-------------------------------------------------- PBeM『VOiCE』第6回リアクション 06-E さよなら、ふたつの丘 -------------------------------------------------- ●Secret Hideout  あの日、初めて「紙」を見たんだ。教科書の中では知っていたけど、この目で見て、触れたのはあれが初めてだったし、たぶん最後だったと思う。不思議なものだよね、あんな薄いものに文字を書くなんて、いったい誰が最初に思いついたんだろう?  でも、世の中的には「紙」なんかより、よっぽど大騒ぎになることがあった──地球からの来訪者だ。彼らはぼくらと同じ、いや、ぼくらが彼らと同じと言った方が正確なのかな。ぼくらの祖先は地球からやってきたわけだから。  あの頃は、大人たちは毎日難しい顔をして、難しい話をしていたっけ。地球が指名した三人が子どもだったものだから、余計に話はややこしかった。ぼくたちは世界の中心にいながら、蚊帳の外に追い出されるような気分でいた。まあ、今となっては全部笑い話かもしれないけど……笑える人もいれば、笑えない人もいるだろう、たぶん。  *   *   *  シュリー・ジルカが初めて「それ」を見た時、それが何であるか認識できなかった。知識として知っているということと、現実に知ったということは、似ているようで似ていなかったのだ。  上空からひらひらと舞い降りてくるそれを手に取ると、シュリーはまじまじと見つめた。薄い、少しざらついた触り心地。表面には文字が印字されている。ただ、それだけ。だが、なんだかそれがとてつもない宝物のように思えて、シュリーは拾ったそれをそっと鞄にしまった。特に見とがめられることもなく──周りは大騒ぎだったので、気にされることもなかった──シュリーは家路についた。  それが「紙」だというのを知ったのは、それから数日後のことだった。  空から紙が降ろうが槍が降ろうが、変わらないものがひとつあるとするならば、それは薔薇だ。  皆藤華名は、そう絶対的に信じている。いや、華名にとっては信じる信じないを通り越して、世界の真実だ。  その薔薇を軽んじることなど、断じてあってはならない。たとえ、相手が自分より何歳も年上で、しかも担任教師であったとしても、だ。オーガスタ・ジェフリーズの薔薇園で、華名はオーガスタの孫であり、残念きわまることにやがては薔薇園を受け継ぐだろう男を相手に熱弁を振るっていた。 「良いかね、ローマン殿? 薔薇は薔薇であり、薔薇であり、薔薇である。オーガスタ殿の孫ともあろう男が、それすら分からぬとはなんと情けないことか」 「はあ……」  延々と話し続ける華名に気後れしているのか、対するローマン・ジェフリーズの返事はどこか覇気がない。それがまた、華名を苛立たせた。 「ええいまったく、それでもオーガスタ殿の孫か! この薔薇園をそなたに託したら、三十秒で枯れてしまう!」 「いやさすがにそこまでは」 「聞く耳持たぬ。そもそも、オーガスタ殿が丹精込めて世話をしているからこそ、この薔薇園は今日このように咲き誇っていられるのだ。そなた、薔薇の世話はできるか?」 「いや、したこともないし、これからする気も……」  ローマンが言い終える前に、華名はテーブルを思い切り平手で叩いた。 「よいか、ローマン殿! そなたは将来わたしの夫となる身だ。だが、薔薇のことに関してだけは、そなたの自由にはさせぬ。良いな、薔薇園はわたしが継ごう。それ以外はそなたの自由とするがよい。ていうか、ぶっちゃけ薔薇園くれ。按ずるな、薔薇以外のことなら、そなたを束縛する気はない。浮気でも妾囲いでも出奔でもなんでもするがよい。どうだ、実に良い妻であろう?」  憤懣やるかたない様子の華名をまじまじと見つめて、ローマンは苦笑いしながら言った。 「……まあ、華名が欲しいというならあげるよ。僕は薔薇は嫌いだからね」  より正確には、「祖母に関わるもの」が嫌いなのだが──それは、ローマンは口にはしなかった。子どもに対して言うべきことではないからだ。  「チキュウ」と名乗る人々の来訪は、瞬く間に街中に広まっていった。当然、西藤はるせも何が起こったのか、それくらいは知っている。 「お客様が来たなら、ちゃんとおもてなししなきゃね!」  母と──そして今はもういない姉が教えてくれたことだ。  来てくれてありがとう。  会えて嬉しいよ。  そんな簡単な言葉でも、伝えなければ伝わらない。伝わらなければ、思いは存在しないも同然だ。はるせは、メッセージラインに気軽に文字を流していく──伝えるために。 《星の海を越えてを歌おうよ! チキュウの人に、ようこそって伝えなくちゃ!》  姉が好き「だった」歌だ。きっとチキュウの人も気に入ってくれるに違いない。星の海を越えて、ここまで会いに来てくれたのだから。 《相変わらず元気っ子ねぇ》  どこか呆れたような笑顔マークつきで、ライサ・チュルコヴァから返信が届いた。ライサは今日も学校に来ていない。けれど、メッセージラインは見ているらしい。この場にいなくても、直接顔を見れなくても、誰かとつながる方法はあるのだ。 《ねーねー、ライサちゃんも歌お?》 《あたしはいいわ、って言っても、聞かないわよね、きっと》 《雫ちゃん、歌すっごく上手でしょ? ソロパート歌ってもらいたくって。ライサちゃんからもお願いしてみて?》 《なにげに他人を巻き込むの上手いわね……》  画面の向こうのライサは苦笑いしているようだ。はるせは気にせず続けた。 《人ってね、いなくなっちゃうんだよ。おねえちゃんは、いたけど、もういない。赤い靴はあるけど、赤い靴を履いてたおねえちゃんは、もういないの。知ってる。だからね、今ここにいるよって、ちゃんと言うのが大事なの》  ライサからの返信を待たず、はるせは文字を打ち続ける。 《ライサちゃんは、どっか行きたいとこある?》 《え、なんd》  何に驚いたのか、中途半端なところで不自然に途切れたメッセージにも、はるせは動じない。 《あのね、女の子って強いの。知ってた? だからね、行きたいところに行けるの。だからさ、行きたいところに行こう? だいじょうぶ、行けるから。だって女の子だもん》  ライサからの返信は来ない。