は、そんな風に思っていた。 「つまりね、秘密の編集部ってわけ!」 「なるほどねぇ」  歴史資料館職員のケント・マクナマラと、噛み合っているような、いないような、傍から見ればずいぶんとほのぼのとした会話を交わすのが、鈴夏の放課後だった。 「そういうのっていいよねー。なんか秘密ってカッコイイじゃん」  そう言いながら、今日もお菓子を食べる。もちろん、室内では食べずに、玄関の外で。髪を揺らす風は、夏の頃と比べると涼しくなった。日差しも柔らかくなり、外でお菓子を食べるには絶好の季節だ。 「そういえばさー、またいたんだよ、あのオジサン」  鈴夏がぽつりと言った。 「ああ、学校に出てくるっていう?」 「そうそう」  先月末から、学校の近辺に不審者が出るという。鈴夏は「フシンシャ」という響きに、怪人めいた容貌を想像していたが、実際には普通の人間だった。とはいえ、クラスメートのライサ・チュルコヴァの周囲を探っているらしい、という噂は鈴夏の耳にも入っている。 「怪しいねぇ。先生たちは何かしてくれてるのかい?」 「放課後はいっつも校門のとこで見張っててくれてるけど、今のところはそれくらいかなぁ」  そもそも、何のためにライサを調べているのか、鈴夏を始めとする生徒たちには、それが分からなかった。そのため、一部の女子の間では、「ライサをアイドルデビューさせるためにスカウトに来た」という根拠のない噂話まで生まれているほどだ。当のライサも、不審者を避けるためなのか、最近では登校時間が不規則になっているのも、噂話に尾ひれがつく原因のひとつかもしれない。学校側も今のところは、ライサの登校に関しては黙認しているが、口さがない子どもたちの間では、やっかみめいた陰口も流れるようになってきている。 「まー、ライサってけっこう美人っていえば美人だしー」  鈴夏はお菓子の最後の一口をぺろりと平らげると、タブレットを取り出した。 「まあそれはいいとして。さーてと、ケントおじさん、本日のお仕事デッス」 「やれやれ、飽きないねぇ」 ●薔薇代理人  薔薇の花びらを、雫が伝う。早朝の涼やかな空気が、生い茂る葉に朝露を下ろす頃、皆藤華名は薔薇への水やりに余念がない。土日はもちろん、平日でも登校前に必ずこの作業をするのが、華名の日課だ。たまにしばしば頻繁に遅刻するが、薔薇のためなのだから仕方がない。時間は有限だ──薔薇も、華名にとっても。その限られた時間を惜しみなく薔薇に注ぐことこそ、まだ十歳という幼い少女はがらも、華名の生き甲斐ともいえた。 「あら、おはよう」  声に振り向けば、そこにはこの薔薇園の主であるオーガスタ・ジェフリーズの姿があった。作業をするつもりだったのだろう、その装いは泥や露に汚れてもいいように、貴古したネルシャツとジーンズだった。日頃から薔薇の世話で体を動かしているためか、年齢に比べると若々しく見える。 「おお、オーガスタ殿。これはよいところに」 「あら、なにかしら?」  華名は自宅から持ってきた挿し木鉢を指さした。まだ若い蕾が、その前途を思わせるように朝日に輝いている。 「ここに植えたいのじゃ」 「まあそれはかまわないけれど……どうしたの、華名の薔薇園はもう手狭なのかしら」 「いや、そうではなくてな」  そう言うと、華名は慣れた雰囲気で、オーガスタを薔薇園に備えられたテーブルセットの椅子へと誘う。誘われるままに、ごく自然な様子で椅子に腰掛けたオーガスタは、華名が話し始めるのを待った──華名が持ってきた鉢をちらちらと見やりながら。 「この薔薇園は素晴らしい。隅々まで手入れが行き届いておる。それもすべてはオーガスタ殿が薔薇を愛しているからじゃ。そうであろう?」 「あら、なぁに、いきなり?」  突然始まった誉め言葉に、オーガスタは思わず笑い出す。だが、華名はいたって真剣だった。 「しかし……ローマン先生は、この薔薇園を継ぐ気はないのだろう?」  華名の言葉に、オーガスタの笑顔は寂しげなものに変わった。ふと視線を落とし、どこか自嘲気味にうなずいた。 「あの子は、薔薇には興味がないのよ。いえ、……そうね、もしかしたら嫌っているのかもしれない」 「な、なんだと!?」  華名から一瞬で血の気が失せた。 「ど、どういうことじゃ……薔薇が嫌いだなどと、ありえぬ。人類としてそれはありえぬ」 「そうね……でも、あの子にとって、薔薇はわたくしの象徴のように見えているのかもしれないわ」  だって、あの子はわたくしが苦手なんだもの──さらりと言うが、オーガスタの声はひどく気落ちしているように聞こえた。 「厳しくしすぎたかもしれないわ……でも、優しさや甘えだけでは、人は大人になれないの」  華名は何度も大きく頭を振り、何度も深呼吸を繰り返した。そうでもしないと、気持ちが落ち着かない。 「ありえん……ローマン先生め、思った以上に無粋な男だな!」  華名は内心で舌打ちする。なんということだろう。