メッセージラインでのやりとりは、相手の都合次第で不意に途切れることも、唐突に再開することもしばしばだ。だから、はるせは気にしない。伝えたから、届けたから──あとは、ライサが考えて決めること。ライサが、なぜかエルメル・イコネンのことを思い出して、耳まで真っ赤になっているのは、画面越しのはるせには当然見えなかった。  はるせが「チキュウ」に対して歓迎ムードなら、陳宝花はそれとは正反対だった。 《宇宙人の手から、ふたつの丘を守るんダ!》  彼女にとって「チキュウ」は宇宙人であり、そして宇宙人とは「せんのー」してくる存在なのだった。何が「せんのー」なのかは知らないが、宇宙人といえば「せんのー」であり、そして「チキュウ」は宇宙人なのだ。兄と見た映画では、たいていそんな感じだった。 《はるせちゃんは、ようこそって歌おうよーって言ってるよ?》  まるで正反対の意見に、当然のことながら、クラスメートから質問が飛んでくる。 《ウム、歌って油断させるのもいいかもしれないナ!》  宝花は、はるせのアイディアも取り込む方向で作戦を検討した。宇宙人は誰を「せんのー」してくるかわからない。宝花かもしれないし、はるせかもしれないし、あるいは大人の誰かかもしれない。もしかしたら、指名された件の三人は「せんのー」済みなのかもしれないし、あるいは宇宙人に抵抗するので差し出せという意味で指名したのかもしれない。だが、はっきりと確信していることはひとつある。 「兵は拙速を尊ぶ!」  宝花はめまぐるしく言葉が流れていくメッセージラインの画面を見ながら、呟いた。すぐに行動しないと、手遅れになってしまうかもしれない。 「まずは、秘密基地だナ。拠点を構えておかないと、すぐにセンリョーされちゃうからナ」  ゲームでも映画でも、たいていそうだから、きっとだいたいそんな感じだろう。持久戦になるかもしれないから、今から食料も調達しなければ──やるべきことはたくさんある。片付けていく端から、どんどん生まれてくるほどだ。 「とりあえず……あの三人はもちろんとして……あとはライサと、春希、かナ?」  なんとなく、片岡春希の名を口にすると、胸のあたりがほわっと熱くなるような気がしたが、宝花は頭を振って、それを追い払う。今は、それどころじゃない……いや、待てよ、それどころの「それ」ってなんだ?  ●Planisphere  思えば、「地球からの来訪者」騒ぎを境に、何かが少しずつ変わっていったような気がする。それは、社会とか世界とかいったものから見たら、とるに足らないものであることは間違いない。ほんのささいな、でも誰かが決意して、行動して、ささやかに変えていったんだと思う。  ためらいながらの一歩が、明日を変えることもある。あの騒々しい日々が過去になってしまった今だからこそ、そんな風に思えるのかもしれないけれど。  *   *   *  エルメル・イコネンは、それほど多くのことを望んでいたわけではない。言葉にしてしまえば、なんということもない。そう──ただ、ライサ・チュルコヴァが苦しんでいるのが、いやだった。ライサの苦しみを思うと、耐えられそうもなかった。きっかけは、そんな感情的なことに過ぎない。だが、エルメルにとっては、それは大きな一歩だっったに違いない。  放課後の教室で、エルメルは自分がついさっき書き上げた文章をじっとにらんでいた。これはいわば予行演習のようなもので、言うべきことを洗い出す意味もあった。  いつものこの時間なら、校庭で遊ぶ生徒たちの笑い声や歓声が聞こえてくるはずだ。しかし、教室も校舎内も、校庭も静まり返っている。校門を一歩出れば、野次馬と大差ないように見える報道陣とやらが今日もいるだろう。その中に、あの男もいるのかと思うと、エルメルは胸のあたりが厭な熱さでいっぱいになる。 「あら、まだ帰ってないの?」  涼やかな声がエルメルに投げかけられたのは、そんな時だった。 「うん……」  どう返していいか、とっさに思いつけず、エルメルは曖昧にうなずき返した。いつの間にいたのだろうか──黒く繊細なレースで彩られたワンピースの少女が、エルメルにほほえみかけていた。 「……ジャンヌさんこそ、どうしたの?」 「ふふ、どうしてかしらね? なぜだと思う?」  この少女──ジャンヌ・ツェペリは、時々こういう物言いをする。謎かけのような、問いかけのような、それでいて、すでに答えを口にしているような。  エルメルは押し黙るしかない。こんな時のジャンヌは少し苦手だ。なんだかすべてを見透かされているような気がする。後ろめたいことなど何もないはずなのに、なぜかうつむいてしまう。 「ねえ、見て」  ジャンヌはそんなエルメルの気持ちを知ってか知らずか、不意に目の前に一輪の花を差し出した。 「……リンドウ?」  季節はずれの花だ。わざわざ花屋で買ってきたのだろうか。 「花言葉はご存じ?」  エルメルはうつむいたまま、首を横に振った。 「──悲しみにくれているあなたを愛する」  思わず顔を上げたエルメルに、ジャンヌはただほほえみかける──差し上げるわ、とだけ言って、エルメルの手元に残されたのは一輪のリンドウだった。    オーガスタ・ジェフリーズはすでに年老いた身だ。日に日に、体の衰えを感じる。薔薇の世話をしていると、膝や腰が痛くてたまらない時がある。風に揺れる葉もつぼみも、生き生きと輝いているというのに、オーガスタの手はこんなにも老いている。皺だらけになった手の甲をまじまじと見つめて、オーガスタはひっそりとため息をつく。  本当は、薔薇園のことはあきらめていた。唯一の孫は薔薇に興味はないし──もしかしたら憎んでさえいるかもしれない──かといって、行政が管理してくれるとも思えなかった。薔薇園に対する誇りはあるが、所詮一個人が作り上げたものに過ぎない。薔薇に価値を見いだす者ばかりではないのだ。  だから、オーガスタには、少女──皆藤華名がまぶしかった。純粋に、一直線に、愚直なまでに薔薇を愛している。自分以外の誰もが、自分と同じように薔薇を愛していると信じている。その信仰とも呼べる率直な愛が、老いたオーガスタには強烈な太陽よりもまぶしかったのだ。彼女の人生はまだまだ長い。オーガスタが冷たい墓石の下で眠る頃、華名はまだ青春の真っ盛りにあるだろう。  久しぶりに孫にメールを出した。返信は素っ気ない。  ──あなたの好きにすればいい。  そう、オーガスタの好きにすればいいのだ。オーガスタが生み、オーガスタが育て、そして一緒に死んでいこうと思った薔薇たちは、生みの親たるオーガスタにしか責任がとれないから。 「ありがとう、ローマン」  孫の名をつぶやいて、オーガスタは自身の遺言状にこう付け足した。  ──オーガスタ・ジェフリーズ所有の薔薇園は、皆藤華名に譲渡する。  最初、ルーチェ・ナーゾはそれが誰なのかわからなかった。何気ない風を装って追い越して、顔をちらりとのぞき込んで驚いた。 「はぁ!? なんだおまえ、その格好」  ルーチェが呆気にとられたのも無理はないかもしれない──白鐘鈴香といえば、いつも少年のような格好をしていたのだから。 「見ての通りさ」  対する鈴香の答えは実に素っ気ない。  膝下のプリーツスカートは、落ち着いた雰囲気のダークグリーン。トップスも、シンプルなブラウスにゆったりとしたベージュのセーターと、品よくまとめられている。ブラウスの胸元を彩る濃紅の細いリボンは、全体を引き締めるとともにアクセントにもなっていた。  その姿をまじまじと見つめて、ルーチェはようやく言い返す言葉を思いついたらしい。へらっと笑って、おどけたような口調で言った。 「ンだよ、女装じゃねーか。ハロウィンはもう終わったぜ?」  その言葉に、鈴香はほほえんでみせると、ルーチェはひどく面食らったような顔をした。  鈴香には「夢」と呼べるようなものがなかった。だから鈴香は問いかけた。「夢」とは何か、と。だが、それに答えられる者はいなかった。唯一、クラスメートの水無月千鳥だけは真摯に真正面から向き合ってくれたが──鈴香の求めていたものとはだいぶ違うというか、かなり明後日の方向を向いていて、それはそれで楽しかったが、鈴香を満足させきれるものではなかった。  そんな時に、「地球」から来訪者が訪れた。日常はあっけなく壊れ、今では街中が大騒ぎだ。今朝も学校の前には報道陣がわさわさと陣取っていて、教室までやってくるのも四苦八苦したほどだ。何せ、地球が指名したのが、よりにもよって十歳の子どもだったから──泡を食ってあわてふためく大人たちの顔を見ているのは、鈴香にとってもわりと楽しかった。  だが、それ以上に鈴香は運命めいたものを感じていた。誰も「夢」について明確な答えを出してくれない。そんな時に、空から予想もしないものがやってきた。これはおそらく奇跡と呼ばれるものだろう。鈴香はそう決めた。  大人も子どもも、今目の前にある状況に対応するので精一杯だ。夢や理想──そう呼ばれるものが、現実に対応するのに足を引っ張ることもある。理想を追い求めることは、現実から遠ざかる一面も持つ。  だが、鈴香は違った。夢も、理想も、信念も、今のところ、ない。だからこそ、状況と結果を真摯に見据えることができる。鈴香はそう確信した。  夢にも理想にも信念にもとらわれない、真に冷静で怜悧な大人になれる、と。 「ねえ、ルーチェ」 「お。おう」  鈴香の変貌にまだついてこれないのか、ルーチェは珍しく気後れしたような雰囲気だ。 「ルーチェの父さんは、政治家だったよな? 今度会わせてくれないか。大人と真剣に話がしてみたいんだ」  どこか有無を言わせない口調に、ルーチェは反射的にうなずいた。目の前にいる少女が、単なるクラスメートではなく、人に命令しなれた父、ヴィジリオ・ナーゾのように見えたからなのかもしれない。  水無月千鳥の不満は日に日に高まっていく。地球からの来訪者が来た当初は、なんだか毎日が新鮮で、胸が高まる思いだった。だが、今は違う。うんざり、とか飽きた、とか、そんな言葉ももったいないほど、つまらない。  ──我々、人間は、  ──地球の人間と我々の違いは、  ──本来、同じ星から生まれた人間同士で、  ──たとえ何があろうと、人間は人間である、それは彼らも私たちもかわらないはずで、  毎日、うんざりするほど繰り返される「人間」という言葉。わりとかなり本気で聞き飽きてきた。この騒ぎも、やがて収束するだろう。そのときには、この熱で浮かされたような「人間」談義のことなど、誰もがきれいさっぱり忘れていることだろう。変わらないものがあると言いながら、あっさり変わっていってしまうのだ。その自覚さえなしに。 「もー、そういうのって、どうかと思うわ!」  クラスの雰囲気も、どこか浮き足立っている。自習が続くのは楽でいいが、この調子でいたらどこまでも堕落しそうだ。地球から指名された三人はもうしばらく見ていないし、ライサ・チュルコヴァも学校に来ないし、担任のローマン・ジェフリーズはいつも通りのように見えて、どこかいらいらしているようだし、結局「変わらない」ものなんて、どこにもないのかもしれない。世の中の流れも、人の心も、ふわふわとあたりを漂って、偶然たどり着いたところを指して「これが真実だ」と言う──そんなのって、あるかなぁ。  クラスの話題が、いつも同じ方向──地球の話だ──に向きがちな中で、唯一その話題に興味を持たない者がいた。 「ねーねー、さぎりちゃん?」  つついてみたが、白戸さぎりは机につっぷしたまま動かない。午後の陽光をたっぷり浴びて、満足そうな寝息だけが聞こえてくる。 「むぅ」  さぎりだけは、普段と変わらない。むしろ、地球がどうのといったところで、さぎりには何の影響もないのかもしれない。それはなぜなのか──千鳥なりに懸命に考えて、導き出した答えはひとつ。 「猫ちゃんだからだー!」  勢いよく立ち上がった拍子に、椅子が景気よく音を立てて倒れた。 ●Cicada  地球からの来訪者騒ぎでうやむやになったけど、あのころは地球以外でもいろいろ騒動はあったんだよね。名前はなんていったかな……そう、ライサ、ライサ・チュルコヴァだ。  あの頃のぼくたちには、ライサが見舞われたトラブルの意味は、本当のところよくわかってなかったんだと思う。 さすがに、この年になったら、わかるけど。政治・経済の世界で大きな影響力を持った人の、その隠し子。それがどういう意味を持つのか、あのときの騒動はなんだったのか、今になれば、わかる。わかるけれど……こういうのも、大人になるってことなのかな。だとしたら、……ううん、なんでもないや。  *   *   *  ライサ・チュルコヴァの自宅前には、今や堂々と記者──ノエ・マルクリーの自動車が止まっていた。滅多に見ない自動車に、近所の子どもたちは好奇心たっぷりに遠巻きから見ている。だが、その意味を知る大人たちは、眉をひそめながら子どもたちの目を覆い隠した。 「見るんじゃありません」 「えー、なんでー?」  不満げに唇をとがらす子どもと、その母親とすれ違いながら、エルメル・イコネンは何度も何度も、その言葉を声には出さずに繰り返した。  エルメルに気づいたのか、親戚の子どもに挨拶するような感覚で、ノエは手を振る。エルメルは無視した。その姿に、ノエはさも楽しそうにほほえんだ。  ベルを押すと、長すぎるほどの間があって──ようやく、ライサ・チュルコヴァの声がインターホン越しに聞こえた。 「……モイ」  どこか気恥ずかしげな、ささやくような声だった。対するエルメルは、いつになく強い声で返す。 「モイ、ライサさん」  少しだけ、息を整えて、エルメルは切り出した。ノエがこちらを見ているのは気づいているが、無視した。 「出てこれる? もしよかったら、だけど……」  また長い沈黙。  だが、確かにドアは開かれた。ドアの隙間から、不安そうなライサの顔がのぞく。エルメルは、有無を言わせず、一枚の紙──地球からの来訪者が降らせたものだ──を渡す。反射的に受け取ったライサは、受け取ってから、不思議そうに首をかしげた。 「え、これ」 「今から、言うことは、そこにも書いてあることだけど……でも、自分の口で、自分の声でも、伝えたいんだ」  ライサは手元の紙とエルメルとを交互に見やる。その耳は見る間に真っ赤になっていく。 「……ボクは、ライサさんが好きです。今、君のまわりは君にあんまり優しくないかもしれない。でも、だけど、ボクは君と一緒にいたい。ボクには君をすべての優しくないことから守ることはできないかもしれない。でも、それなら、君の悲しい気持ちやつらい思いを、ボクに分けてほしい。君はボクのあこがれで、これからもずっとあこがれで、だからそんな君に誇れるような自分になるから。だからいつだって、君の隣にいさせてほしいんだ」  エルメルは息を継いだ。 「君に、ボクの隣にいてほしいんだ。ずっと」  エルメルは、まっすぐにライサを見つめる。 「今、ライサさんはつらくて、苦しいと思う。きっと怖いと思う。でも、胸を張って、ボクと一緒に歩いてほしい。ボクは君の隣にいるから。一緒に歩くから。……そのときは、できれば、手とかつないでくれたら、ボクは、きっと、とってもうれしい」 「……バカ」  小さく、ライサは言った。 「……恥ずかしいわ、そんなの」  エルメルはほほえんだ。 「悲しいとか、つらいとかより、恥ずかしいの方が、きっとましだと思う」  それにさ、と付け足す。 「ボクがいるから。恥ずかしいのは、二人で半分こにしよう」  涙が一筋、ライサの瞳からこぼれ落ちた。けれど、ライサの顔に浮かぶのは悲しみではなくて、満面の笑みだった。 「……約束よ、あたし一人に恥ずかしい思いさせたら、絶交なんだから」  そう言って、ライサは手を差し出す。エルメルはその手をそっと取って、優しく握り返した。 「約束するよ」  無粋な男はどこにでもいるもので、エルメルは彼が視界に入った瞬間、気持ちを隠すこともなく盛大に顔をしかめた。  手紙と思いを渡して、エルメルは帰ろうとした。当然、その途中で、ノエ・エルクリーと出くわす羽目になるが、回り道も隠れもしない。正々堂々と、エルメルはノエの自動車の横を通り過ぎようとした。 「いいねえ。青春だね」 「記事にしたければ、お好きにどうぞ」 「あー、それ? うーん、騎士とお姫様の甘酸っぱい物語は、うちの読者層にはウケ悪そうだしなぁ」  エルメルはノエをにらむ。 「まあまあ、そうにらまなくても。あー、そうそう、騎士の勇気に敬意を表して。お姫様の未来にお祈りを」  記者は笑いながらエルメルの顔をのぞき込む。 「お姫様は、もう追われない。役目が済んだから」 「……役目?」 「そう。お行儀の悪い人形に、お灸を据える役。でも人形の手足が焦げたら元も子もなくてね、ここが潮時ってわけ。まあちょうどいいし」  今のは男同士の秘密にしてくよ──そういって、男は笑う。エルメルは笑わない。その表情を満足げに見やって、ノエはじゃあ、と手を振って何事もなかったかのように自動車のエンジンをかけた。  走り去っていく自動車を、その運転席に座るノエの背中を、エルメルはにらみつけた。視線で人が殺せるなら、ノエ・マルクリーの命は今頃なかっただろう。  プラネタリウムは、今日も静かだった。ここだけは、外の騒ぎなど素知らぬ顔で、いつも通りに時を刻んでいる。  辻風麻里子は、なぜかほっとした。ここは変わらない。何があっても、麻里子を受け入れてくれそうな気がした。  受付には、いつものように、ルドヴィカ・ナーゾがいた。麻里子に気がつくと、ルドヴィカはほほえんで手招きする。もはや公然の、けれどもルール違反。そんなちょっとした共犯意識を、麻里子とルドヴィカは共有している。 「そういえば、ルドヴィカさんは、地球のことってご存じでしたか?」  麻里子は慣れた様子で受付ブースの椅子に腰掛けながら、それでもどこか緊張した面もちで尋ねた。 「ああ、アレね。学校では習ったけど……まさか、あっちから会いに来るなんてねー」  ルドヴィカでも、やはり地球からの来訪には驚いているらしい。麻里子は、子どもである自分たちよりも、大人の方が、地球の存在に驚いているような印象を受けた。 「まあ、いつかは再び……みたいなことは言われてたけど、いざそれが突然叶っちゃうとね。しかも、こっちからじゃなくて、向こうから来てくれたわけだし」  大人にとって、地球は、存在こそ知っていても非常に遠い存在だったのだろう。いつか、また──そうはいっても、日々の暮らしや街の未来を最優先して、ふたたび出会うことなどありえないと思っていたのかもしれない。 「今日、学校で、本を借りてきたんです。地球と、移民の歴史の本」  麻里子はそう言って、借りてきた本の表紙データをルドヴィカに見せた。 「へぇ、まだあるんだね。あたしも、これ読んだことあるよ。懐かしいなぁ」  ルドヴィカは懐かしそうに顔をほころばせる。 「地球ってどんなところなんでしょうね」  麻里子は問うでもなく、ぽつりと言った。