薔薇が好きでもないどころか、もしかしたら嫌っているかもしれない輩に、この薔薇園を相続させるわけには、断じていかぬ! 「ふふ、そうね、男の子ってそういうところがあるものね」  笑うオーガスタの目には、どこか諦めが宿っている。華名はオーガスタを、そしてこの薔薇園の薔薇たちを見ていると、心が締め付けられるような思いだった。  華名はがたりと立ち上がった。椅子が勢いよく後ろに倒れかけるが、絶妙なバランスで立ち直った。その様子を、オーガスタはただまじまじと見つめるだけだ。 「あいわかった! ローマン先生の好きにはさせん!」  華名は胸を張って、きっぱりと言い切った。その声に驚いたのか、どこか近いところで、小鳥が何羽か飛び立つ羽音がした。 「この薔薇園は、いずれは──考えたくもないことだが──ローマン先生の名義になってしまうのだろう?」 「え、ええ、まあそうね。そういうことになると思うわ」 「このすばらしい薔薇園を、一代限りで終わらせるわけにはいかん! 人類にとってそれは許しがたい狼藉であり、冒涜以外の何物でもない!」  オーガスタは、もはやただ華名の次の言葉を待つしかなかった。それと同時に、そこまで自分の薔薇園のことを気にかけてくれることに、救われるような気さえする。だが、それは口に出さずに、華名の演説に耳を傾けた。 「薔薇は強い。そして美しい。ずーっとずーっと、薔薇は美しく生き続けるのじゃ! それが自然の摂理である! オーガスタ殿もじゃ! 薔薇が咲く限り、薔薇の蕾がほころぶ限り、薔薇の葉が生い茂る限り、ずーっと元気に薔薇の世話をする! そういう風に決まっておるのじゃ!」  そこまで一気に言って、華名は大きく息を吸って、吐いた。 「私が死ぬまで面倒見よう。私の薔薇も、オーガスタ殿の薔薇も」  そう言い切った華名は太陽のように笑ってみせた。 「これからは、オーガスタ&カナ・ロースガーデンじゃ。良い名であろう? オーガスタ殿の薔薇園は、人類の歴史に長く深く刻まれるべきなのじゃ」  華名は意を決して言った──薔薇のため、人類のため、ここで我が身を礎とする。そう決めてきたのだ。 「もののついでじゃ、ローマン先生も私が面倒を見てやろう。薔薇のためじゃ、これも仕方あるまい。なぁに、薔薇 のためなら、先生と結婚することも受け入れようぞ。土地は結婚してから私名義にすれば、ローマン先生もそうそう好き勝手にはできまい。私に任せてはくれぬか」  オーガスタはしばらくの間、呆気にとられたのか、きょとんとしていたが、やがてゆっくりと笑顔を浮かべた。そして、少女のように笑い転げた。 「そ、そうね……そうだわ、あなたがいるなら、そう、薔薇は咲き続けるわ、わたくしがいなくなっても」  笑いすぎたのか、それとも別の理由か、涙を拭いながらオーガスタは言った。その声はどこか吹っ切れたように、明るさを取り戻していた。 「じゃあ、今度の日曜日はホームセンターへ行きましょう。オーガスタ&カナ・ローズガーデンのすてきな看板を作らなくちゃ」 「うむ!」 「婚姻届けを出すのは、華名が大人になってからよ? それまでは、あなたは好きなだけ恋をして、人を好きになってちょうだい。わたくしのためでもなく、薔薇のためでもなく、あなたのために恋をするのよ。……まあ、恋って落とし穴みたいなものだから、どんなに気をつけていても、ある日突然落っこちちゃったりするのだけれど」 「うむ、心配するでない。私は薔薇一筋じゃ、浮気はせぬよ、オーガスタ殿」  オーガスタを安心させるように、穏やかな祖父のように言い聴かせる華名を見て、またオーガスタはくすくすと笑うのだった。 ●幽霊大工  雑木林は、今日も静かだ。夏の間に生い茂った下草も、そろそろ秋の色合いになりつつある。あと数ヶ月もしないうちに、今度は枯れ葉が地面を覆い尽くすことだろう。  足に感じる草の感触を楽しみながら、水無月千鳥は雑木林の中をまっすぐ目的地に向かって歩いていた。足取りに迷いはなく、むしろ軽やかだ。思わずスキップをしたくなるが、それはぐっとこらえた。何せ、相手は気配には敏感なのだから。  やがて、木々の間に目的の物を見出した千鳥は、そっとそこへ近づいた。木の陰から窺う限りでは、どうやらお目当てもそこにいるようだ。  抜き足、差し足、猫の足取りで──千鳥はハンモックの下に潜り込む。気付かれないように、なるべく気配を消して見上げると、ハンモックの網越しに背中が見えた。教室で見た時と変わりない、淡いブルーのTシャツだ。 「──ねーこさーん!」  今日は、いつもと趣向を変えてみた。毎日同じでは、いかに千鳥とはいえ飽きてしまう。たまにはちょっとした「違い」が必要なのだ。人にも、猫にも。  そんなわけで、いつもなら上からジャンプしていくところを、今日は下から突き上げてみたのだ。 「ふぎゃあああっ!」  そして、今日も雑木林には猫──白戸さぎりの悲鳴がこだました。合掌。 