ふたつの丘とそう変わりはないのだろうか、どんな人が暮らしているのか、星は見えるのだろうか。ここ以外にも、人がいる。生きて、暮らしている。想像するだけで、麻里子の胸は高鳴る──知りたい、と思う。この世界に、この宇宙に、麻里子が知らないことはたくさんある。そのひとつひとつに、この手を伸ばせたら、きっと何かが変わるはずだ。それが何なのかは、まだわからないけれど。 「ふふ、麻里子が大人になる頃には、地球旅行なんてごく当たり前のことになっちゃうかもね」 「そしたら、一緒に旅行に行きませんか?」  するりと口をついて出てきた言葉に、誰より驚いたのは麻里子自身だった。 「あ、えっと、そ、の、あの」  真っ赤になってうつむいた麻里子の頬をぷにっと突いて、ルドヴィカはほほえんだ。 「素敵。星の海を越えて、どこか遠くへ行きたいわね」  麻里子は胸の鼓動が収まるのを待って、口を開いた。 「ル、ルドヴィカさんも、地球とか、宇宙とかって、興味ありますか?」 「んー……そう、ね。ここじゃないどこかには、興味あるかも」  ルドヴィカは一瞬遠くを見るような目で、自分の手元を見つめた。きれいに整えられた爪は、健康的で艶やかなピンク色だ。 「そういえば、さ」 「はい」 「麻里子ちゃんのクラスメートっていう子、うちに来たらしいんだ」 「え?」  麻里子の中に、複数の疑問符が浮かんで消えた──らしい、ってどういうことだろう? 自分の家なのに? 「弟から聞いてさ。ふふ、たまーにメール寄越すかと思えば、ね。どういうつもりなんだか。えーっと……そう、白鐘鈴香ちゃん、だったかな? 結構真剣に話し込んだみたいでさ。見所あるとかないとかあるとか」 「は、はあ……」  たしかに、白鐘鈴香は麻里子のクラスメートだ。いつもは少年めいた服装だったのに、最近はすっかり女の子らしい。少年と少女の間を、思いのままに行ったり来たりしているようで、麻里子は鈴香に「自由」というイメージを抱いていた。 「あたしじゃ無理だし、やりたくないし……ううん、そうじゃないな。たぶん怖いんだ。でも鈴香ちゃんって子は、あたしが行けなかったところに行けるんだと思う。たぶんね」  不意に話し始めたルドヴィカの声を、麻里子はただ聞くだけだ。口を挟める雰囲気ではないし、心のどこかで、そうすべきではないとも感じていたからだ。 「たぶん……たぶん、だけどね。あの人は、あたしの代わりを見つけたと思ってるよ。ルーチェと、鈴香ちゃんと、自分の後を継いでくれるふたり。自分の意志を引き継いでいくふたり。たぶん、それでいいんだ。……あたしは、あそこには帰りたくないし……きっと、帰る資格もない」  麻里子はおずおずと尋ねた。 「あ、あの、あの人って……?」  ルドヴィカは麻里子をじっと見つめて、それから泣き出しそうな笑顔で言った。 「ヴィジリオ・ナーゾ。麻里子も、名前くらいはどこかで見聞きしたことがあるかもね?」  それきり、ルドヴィカは黙った。麻里子も何も言えなかった。  次の日、いつもと変わらない様子のルドヴィカを見るまで、麻里子は胸騒ぎがして仕方なかった──その意味は、わからなくても。 ●Heat Stroke  そういえば、あの時はクリスマス・パーティをしたんだっけ。いろいろ騒動になって、学校の授業もろくにできない時もあったから、なんだかうれしかったな。こじんまりとした、クラス会みたいなパーティだったけど、それでもすごく楽しかった。ふたつの丘にいたのはたったの一年だったけど、それでもぼくはいろんなことを覚えている。それだけ、ぼくにとって強烈な一年だったんだろう。ときどき昔の夢を見るけど、それは決まってふたつの丘だ。白いプロペラがゆっくり回る、あの音を、ぼくはまだしっかり覚えているんだ。夢に見るほどに。  *   *   * 「十二月二十四日は、クリスマスイブなのですよ!」  小柄な体をめいっぱい使って、身を乗り出すように言う野中永菜の声を真正面から受け止めながら、それでもローマン・ジェフリーズは残念そうにほほえむだけだった。  永菜の願いは、クリスマスパーティを開くことだった。なぜなら学校行事にクリスマスがなかったから──という点につきる。宗教とか政治的配慮とか、そんなことは永菜には関係ないのだ。しかし、子どもだけで勝手に騒いではいけないということは、永菜でもわかっていた。地球からやってきた人たちのことで、ただでさえピリピリしているのだから。  そこで、永菜は委員長こと御手留乃歌に相談した。スポーツ大会実施に向けて奔走していた留乃歌なら、何かアドバイスをくれると思ったからだ。 「わかったわ」  留乃歌が力強くうなずいてくれて、永菜は心底安心した。委員長がいてくれるなら、きっとパーティはできるはずだ。  そう思って学校側に挑んだ永菜としては、最大限に譲歩に譲歩を重ねたつもりだった。本当なら体育館を借りて大々的にやりたいところだったが、状況次第では撤回するつもりだった。しかし、それでも学校側は首を縦に振らなかった。結局、平日にクラス内でやるのであれば、と条件付きになってしまった。 「クリスマスツリー飾りたかったわね」  慰めるように留乃歌が言うと、それでも永菜は笑顔を浮かべてみせた。 「ううん、残念だけど……でも、できないより、ちょっとでもできたほうが、絶対いいです! うーんと楽しまなくちゃです!」  まるでこっちが慰められてるみたいね──留乃歌は内心苦笑しつつも、早速パーティプランに取りかかるのだった。  歌おうと呼びかける西藤はるせを、仮に和平派と位置づけるなら、陳宝花はその対極にあっただろう。だが、何が何でも敵視しているというのではなく、それは友人たちを思ってのことだった。宝花なりに、友の気持ちや安全を第一に考えてこその呼びかけだった。  だから、地球から名指しされた三人が、地球からやってきたという「M」と会うのであれば、むしろ応援するつもりでいた。とはいえ、十歳の子どもである宝花にできることは非常に少ない。 「大丈夫、宝花がいるからネ!」  そう言って、宝花は教室の中でも外でも、率先して笑うようにしていた。しかめつらでは、誰も幸せになれない。笑っていれば、きっと必ずいいことがある。そう信じているから。  日に日に、三人を巡る空気は緊張感を帯びていた。