「上からの攻撃には気をつけていたのに……」 「猫さん、さっきからブツブツ言ってるけど、どうしたの〜?」 「主に、というか完璧なまでに千鳥のせいだ」 「それはないなぁ」 「即答!? しかも否定!?」 「あとね、猫さんは幽霊さんを見つけてきて。お願い!」 「さらに重なる理不尽ときた!」 「猫さんは、本物の幽霊の姿が見えるって、本で読んだの」 「なんだそれは。偽書だ。即刻焚書にすべし」 「でね、わたしとしてはね、やっぱり学校が怪しいと思うの」 「ねえ、聞いてる? 人の話聞いてる?」 「だってわたし、どうしても電気の行く先に連れて行ってもらいたいし。猫さんも行きたいでしょ?」 「いや別に」 「だからこれから学校へ行こう! 幽霊さん探しの冒険が今ここに始まるの!」 「行かない」 「じゃあまずは……理科室あたり攻めてみよっかぁ」 「聞いてる? ねえ聞いてる?」 「聞いてる聞いてるー。じゃあ猫さんのリクエストにお答えして、薔薇園にしようかぁ」 「してない! してないよ!? 何を聞いちゃったの、今!?」  今日も今日とて、ほのぼの禅問答はハンモックを揺らすのだった。 ●RIDE THE BLUE NEWS  ──あの若手実業家に隠し子発覚!!  ──相手の女性と隠し子の画像を入手! 「はい、お待ちどうさま〜。おっと、食事のときは食事に集中!」  陳宝陽は、注文の餃子とエビチリソースをテーブルに置きながら言う。たとえ客でも、食事に対する礼節はしっかり守ってもらう。それが中華料理店「宝花」の数少ないルールのひとつだ。客は、それもそうだ、と笑いながら、それまで読んでいたタブレットをぽいと無造作に置いた。そこには、ゴシップ誌の記事が映っている。暇つぶしによく読まれる、いわば三文タブロイドといったところだが、時折センセーショナルなスクープがあるとかで、なかなか購買者は多いらしい。 「隠し子、ねぇ」  宝陽はぽつりと呟く。その紙面に掲載されている画像は、どこかから隠し撮りでもしたのだろう、どこかピントの合っていない遠景写真だ。もしかすると、本当はもっと鮮明なのだが、想像力をかきたてるために、わざと加工しているかもしれない。ちらりと見ただけだが、宝陽の頭の片隅で、何かが反応する。  ──どこかで見たことある感じだなぁ、誰だっけ?  宝陽は、妹の友人に似ているかもしれない、とだけ思った。だが名前までは知らなかった──ライサ・チュルコヴァとまでは。 ●父なる風  なぜか、その名前を検索することに罪悪感めいた感情を抱いている。エルメルは、たしかにそう自覚していた。ライサが触れてほしくないはずの部分に、自分から土足で踏み込んでいくような気がする。だが、知らなければ守りたいものも守れない。子どもの自分にできることは限界があるが、だからといって何もしないでいるよりよほどいい。  アレクシス・ローゼンハイム──あの男、ノエ・マルクリーはたしかにそう言った。ライサには心当たりがあるのかないのか、それはまだ聞けないでいる。だから──心のどこかでそう言い訳しつつ、エルメルは検索キーを押した。  ほんの一瞬で、ずらりと並んだ検索結果を、エルメルは流し読む。ライサに関係があるのだから、今存命の人物だろう。ここ十年程度に時間をしぼって見ているうちに、エルメルは思わず息を飲んだ。 「ライサさんと同じ……!」  画面に映しだされたのは、ライサと同じ銀髪、そして同じ目の色の青年だった。雰囲気もどこかよく似ている。写真は五年前に撮影されたものらしい。 「アレクシス・ローゼンハイム……ヴェルフェンシステムズのエグゼクティブ・ディレクター就任……」  記事の内容も五年前だった。今は違う役職に就いている可能性もある。次にエルメルはヴェルフェンシステムズを検索してみると、すぐに企業サイトが表示された。電気事業者であると同時に、ふたつの丘でも稼働している水素発電所をはじめとする、発電技術の開発研究を行なっているようだ。  執行役員の一覧には、エルメルが期待したとおり、アレクシス・ローゼンハイムの名があった──役職名は、やはり変わっていた。 「ヴェルフェンシステムズ最高執行責任者……」  そこには、五年分だけ年を重ねたアレクシス・ローゼンハイムの笑顔──そして、その左手の薬指には、シンプルな銀色の指輪が光っていた。 ●喪失の分身  家の中は、部屋という部屋を探した。学校の中ももちろん探した。普段は行ってはいけないと言われている場所にだって、こっそり行ってみた。街の中だって探した。出会う猫に行方を訊いてみたけど、誰も知らないみたいだった。  ぼくは、扉という扉を開けてみた。  だってある時、こんなことを言っていたから。  ──知ってるかい、夏へと続く扉があるんだ。それを見つければ、ぼくらはいつだって夏へ行ける!  そう、だからぼくは、最初はルン=ペルが、ひとりで夏への扉を開けて、夏へ行っちゃったんじゃないかって、心配したんだ。