会見すると決めた彼らに対して、よりいっそうの好奇の目が向けられるようになった。あんな子どもに何ができるというのか──言葉こそ丁寧でも、荒っぽい内容を口にする者も増えてきている。 「逃げも隠れもしない」  そうきっぱり言い切ったのは、クリス・グランヤードだ。ある意味トレードマークでもあった眼帯をはずした彼は、どこまでもまっすぐに前を見つめている。宝花は、クリスを見て確信した──きっと、みんなと一緒なら、たとえどんな形であれ、みんな笑顔であるべき場所、あるべき形へとたどり着けるだろう、と。  それには、クラス「みんな」でなければならない。臆することなく、宝花はライサ・チュルコヴァに連絡を取った。学校になかなか来なくなってしまった彼女だが、クラスメートであり、何より友だちであることに変わりはないのだから。 「笑おうヨ。そしたら、きっといいことあるかラ」  言葉ではなくて、声で伝えたい──宝花はそう思い立って電話をかけた。何十回ものコール音の末に、ようやく聞こえてきたのは、どこか疲れたようなライサの声だった。 「なに?」 「ちょっとサ、やりたいことがあるんダ」  ライサを誘うのは、宝花にとって特別なことでもなんでもない。遊びに行こう、ご飯食べよう──そんなことの延長線上にある、「ごく当たり前」のことだ。 「ほら、三人が地球の人と会うかラ。三人が真正面から地球の人と向き合うなら、宝花たちも応援しなくチャ」 「応援って言ったって……」 「そりゃあ、できることなんて何にもないかもしれないヨ。でも、ライサも知ってるでショ、友だちがいてくれたら、すごく心強いってコト」  ライサはしばらく黙った。宝花はいつものように話し続ける。 「ライサもなんか大変だけど、でもさ、そんなこと──」  気にすることはない、だって宝花たちがついてるから──そう続けるつもりだった宝花の声は、ライサの声でかき消された。 「そんなこと? そんなことですって?」  声は震えている。 「……そんなこと、そうね、宝花にとってはそんなことなんでしょうね。お母さんがどんな気持ちでいるか、あたしがどんな思いで家に閉じこもってなきゃならないか、あいつらがどこまでも追いかけてくることなんて、全部ぜーんぶ、宝花にとっては、そんなこと、よね!」  吐き出すように一気にまくしたてると、ライサは一方的に通話を切った。それから何度もかけ直しても、メッセージラインで呼びかけても、返事はなかった。   冬の風は冷たく、手袋なしでは指先がしびれそうだ。幸い、今日は天気がいいので、風さえなければ、比較的暖かく感じる。水無月千鳥は、慣れた足取りで校舎裏の雑木林を歩いていた。夏にはあれほど生い茂っていた葉はほとんど枯れ落ちた。今は枝先でかさかさと揺れる数枚がある程度だ。 「あ」  予想通り、千鳥が探していたものは、そこにいた。冬の日差しを受けて、丸くなっている。いつ見ても器用だと思う。不安定なハンモックの上で、バランスをとって、まるで猫のように眠っているのだ──本人曰く、「だって猫だから」らしいが。猫じゃしかたないな。だって猫だから。 「さーぎりちゃーん」  ハンモックに駆け寄ると、千鳥は景気よくハンモックを揺さぶった。さすがに毎回ジャンプして飛び込むのも、そろそろマンネリかなと思ったのだ。人間関係に適度な刺激は必要だって、ワイドショーの司会者が言ってた。ような気がする。景気よくばさばさと枝は揺れ、ハンモックが悲鳴を上げる。 「う、うわっ、何をする!」 「おはよー、さぎりちゃん」  さぎりちゃんという名の猫──白戸さぎりの機嫌は悪そうだったが、千鳥は気にしなかった。世の中には、朝起きるのが苦手なテーケツアツという人がいるらしい。きっとさぎりもテーケツアツなのだ。その証拠に、千鳥がたたき起こすと、いつも機嫌が悪い。コーケツアツになるよう、塩辛いものを食べさせ続けた方がいいかもしれない。 「でもそんなの関係ねぇ!」  千鳥は、以前授業で見た古典芸能の踊りを真似て、己を鼓舞した。昔の人は、この踊りを踊ることによって敵対部族との戦いに備えたらしい。昔の人の考えることはよくわからない。 「……嫌な予感しかしないけど、一応聞こう。何の用だ?」 「騒いでるだけじゃ、何もしないのと一緒だよねぇ?」 「あとどれくらい経験値を貯めたら、《順序立てて話す》スキルが身に付くんだろうな……」 「猫ちゃんって人間じゃないよね」 「そりゃそうだろう。どうして猫が人間なんだ」 「でもさ、さぎりちゃんはさぎりちゃんだよね?」 「うわぁ禅問答きた」 「だからねぇ、さぎりちゃんがさぎりちゃんで、猫ちゃんが猫ちゃんなのって、わたしとさぎりちゃんの髪の色とか目の色が違うのと同じように、それだけのことだと思うの」  千鳥にとって、さぎりはさぎりであり、猫は猫である。千鳥がさぎりでも猫でもないのは、さぎりが猫であっても千鳥でないのと同じなのだ。 「いや、いろいろ違うような気もするが」 「でね、猫ちゃんはどう思ってるのかなって。気になったの。大人の人たち……っていうか、人間はなんか騒いでるけど、猫ちゃんはいつもと変わんないし」 「聞いてる? ねえ聞いてる?」 「猫ちゃんたちはどう思ってるのかなぁ。さぎりちゃん、聞いてきてよ。猫でしょ」 「そりゃあ、ぼくは猫だが」  さぎりは呆れたようにため息をつく。 「猫は猫として生きてるだけだ。後は人間が勝手に全部やるだろう。人間とはそういうものだ」 「うーん、そうなの?」 「そうだ」 「そっかー」  千鳥は首を傾げる。猫であるさぎりが言うのなら、そうなのかもしれない。餅は餅屋、猫は猫だ。さぎりは、千鳥を見て言った。 「まあ、気になるなら猫に直接聞けばいい。ぼくの友だちに抱っこされるのが好きな変わり者がいる。抱っこしながら、そいつにも聞いてみたらどうだ?」  ──それは、まさしく天啓にも等しかった。  抱っこしていいって、それなんて酒池肉林! 遙かなるアルカディア! 近くて遠いパライソ! 会いに行ける神様! 「えっ、いいの!?」 「ああ、いいとも」 「もふもふしていいの!?」 「ああ、当然」 「もっふもふ!?」 「超もっふもふ。ゴージャスもっふもふ」 「もっふもふー!!」  もっふもふな上に超もっふもふで、さらにゴージャスもっふもふときたら、そりゃあもうもっふもふなのだ。 