ひどいや、ルン=ペル。ぼくを誘ってくれてもいいじゃないか。  でも開けても、開けても、扉は夏へとつながってはいなかった。もちろん、ルン=ペルへも。扉は部屋と部屋とはつないでいたけど、ぼくとルン=ペルとをつなげてはくれなかった。  ねえ、ルン?  きみはどこに行っちゃったの?  どこに隠れているの?  ぼくのことをからかっているの?  どこかで、きみを捜すぼくをみて、くすくす笑っているんだろう?  きみのことだもの、ぼくが泣きべそかくような頃になって、ようやく姿を見せるつもりなんだろう?  ねえ、わかってるんだよ、ルン=ペル。  きみとぼくとは友達だから、きみの考えてることなんて、お見通しなんだ。    ねえ、ルン=ペル。  出ておいでよ。  どこにいるの?  誰と一緒にいたって、誰と遊んでいたって、一番の友達は、きみをおいて他にいないのに。 * * * 「大丈夫だよ、ぼくらにはインジャがついているんだから」  囁くような小さな声で、けれどはっきりと、山野ニコ=トポはそう言った。  だから、あの壁を越えてゆこう。  その誘いに、西藤はるせは当然二つ返事で快諾した。ちなみに駅のお兄さんこと望月凛太郎においては、いかなる形であれ選択権はない。(※仕様です)  河のような森を越えた先にそびえていた壁は、崩れかけてはいるものの、ニコ=トポやはるせの身長ではとうてい登って越えることはできそうになかった。凛太郎でも、ロープなりの道具がなければ、難しいだろう。 「ロープは一応持ってきたけど……長さが足りないなぁ」  一番手が届きそうな場所はあるものの、凛太郎が持ってきたロープでは少々足らなかった。すると、ニコ=トポが無言でリュックを漁りだしたかと思うと、ずいと長細い束を差し出した。 「ん? これは、ホース?」  はるせが尋ねると、ニコ=トポはうなずいた。 「そっかー。これならつなげれば足りるよ、凛太郎」 「いい加減ツッコミ疲れてきたのが本音ですが、年長者としてはこれだけは言わねばなりません。呼び捨てかッ」 「ほら、これなら途中で切れちゃう心配もないよねー」  はるせの言葉に、ニコ=トポはこくこくと何度もうなずいた。 「無視ですか、そうですか」 「ほらほらー早く結んでー」  急かすはるせに同調するように、ニコ=トポのうなずきも素早くなった。 「あーはいはい、仰せのままに」  凛太郎は大げさにため息をつきながら、ロープとホーストを結んだ。ついでに二人の子どもに、もやい結びのやり方を教えながら、凛太郎はふと言った。 「そういえば、壁の向こう側に行きたいなんて、ずいぶん大胆だなぁ。ジャンゴの影響かい?」  隠者に導かれる冒険者こと、ジャンゴ・リーボリックは、今日は来ていないが、これまでも何度も行動をともにしている。おとなしい──と凛太郎は思っている──ニコ=トポが壁の向こうに行きたいと言い出したのも、おそらくはジャンゴの影響なのかもしれない。 「……えっと」  ニコ=トポは、しばらく間をおいて口を開いた。 「ルン=ペルを探しに行きたいの」  その顔はまっすぐ凛太郎を見据えていた。 「ルン=ペルって……」 「凛太郎はキオクリョクがないねぇ。ルンくんはニコくんの友達だよ、忘れちゃったの?」 「あー……」  はるせの指摘に、凛太郎はふと遠くを見るような目で考え込んだ。だが、それもほんのわずかの間のことで、すぐにロープ+ホースを持ち直した。 「そっか。ルン=ペルは、壁の向こうに行っちゃったんだな?」  確認するように、凛太郎はニコ=トポにゆっくりと尋ねた。ニコ=トポは少し考え込んで、どちらともいえない、というように曖昧に首を振った。 「……わからない。でも、ルン=ペルはいなくなっちゃった。家も、学校も、街の中を探しても見つからなかった」 「……そっか、ルン=ペルはいなくなっちゃったんだな」 「でね、ルンくんは、きっと壁の向こうを探検しに行ったんだよ! ニコくんを驚かそうとしてるんだぁ」  はるせが真剣な顔で言うので、凛太郎は、そうだなとうなずくだけに留めた。  凛太郎の話では、この壁はかつてはぐるりとふたつの丘を囲んでいたという。大昔は野生の大型獣に襲われる人間が少なからずいたためだ。今でこそ、そんな心配は皆無に等しく、凛太郎も教科書の中でしか知らない話だ。  かつては外敵から身を守るための壁も、その役目を終えて、あとは朽ちていくだけだ。必要がなくなったから撤去を、という声は当然あるのだが、街の予算は他に割り振るべきところが、まだたくさんある。 「まあ、いつかは完全に取り壊しちゃうんだろうけどな」  ロープをぐいと引き、その感触を確認しながら、凛太郎は言った。 「放っておいても、この調子じゃいずれは崩れちゃいそうだけど」 「じゃあ、その前に探検に行かなくちゃだね! ルンくんずるいなぁ、そのこと知ってたんだね」  そう言って、はるせは早く登りたいと言わんばかりに、何度も元気よくジャンプする。少し前までは、歩くだけもぱかぱかと音を立てるほど、ぶかぶかだった赤い靴も、いまでははるせの足にぴったりと合っていた。 「じゃあ、まずは凛太郎お兄さんが、危なくないかどうか確認してくるからな。ニコとはるせはその後」  お兄さん、という単語を強調しながら、凛太郎が言うと、当然はるせは不服そうに口をとがらせる。だが、すぐに思い直した──罠にかかる役は、凛太郎でいっか。  ロープを使い、壁を登っていく凛太郎に、はるせは下から声をかけた。 「罠に気をつけてねー」 「えっ、罠とかあるの!?」 「しらなーい」 「い、一瞬本気にしただろ!」  凛太郎の怒鳴り声に、わざとらしく肩をすくめながら、はるせは隣に立つニコ=トポに話しかけた。 「ルンくん、見つかるといいね」 「……うん」 「壁の向こうで、ニコくんが来るのを待ってるよぉ、きっと」 「うん、そうだよね」 「壁の向こうに行ったら、あたしもルンくんに会えるかなぁ?」 「たぶん。ああ見えて、ルン=ペルは恥ずかしがり屋だから、そっと後ろから近づいてね」  ルン=ペルの名を出したとたんに、ニコ=トポは饒舌になる。はるせは、ルン=ペルのことを話すニコ=トポの顔を見ながら、まだ見たことのないルン=ペルの顔を想像する──どんな子なんだろうなぁ。  やがて、凛太郎がロープを伝って降りてきた。 「ダメだぁ。亀裂はあって、そこから向こう側に下りられそうなんだけど、小さすぎるや」 「えー」  はるせが再び口をとがらせるが、凛太郎はその頭をぽんとなでた。その後、二度、三度と何かを確認するかのように、ぽんぽんとなでる。 「なぐさめなんかいらないわ」 「違うって。僕は無理だけど、ニコとはるせなら抜けられるな、たぶん」  その声を聞くやいなや、ニコ=トポがロープに飛びついた。危ないぞ、と呼び止める凛太郎の声も聞かず、ロープを伝って登っていく。慣れない動きで、何度も足を滑らせそうになったが、それでもニコ=トポは登るのを止めない。 「はるせ、おまえついていってやれ。ひとりじゃ、何かあったら大変だ」 「言われなくても!」  はるせもまた、ロープに元気よくつかんだ。そして、いつだったかドラマで見た別れの挨拶を口にする。 「ボン・ボヤージュ、凛太郎」  はるせが亀裂を乗り越えて、滑り落ちるように大地に着地すると、ニコ=トポの姿は見あたらなかった。 「もーう、男の子ってそういうとこあるよねー」  はるせはとりあえず前に向かって直進する。赤い靴はもう歌わない。どんなにはるせが歩いても、跳ねてみせても、赤い靴は歌わなかった。  壁の向こうは思った以上には拓けていたが、それでもやはり高い木々が生い茂っている。おそらく、壁を囲むように林が形成されているのだろう。線路や道路があるところしか見たことがないはるせには、未開の地のようにも見えた。  ぱきり、と足下で乾いた音がした。枯れ枝か何かを踏んだらしい。その音で、茂みががさりと揺れた。 「ニコくーん?」  呼びかけたが、代わりに返ってきたのは、人の声ではなかった。 「にゃーん」 「なぁんだ、にゃーんか」  はるせは茂みに近寄り、その中をうかがう。金色の目がふたつ、暗がりの中ではるせを見ていた。 「ねっこー♪」  なでようと手を伸ばすが、猫はすぐさま茂みの奥へと隠れてしまった。するりと、しっぽの先の柔らかな感触だけが、はるせの指に残った。 「むう。手ごわい」  茂みの中を突き進んでいこうかと考えているうちに、すぐ近くの木々の間から、ニコ=トポが意気消沈した様子で歩いてくるのが見えた。 「おーい、いたー?」  はるせの呼びかけに、ニコ=トポは今にも泣きそうな顔で首を横に振った──泣かないでいられるのは、ニコ=トポが男の子で、はるせが女の子だからだ。  はるせに見られないように、そっと目もとを拭いながら、ニコ=トポは小さな声で言った。 「……いなかった」 「そっかぁ」  はるせもまた、ひどく残念そうに言った。だが、すぐに気を取り直すように、明るい声で告げる。 「あっ、でもねぇ! 猫がいたよ、猫!」 「猫なら……」  ニコ=トポはゆっくりと今やってきた林の中を指さした。 「すごく、たくさんいた」 「ほんとー!? 見に行こうよ!」  はるせはニコ=トポの腕をぐいぐい引っ張りながら、林の中へ入ろうとした。 「あ、」  だが、入れなかった。  危険を感じたわけではない。ニコ=トポが止めたわけでもない。だが、はるせはそれより先に足を進められなかった。    猫。  猫。  猫。  猫。  猫。  街の中でも見たことがないほどの猫。  林の中には、猫が大量にいた。  それが、一斉にはるせを見たからだ。  鋭い目が、はるせを射抜く。  猫はなにも言わない。  はるせはなにも言えない。  それなのに、帰れと言われているような気持ちになる。子猫も数匹いるが、子猫でさえも、はるせを異物を見る目で見ていた。  