「しあわせって、あるんだねー」  千鳥の声に、さぎりは笑って頷いた。 ●Inverted Qualia  あれだけ騒ぎになったのに、結局テストは中止にならなかったんだよね。他の行事は結構なくなっちゃったのに。スポーツ大会も委員長ががんばってくれなきゃ、できたかどうか怪しかったっていうのに。まあ、学校ってそういうところといえば、そういうところだとはわかってるんだけどね。  ああ、そうだ。サインをもらおうと思って、持ってきたんだ。紙の本──結構高かったんだけど、データで買うより、彼女の思いが手に取るようにわかりそうで、つい買っちゃったんだ。異世界からきた、王子様とお姫様のお話。映像にしたら迫力ありそうだけど、意外と、そんなことはしない方がいいかもしれない。言葉である限り、それはどこまでも自由に奔放に想像できるものだから。シュリー・ジルカ、今じゃ売れっ子の作家さん。クラスメートっていうと、いつもびっくりされるんだ。  *   *   *    試験の結果が返されると、子どもたちのため息や歓声が教室に満ちた。 「あれ?」  片岡春希が不思議そうな声をあげた。 「どしたノ?」 「あ、うん、なんでもないよ」  宝花の問いかけに、春希はあいまいに笑いながら、首を横に振った──成績上位者の中に、普段見慣れない名前を見つけただけのことだ。  珍しいこともあるんだな、と春希はもう一度まじまじとその名前を見つめる。そこには白鐘鈴香の名があった。 「宝花」  不意にかけられたその声に、宝花の心臓が一瞬飛び跳ねた。その表情に、春希が心配そうな顔をする。おそるおそる振り向けば、そこには声の主──ライサ・チュルコヴァの姿があった。 「あ、」  何か言わなければならない──けれど、その言葉が何であるべきなのか、宝花にはとっさに判断がつかなかった。謝らなければいけないが、どう言えば、ライサの心はなだめられるだろう。宝花にとっては何気ない言葉でも、誰かが傷つくことがある。それは、この間いやというほど経験した。 「このあいだは、ごめん」  あっさりと、そう口にしたのは、ライサのほうだった。 「え、あ、」 「ほんとに、ごめん。あたし、いらいらしてて……友だちに当たり散らすなんて、最低よね」 「そ、そんなことなイ!」  宝花は思わず立ち上がる。教室中の視線が一斉に宝花に突き刺さるが、宝花はかまわず口を開いた。 「その、悪いのは、宝花もだかラ。ごめんなさイ!」  勢いよく頭を下げると、おさげが代わりに空を舞う。 「ううん、いいんだ。……悪いのは、あたしだから。宝花は悪くない。……謝らないと後悔しそうだから。そういうの、嫌なの。それだけ」  そう言って笑うライサの顔は、少し寂しそうだった。  図書室で、シュリー・ジルカは、じっと「紙」を見つめていた。薄くて、軽い。携帯するには、なかなか使い勝手がいいかもしれない。しかし、火にくべればあっという間に燃えてしまうし、水をかければぐしゃぐしゃになってしまう。データと違って、あっけなく形を変え、最悪の場合、そこに記されていた文字──思いはまったく読めなくなってしまう。ここまで不都合だらけの面倒なメディアに、どうして人々は思いを、記憶を託したのだろう。 「あら、また見ていますの?」  司書教諭のヴィヴィアン・フェイが、シュリーに声をかける。 「……なんだか、すてきだなって」 「紙が?」  うなずきかけて、シュリーはゆるゆると首を横に振った。 「いえ……紙も、ですけど、紙に思いを託した、その気持ちが」  いつか必ずなくなってしまうメディアに、なぜ人は思いを託したのか。いつか消えてしまう声のように、いつか消えていくものだからこそ、思いの丈をぶつけたのだろうか。届けなければ、届かなければ、消えてしまう──そんな思いを。 「地球って、とっても遠くにあるんですよね」 「ええ、そうですわ」  うなずくヴィヴィアンの、揺れる髪を見つめながら、シュリーは言った。 「遠くても、届かなくても、伝える気持ちがあれば、いつかは伝わるものなんですね」  紙の感触を指で確かめながら、シュリーはつぶやく。 「わたしも、できるでしょうか。誰かに思いを残すことが、わたしの言葉を、誰かに」  ヴィヴィアンはそっとほほえんだ。 「できるか、できないか、なんて、もうシュリーさんに必要な言葉ではないのでしょうね。それはもう、可能性の話を飛び越えているのだわ」  シュリーは首を傾げる。 「いつかわたくしの図書館に、シュリーさんの本を並べる日が来るのですわ。いえ、それは、いつか、なんて曖昧なものではありませんわね。決定的で、確定しているものだもの。ふふ、わたくしの勘はよく当たりますのよ」  そう言って、ヴィヴィアンはいつものように、いたずらっぽくウィンクしてみせた。 ●Sheltering Rain  ぼくのクラスには担任の先生がふたりいた。キルシ・サロコスキ先生と、ローマン・ジェフリーズ先生。でも、キルシ先生は入院していたから、ぼくにとって、ふたつの丘での担任の先生といったら、ローマン先生だ。ローマン先生も、地球からの来訪者騒動のあと、学校を辞めちゃったんだっけ。お別れ会もできなくてさみしかったけど、今日の同窓会には来てくれるって。喜んでる子も多いだろうな、女の子に人気あったし。  そういえば、先生ってばクリスマスパーティにも来てくれなかったなぁ。残念。まあ、今思えば、いろいろ責任とか感じてたんだなっていうのは分かるんだけど。あの頃には、先生たちはみんな大人で、だからぼくらみたいにいろいろ悩んだりはしなくて、答えがわかってるんだって、そんな風に思ってた。大人になってわかるのは、そんなわけないってことだ。  *   *   *  十二月二十五日──いわゆるクリスマスだ。かつてこの地に、なかば強制的に移住せざるを得なかった祖先たちは、不用意なトラブルを避けるために、できるだけ宗教的な儀式や風習を大々的に行うのを避けていた。それ自体はあまり意味のある行為ではなかったが、救援どころか地球との連絡も絶望的だった状況下において、特定の神や価値観に傾倒するのは、危険なように思われていたのだ──事実、カルトめいた小集団が生まれては消え、中には集団自殺や暴行事件といったトラブルを起こしていたこともあったのだから。  だが、それさえも今では昔のできごととして、すっかり忘れられている。