ニコ=トポが、はるせの腕を引いた。そのまま、ふたりは無言で林を後にした──なぜか、見てはいけないものを見てしまったような気分で。  * * *  結局、ルン=ペルは見つからなかった。そもそもどこへ行ったのかという手がかりもない以上、仕方のないことなのかもしれない。ニコ=トポは気落ちしているようだが、静かに歩いている彼の後ろ姿を見ていると、凛太郎にはなにも言えなかった。  日は傾き始め、夕暮れの訪れもそろそろだろう。疲れたわけでもないが、誰もしゃべらない。普段は饒舌すぎるほど饒舌なはるせも、今日は黙っている。黙って、足下を見ながら歩いている。  赤い靴。  はるせの足にぴったり合った、赤い靴。  サイズが合わない頃は靴擦れも起こしたが、今ではそんな心配もない。  不意に、はるせが足を止めた。  凛太郎は、いつもの気まぐれだろうか、と思ってしばらくそのまま歩いていたが、ふと不安になって振り向いた。  夕日の色を帯びつつある午後の陽光は、はるせの顔に影を落としている。 「歩けない」  はるせが呟いた。 「もう歩けない」 「負ぶってやろうか?」  凛太郎の言葉が聞こえなかったのか、はるせは言った。 「もう歩けないよ」 「……どうして?」  少し先を行っていたはずなのに、いつの間にか、凛太郎の背に隠れるように、ニコ=トポが尋ねた。   はるせはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。 「おねえちゃんが、歌ってくれないから」  それだけ言うと、はるせは不意に顔を上げた。その顔は今にも泣き出しそうに歪んでいる。 「おねえちゃんが、歌ってくれない」  凛太郎は何か言おうとしたが、言うべき言葉が見つからない。そんなものはないのかもしれない。 「でもね、」  はるせはしゃくりあげそうになるのを必死にこらえながら、ひとつひとつ、言葉を吐いていく──涙の代わりに。 「ほんとはね、知ってた」  ひとつ、深呼吸。 「おねえちゃんはね」  ふたつ、深呼吸。 「もういないんだって」  はるせのおねえちゃんは、もうどこにもいない。はるせが赤い靴を履くようになる少し前に、いなくなった。この世のどこを探してもいない──まるでいなくなってしまったルン=ペルのように。 「だからね、探してたんだ。あちこち」  また、深呼吸。 「でもね、いないんだ。いないから、探してもいないんだ」  はるせは足下を見る。赤い靴。おねえちゃんが遺したもの。 「いないから、歩けない。おねえちゃんがいないと歩けない」  そして。  深い、深い、ため息を、ひとつ。 「でも、歩かないと、どこにも行けない」  何かに別れを告げるように、体の奥深くから言葉を汲み上げて、はるせは確かにそう言った。  そして、突然やるべきことを思い出した機械のように、唐突に歩きだした──いつものはるせのように、元気よく、一歩一歩、前へ。  凛太郎を追い越し、ニコ=トポを追い越し、はるせはひたすら前へと進む。  その唇は、『星の海を越えて』を口ずさんでいた。はるせの歌声は、徐々に大きくなっていく。やがて、歌っているというよりも叫んでいるかのような大声で、はるせは歌う。  星の海を越えて はるか  新しい世界へ 翼広げ  二番の歌詞まですべて歌いきってしまうと、はるせは置いてきぼりにしたニコ=トポと凛太郎に向き直る。 「だいじょうぶー!」    それは世界に対する宣言のように、風に乗って流れていった。  赤い靴はもう歌わない。  それなら、はるせが歌えばいい。  赤い靴の分まで。  もういない、おねえちゃんの分まで。  だって。 「おんなのこはねー、強いんだから!」  はるせの後を追うように、ニコ=トポも歩き出す。その姿を見つめながら、凛太郎は呟いた。 「ほんとだよ、女の子はいつだってどこだって強い」 ●騎士ザリネロ 「その、……ライサさんのことで、伝えたいことがあって」  エルメルが言うと、ルーチェはふと眉をしかめたが、すぐに何かに思い当たったようだ。 「そっか、じゃあ入れよ」  ルーチェは気軽に手招きする。想像していた以上に、ルーチェの自宅は大きい。玄関だけでも、エルメルの家の三倍近くはあるだろうか。 「父ちゃん、今日いるしさ。おまえ、ラッキーだったな」  茶化すように話すルーチェは、クラスで見る時と変わらない。だが、たしかに彼は、ふたつの丘の町議会議員ヴィジリオ・ナーゾの息子なのだ。その後姿に、エルメルは言葉を投げかけた。 「……ルーチェさんは、知ってたの?」 「ああ? 何が?」 「ライサさんの……親のこと、とか」  ルーチェは振り向きもせず、ぽつりと言った。 「そりゃあ、まあ。一応は」 「……守ってあげないの?」 「なんでだよ」 「だって……」  エルメルが食い下がろうとすると、ルーチェは気だるそうに振り向いた。 「ライサの母ちゃんと約束したのは父ちゃんであって、俺じゃねえよ」  突き放すような言葉とは裏腹に、顔に浮かぶ表情は暗い。 「……俺が口出ししてみろ、ライサのプライドはズタズタになるぜ。あいつ、そういうとこあるから」 「入るぜー」  ぶっきらぼうにノックをして、ルーチェはドアを開いた。秋の日差しが逆光になって、エルメルの目を一瞬焼いた。思わず目を閉じると、残像めいた影がゆらりと見える。 「俺のクラスメート。……ライサのことで、話があるってさ」 「……こ、こんにちは、おじゃまします」  どうやって話を切り出したらいいのか分からず、エルメルはぼそぼそと挨拶を口にする。 「あー、よく来たなぁ。まあ、その辺に座れや。おい、なんかジュース持ってきてやれ」 「へいへーい」  議員という職務から想像する姿とは、かなりかけ離れた口調に、思わずエルメルは唖然とする。書斎の椅子に腰かけてタブレットを眺めている姿は、エルメルの目から見ても、その辺を歩く「普通のおじさん」と大差なかった。ルーチェは母親似なのだろうな、とエルメルはふと思った。ルーチェが部屋を出ていくと、唐突にヴィジリオが話しだした。 「で、ライサとはどこまで進んだ?」 「……は?」 「は、じゃねーよ。彼氏なんだろ?」 「か、」  鸚鵡返しに言いかけて、エルメルはその言葉の意味に気づく──あっという間に、耳まで熱くなった。その様子に、ヴィジリオはいろいろと察したらしい。 「なんだ、つまんねぇな。まあ、まだ子どもじゃしょうがねぇか。で、話ってのはなんだ? つまんねー内容だったら、ライサとの出会いから馴れ初めに至るまで洗いざらい全部話してもらうぜぇ、コイバナってやつをよー」  エルメルは、ヴィジリオに何をどう返したものかさっぱり見当がつかず、必死に首を横に振ることしかできなかった。ルーチェが持ってきたジュースを一息に飲んで、ようやく本来の目的を思い出せたほどだ。 「……ヴィジリオさんは」 「ヴィジリオでいいよ、俺とおまえの仲じゃねーか」  いつそんな仲になったのか、まったくこれっぽちも思い出せないが、ここは素直に名前を呼び捨てにしたほうがいいらしいということくらいは、さすがにエルメルでもわかった。 「ヴィジリオは、ライサさんのお父さんのことはご存知ですか?」 「あー知ってるぜ。あいつ、顔はいいけど、ぶっちゃけ性格が気に食わねぇ。あ、これ秘密にしろよ」 「また始まった」  ルーチェが呆れたように肩をすくめる。どうやらエルメルのことを気にしてか、ジュースを持ってきたまま、ずっと書斎にいる。 「し、知り合いなんですか?」 「そりゃそうだろ。ふたつの丘の水素発電所建設、受注したのはどこだと思ってんだ」 「えっと……もしかして、ヴェルフェンシステムズ?」 「俺もこう見えて水素族だからな、あいつとはよく会うよ。女の趣味は悪かねぇんだが、後始末がなぁ……っていてぇ!」  ルーチェが思い切り父親の足を踏みつけた。 「……なんとなく、わかりました」  エルメルはうつむいて、ぽつりと言った。 「……おかげで、こういうくだらねぇ記事が出回るわけだ」  そう言って、ヴィジリオはぽいとタブレットを放り投げる。その画面には、タブロイドの記事が表示されていた。 「まあ、いろいろあってな。俺が尻拭いってわけだよ。ライサはうちで引き取ってもよかったんだが、それはそれでな。要するに、四方八方にめんどくせぇ話だよ」  今となっては何もかも手遅れだがな──ヴィジリオは、ため息をついた。  エルメルがルーチェの自宅を出たのは、それから一時間ほど後だった。ライサ母子はこのままゴシップ好きの大衆にとってのサンドバッグになるだけだ、というのがヴィジリオの予想だった。ライサの周囲だけが話題に上り、肝心のアレクシス・ローゼンハイムには結局傷ひとつつかない。とっくに、そういう手はずになっているはずだ──ヴィジリオは忌々しげにそう言った。 「オッス、少年。今日も頑張ってるねー」  ぽんと肩を叩かれて、振り向いたその先には、エルメルが最も見たくない顔があった。 「いいねぇ、お姫様を守る騎士の登場! おじさん、そういうのも結構好きだよー」  そう言って笑うノエ・マルクリーの顔には、悪意はかけらも見えない──それが、かえってエルメルには薄ら寒く感じられた。ノエは、単純に「仕事」としてライサとその母の秘密をえぐりだしているだけなのだ。そこには悪意さえない。 「で、これはおじさんから騎士への忠告なんだけどさ。お姫様を守るつもりなら、尾行くらいは気にしなきゃダメだよ? ああ、顔も名前も出さないから安心してよ。ちょっとしたエピソードってやつだからさ。いやぁ、今回紙面が少し余っちゃってねー」 ●ライサ・チュルコヴァの無口な席  ライサ・チュルコヴァが、今朝登校してこなかったことを、とがめる者はいなかった。誰もが、そっと触れないように、目に入らないように、口にしてはいけない名前のように、ライサの欠席を扱った。  