人々の思いは、語り継ぐものがいなければ消えていくのだから。 「メリー・クリスマス!」  野中永菜が、景気よくクラッカーを鳴らすと、それに続くようにクラッカーがいくつも鳴らされる。  終業式が終わったあと、永菜が主催となって始めたクリスマスパーティだ。本当は日曜日のイブに体育館まるごと使うくらい大々的にやりたかったのだが、開催できただけでもよしとするべきか。地球からの来訪者騒ぎ以来、過熱報道に見舞われた学校は、ささいなことでも慎重になっていた。生徒主催の自主的なパーティでも、マスコミの手にかかれば、どんな記事を書かれるかわからない──永菜から見れば、過剰反応にもほどがあるが。  とはいえ、クリスマスである。大好きなお菓子やジュースを持ち込んで、夕暮れまで遊ぶのだ。 「えへへ、プレゼント交換だってしちゃうんですよ!」  永菜の満面の笑みは、クラス中に伝わっていく。ポケットの中のとっとこヴァンガード太郎も、なんだか嬉しそうに甲高く鳴いている。 「ウチの自慢のゴマ団子と月餅だヨ!」  陳宝花もパーティを盛り上げようと、自宅から中華菓子を人数分持ってきた。 「はい、ライサも!」  これまでと同じように、宝花はライサ・チュルコヴァにも声をかける──内心、緊張していた。無下に断られるかもしれない。だが、それでも宝花はライサに話しかけた。トモダチだから。 「ん、ありがと」  ライサもまた、どこかぎこちなく笑って、お菓子を受け取った。銀髪はショートカットに変わり、形のいい耳がむき出しになっていた。黒葛野鶫といい、ライサといい、髪を切るのが流行っているのだろうか。宝花は、自分の長いおさげと思わず見比べる。  おいしい、と言うライサの声は、なぜか震えているようで──宝花は妙に印象に残ったが、やがてパーティの騒ぎの中でそれもじきに忘れた。  冬の夕暮れは早い。まだ夕映えを残す空も、あと数十分もしないうちに、夜の闇へと変わるだろう。あれほどにぎやかだった教室には、パーティの喧騒はすでになく、明日の片付けを待つゴミたちは取り残された子どものように、ただ隅にうずくまる。  エルメルは、教室に残っていた。ライサとともに。  短い銀髪は、夕日の残り火を受けて、赤く輝いている。  あたしね、とライサがつぶやいた。ひとりごとのような、ひどく小さな声だった。 「あたしね、結局言えなかった。これでお別れなんだって」  ライサは、転校する。そのことを話してくれたのは、一昨日のことだった。急に決まった話で、新年にはもう新しい街で暮らし始めるという。年の瀬だというのに、慌ただしく引越し準備を進めているらしい。 「……言えないよ。言えなかった。あたしにとってはお別れ会だなんて言えないよね。だって、みんなにとってはパーティだから」  笑っている友だちを見て、誰が別れを言えるだろう。  楽しんでいる友だちを見て、これが最後だなどと誰が言えるだろう。  エルメルは、三回息を吸って、吐いた。そしてライサの髪をそっと撫でながら言った。 「来年もまたクリスマスはあるよ。ライサさんがいないなら、ボクが会いに行けばいいだけだよ」  会いに行くよ、とささやくと、ライサはやっと笑顔を浮かべて頷いた。 ●Wake Up Call  ぼくたちは全然ぴんと来なかったけど、ローマン先生は相当ストレスとか責任感とか感じてたんだろう。なにせ、地球からの来訪者に指名された三人の担任だったから。子どもたちが地球とコンタクトを取っていたのを知っていたのか、あるいは知らなかったのか。知らなかったのなら、教師としてどうなんだ、指導力不足じゃないのか──まあ、そんなようなつまらない話。  全然わかってないよね。  だって地球とのコンタクトだなんて、そんなの、大人に話すわけないじゃないか。  大人たちには内緒にして、ぼくらだけの秘密にするんだ。ぼくがあの三人だったとしたら──確証はないけど、それに近いことはしたと思う。  ぼくらの、ぼくらだけの秘密。「古代遺跡」はそういう場所だったんだから。  でも、ローマン先生は、そう思うわけにはいかなかったんだろう。  だって、大人だったから。  後から聞いた話だけど、子どもたちが自分を信頼できる大人だとは思わなかったから──つまり、自分の教師としての資質と指導力不足も騒動の一因だ、と言って先生を辞めたんだそうだ。  それは全然違うって、ぼくらは知ってる。地球の人たちが来る前に、先生に相談した子もいたって聞いた。そもそも、自分たちの秘密を秘密のままにしておきたいのは、誰だってそう思って当然なんだから、気にすることはなかったのに。  でも、先生は学校を辞めた。  誰のものでもない責任をとって。  ……ああ、もうこんな時間か。つまらない話はもうやめよう。  ちょっと早すぎたかと思ったけど、そうでもないみたいだ。何人か、見覚えのある顔がちらほら見える。あれからもう十年経ったなんて、全然ぴんと来ない。  なんていって、声をかけようか。 「ほら、さっさと声をかけなよ」  不意に、懐かしい声がした。  振り向いても、誰もいないことはわかっている。けれど。 「うん、ルン=ペル」  ぼくはそう返すと、懐かしいクラスメートたちに向かって歩き始めた。 -------------------------------------------------- ■ マスターより -------------------------------------------------- ・ご参加いただきありがとうございました。 -------------------------------------------------- ■ 登場PC・NPC一覧 -------------------------------------------------- ・山野ニコ=トポ ・シュリー・ジルカ ・皆藤華名 ・西藤はるせ ・陳宝花 ・エルメル・イコネン ・ジャンヌ・ツェペリ ・白鐘鈴香 ・水無月千鳥 ・白戸さぎり ・辻風麻里子 ・野中永菜 ・御手留乃歌 ・ 【NPC】 ・ローマン・ジェフリーズ ・オーガスタ・ジェフリーズ ・ライサ・チュルコヴァ ・ルーチェ・ナーゾ ・ノエ・マルクリー ・ルドヴィカ・ナーゾ ・片岡春希 ・ヴィヴィアン・フェイ 【永遠の友だち】 ・ルン=ペル