誰も座らない席には、誰も触れなかった──触れてはいけないもののように。  もともと、この教室には人が欠けていたのだ。衛宮さつき、穂刈幸子郎、そしてキルシ・サロコスキ。  三人も欠けていた。そして、また一人。  エルメル・イコネンは、そっと窓際の席を見やった。秋の日差しは柔らかく、あと二時間もすれば夕暮れの色合いへと移るだろう。午後の陽光が眠りへ誘うその席に、座っていた彼女はいない。  もう一週間。  彼女──ライサ・チュルコヴァの姿が教室から消えて、もう七回も陽は昇り、そして落ちた。  最初は話題にもなったが、やがてそれも消えていった。触れてはいけないと感じ取ったのか、あるいは早くも「日常」として受け入れたのか──エルメルは、そのどちらでもなくて。  エルメルは、彼の言葉を信じるよりほかにない。  エルメルは、じっと自分の両手を見つめる。  その手からこぼれ落ちていくものと、つかんで守れるもの──その違いを、エルメルはまだ考えないようにしている。  希望なら、いつだって、この手とともにあるはずだから。 ●通達(生存者の薔薇園)  最初は、小さな小さな──空をどんなに注意深く見ていても見落としそうな──点に過ぎなかった。  いつもと変わりない、午後の日差しの中で、誰もがいつもと変わりない夕暮れを迎えるものだと思っていた。  猫たちが、じっと空を見上げている。その髭はピンと前を向いていた。  空を普段から見上げる習慣があったなら、それに気づくこともできたかもしれない。だが、それは最初はあまりにささやかすぎた。  ふと落ちた影に、太陽──と便宜的に呼ばれているもの──が雲に隠れたのだと思ったときには、それは地表近くまで降り立っていたのだ。何気なく空を見上げ、そして息をのむ。  大きな。  あまりに大きな、影。  それが何であるかを認識するのに、時間がかかったのも無理はなかった。かつて、この星に強制的に降りざるを得なかったあの船のことを、リアルタイムで覚えているものはもういなかったのだから。 「あれ、なぁに?」  ティベリス通りで、その影を指さす子どもの無邪気な声が、やけに透き通って響いた。  地上の人々の視線を一身に浴びながら、その影はやがて言った──最初は音声で。次に紙という貴重なメディアを、惜しげもなく地表にばらまいた。そこに書かれていた文字は、日頃使っているものとよく似通っていたので、解読するのは容易だった。  ──そして、その内容は、瞬く間にネットワークの海にも広がっていった。 「我々は太陽系の第三惑星、あなたたちの故郷である地球からやってきた。我々は、あなたたちに危害を加えることはない。我々は、あなたたちと再び出会えた奇跡を、この宇宙のすべてに感謝する。我々は、同じ地球から生まれた者として、あなたたちの生存を心から喜び、そしてこれまであなたたちが味わったであろう様々な辛苦を分かちあいたい。それがたとえ罪滅ぼしにさえならないとしても」  そして、大きな影──それが地球生まれの恒星間用駆逐艦だと知る者は、この星にはいなかった──は言った。 「ビス・エバンス、クリス・グランヤード、葉柴芽路──どうか、我々と会ってほしい。この星で生きることを決意した勇敢なあなたたちと、地球に生きる我々とを、どうかつないでほしい。ヘルヴァの名をもらった彼女も、あなたたちに会えるのを心から待っている」 -------------------------------------------------- ■ マスターより -------------------------------------------------- ・次回で最終回です。リアクション発行が遅れ、大変申し訳ございません死ぬ。 ・ローマン先生は本人のあずかり知らぬうちに、女性関係がどんどんもつれていきますね。 ・現状が変わらない限り、ライサは次回もほぼ不登校の状態が続きます。 ・壁の向こうには猫さんがいっぱいいました。 ・ところで話は変わりますが、なんか来ちゃいました。関わるも関わらないも、みなさんの自由です。 -------------------------------------------------- ■ 登場PC・NPC一覧 -------------------------------------------------- 【PC】 ・エルメル・イコネン ・瀬木戸鈴夏 ・水無月千鳥 ・白戸さぎり ・皆藤華名 ・山野ニコ=トポ ・西藤はるせ 【チラリズム系PC】 ・陳宝花 ・ビス・エバンス ・クリス・グランヤード ・葉柴芽路 【NPC】 ・ノエ・マルクリー ・ライサ・チュルコヴァ ・ケント・マクナマラ ・望月凛太郎 ・ルーチェ・ナーゾ ・ヴィジリオ・ナーゾ 【チラリズム系NPC】 ・ローマン・ジェフリーズ ・片岡春希 ・陳宝陽 ・アレクシス・ローゼンハイム